短編小説『ある黒猫の話』
俺の優雅な午睡を、大きな音が邪魔をした。俺は耳がとてもいいから、その劈(つんざ)くような轟音に、生まれて初めて全身の毛が逆立つという経験をしたものだ。体が揺れている。驚きで震えているのかと考えたが、どうも違う。大地全体が揺れていることに気付いたのは、俺の目が覚めてから二十秒程経ってからであった。こんなに大きな揺れは未曾有であり、俺はいささか怖かった。本能的な毛の逆立ちが俺に宛てのない威嚇をさせたが、大地は鳴動を続け俺の威嚇なんて全く気にならないようだった。
あんなに大きな音が出たら、ワダツミさまが目を覚ましてしまったかもしれない。ウチの裏によく遊びにくるユズさんから、たしか聞いたことがある。長いお昼寝をするワダツミさまを大きな音で起こしてしまうと、たいそうお怒りになって海をひっくり返してしまう、と。俺はいささか不安になった。俺が今いるこの場所は木々に遮られて見えないだけで、潮の香りがする場所だ。俺の鼻がとてもいいからかもしれないが、いつもとは違う不穏な香りが俺の恐怖を煽る。ミヨコは大丈夫だろうか。早く帰ってこい。海に飲み込まれてしまうかも知れないぞ。
俺は家を離れ、道に出た。雪が舞っていた、まるで何かの終わりを指し示すかのように。俺は凍えるような寒さを堪えながら、坂道を駆け出した。一心不乱だった。切り裂くような風が俺を穿つ。しかし、この脚を止める訳にはいかない。息を荒げながら、俺は必死に脚を回し続けた。走りながら、聞き馴染みのある足音が聞こえたので、俺はチラリとそこを見た。やはり、ユズさんだった。ユズさんも俺と同じように坂を駆け上っている。
「ユズさーん」
俺は大声で呼びかけた。ユズさんは振り返ると、俺を認識し立ち止まった。
「コウくんじゃない…。無事で何より。」
「ユズさんもだよ…。あれは何だったの?」
「あれは、恐らくなゐふるなんじゃないかしら…?でも、それにしても余りにも大きすぎるわ。アマテラスさまが絡んでなければいいのだけれども…。」
「やっぱり大事(おおごと)なんだね…。そういえば、ミヨコは外なんだけど大丈夫かなぁ…?」
「なゐふる自体は大丈夫だったと思うけれど、今からワダツミさまが…そう、海よ!海を見に行かなくちゃ!コウくんまだ走れる?」
「うん、もちろんだよ!」
俺とユズさんはもう一度駆け出した。普段は通らない道なのに、何故か手に取るようにルートが分かる。今まで体感したことのない速度で俺達は走る。途次(みちすがら)、物憂げに遠吠えを
する鎖に繋がれた犬達の横を疾風の如く駆け抜ける。可哀想に。俺は必ず一瞥をしてやる。山中の道路の傍らにある大きな機械の為の入り口に、俺達は迷うことなく突き進む。木々の間を抜け、原っぱを越える。俺達だけでなく、猪も、氈鹿も、猿も、みんなが同じゴールを目指している。これが本能というものか。俺は初めて感じる野生としての本能に、思わず武者震いをした。
獣道を突き抜けると、ヒトは全くもって気付けないであろう海を望める丘に辿り着いた。海を望むのはこれで三度目だが(二度ミヨコの車に乗せられてギョコウという場所に行ったことがある。魚をたらふく食べた良い思い出だ。)、その不穏な灰色の海はまるで巨大な怪物のようで、それが海であることを疑いたくなるような様相だった。
「…ユズさん、あれは海なの?」
「…信じられないわね。こんなに荒れているなんて…。これはアマテラスさまの憤怒に違いないわ…。」
「アマテラスさまの憤怒?」
「…小さい頃、祖猫から聞いたことがあるの。その時は御伽噺だと思っていたのだけれど…。アマテラスさまは日々私達の振るまいに怒りを感じているけど、怒ってしまうと余りにも大きな影響を私達に与えてしまうから我慢なさってくれているの。だけど、アマテラスさまにも限界があって、千年に一度その怒りが爆発してしまうの。説教をするために、たくさんのヒトやケモノを黄泉の国に引きずりこむって…。」
