私淑生。
パブロ・ピカソの絵に拐かされた青年がひとり。回廊でその絵画からの視線に捕らわれている。私は絵画に携わる者として、青年に話を聞こうと思った。青年の視線の先には、確かに作者の意図なるものの結び目が見えていて、解釈の可能性に賭している姿勢を私は経験から(あるいは直感から)確信したのだ。ただ、青年は一枚の絵を小一時間かけて鑑賞することもあったから、ペースを合わせるのにやや骨が折れた。
「そう言っていただけるのは、光栄です」
青年は、丁寧な口調で前置いた。
「しかし、僕はなんて言うか……貴方が思っているような、真っ当な理由はもちあわせていないのです」
青年は奥歯に何かがつっかえているような物言いだった。
「ちなみに、貴方は絵を書くのですか?」
「はい。運良く、イラストレーターのような仕事に就けています」
「なるほど。それはとても素敵なことです」
「僕もそう思います」
青年はエスプレッソを一口飲んで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「貴方はつまり……少なくからずピカソに絵画的な影響は受けている、のではないですか?」
「そうですね、それは間違いないでしょう」
青年は私の目を見据えた。
「僕は、彼の私淑と言っても過言ではないでしょう。彼の作品を一番に愛好しており、模倣も何度も試みてきました」
「あのキュビズムに対峙していた時も、彼の技巧を盗もうと?」
青年は、キュビズムの中にピカソの技術の連なりを感じさせる象徴的な一枚の絵画に、ある種の呪術を受けたように魅了されていた。
「いいえ。それは正確ではないでしょう」
青年はやれやれといったような微笑みを浮かべた。
「これは、僕のどうしようもない性なのですが……正直に言いますと、僕はあの瞬間、極めて性的に昂っているのです」
「性的に昂っている」
「平たく言えば、激しく勃起していたのです」
私は、予想外の言葉に動揺しかけたので、慌てて水を喉に打ち付けた。
「キュビズムとは、対象物を脳内で咀嚼している行為と同義です」
閉館時間が迫るカフェテリアに、人は疎らだ。
「彼はその作品数からわかるように、その行為を幾度となく繰り返してきました。脳内で対象物を咀嚼し、唾液で輪郭を溶かし、再解釈をして提示する……それは、私にとって、志向のエロシチズムなのです」
青年が帰った後、私はしばらくキュビズムに思いを馳せていた。しかし、キュビズムはキュビズム以上でも以下でもなかった。私は青年の解釈を、パブロ・ピカソの私淑の言葉が意味するところを、しばらく考えていたいと思った。