「じゃあ今から起こるのは…」
「コウくん。目を逸らしてはダメよ。私達はこの儀礼を通して、私達がこの世界にいる奇跡にもう一度感謝しなければならないの…。」
「…。」
俺は何も言えなかった。そして、妙な胸騒ぎが俺を悩ませる。まさかミヨコは…。
ゴォォォォォォォオォオオオオォォォォォ
海が怒りを象徴するように唸りながら俺達の住む世界に近づいてくる。俺はヒトが大きな音を聞いた時そうするように耳を塞ごうとしたが、俺の耳は頭の上についているからうまく塞げない。俺はユズさんの言いつけを守れず、両眼を潰してしまうように固く閉じる。けれども、残酷な音は俺に谺(こだま)する。
ザァァァアア。グォシャガシャグォシャ。キャァァァァ。プーーーーーーーー。イヤァァァアアアァ。グォロングォロン。グアチャグアチャァグアチャ。ナンデダヨォォォォ。
ブァキブァキブァキブァキ。ドゥボンドュボンドゥボン。ヒナンシテクダサイヒナンシテクダサイ。ハヤクシロォォォォォ。アァァァァアァァ。バリンバリンバリン。ダダダダダダダダ。ギュイオンギュイオンギュイオン。グォラグォラグォラ。プーーーーーー。イヤァァァァァァ。
アマテラスさまにかかれば、ヒトが拵えた街を黄泉の国に送ることなんて仔猫の尾を捻るより簡単なんだろう。自身の不運を呪うヒト達の断末魔のような叫びが俺の耳を刺す。建物は骨の軋むような音を立てながら簡単に破壊されていく。必死に海から遠ざかろうとする車を嘲笑うかのように飲み込んでいく。身を寄せ合うようにして集まっているヒトの団子に当然のように覆い被さっていく。
――――キヤァァァ――――
俺は聴き馴染みのある声を聞いたような気がした。そしてそれは俺に涙を流させた。
「…コウくん、これは仕方がないこ…」
「そんな訳ない!ミヨコは優しいヒトだ!アマテラスさまだってわざわざ良いヒトを黄泉の国に送る訳がない!聞き間違いだよ、絶対そうだ!」
「…。」
ユズさんは何も言わずに俺の涙を舐めた。俺はしばらくの間泣き続けた。
夜半のしじまは俺を苦しめる。ユズさんに尻を押されてなんとか家には戻ったけれど、ミヨコのいない家は音も立てずに毅然としていて、俺の不安を煽る。いつもの道に灯っている光はアマテラスさまの憤怒に恐れ戦いてしまったのか、その光を発することが出来ず、周囲は完全なる闇に包まれていた。俺は体が黒いから、自分の手さえその目に映ることはない。自分が空気になってしまったように感じた。俺なんて元々いなかったんじゃないか?今までずっといい夢を見ていただけではないのか?この世界そのものが黄泉の国になってしまっているのではないか?俺は眠りに逃げることも出来ずにただずっと空を見上げていた。少し雲がかかっているが、冥土の土産にしても余るくらい綺麗な星空だ。ふと、俺を柔らかな光が包んでいることに気付いた。半月が雲から顔を出したのだ。俺は自分が生きていることを実感し、また涙を流した。零れた涙が月光をキラキラと反射し、麗しく感じた。
俺の目に満月が映った時、俺はミヨコがもう帰ってこないことを悟った。俺達が黄泉の
国へ向かう時旅に出るように、ミヨコも旅に出たんだ。アマテラス様の憤怒によって無理矢理引きずり込まれたのではなくて、ミヨコの意思で旅に出たんだ。俺のオヤもそうだった。何を言い残すでもなく、当たり前のこととしてパッと消えてしまう。ミヨコは俺のことが好きだから、トシオの時と違って焼(く)べられるのではなく、旅に出ることを選択してくれたんだ。そう思うと、前を向けるようになった。明日の太陽が顔を出したら、俺もこの家を出よう。家というものは、主がいなくなると廃れてしまう。トシオに続きミヨコもいなくなってしまったこの家は、内側からどんどん蝕まれている。俺は耳がいいから、その音がちゃんと聞こえるのだ。これ以上ここにいても悲しくなるだけで居た堪れない。ミヨコの匂いが嗅げなくなるのは寂しいが、俺は頭もいいからちゃんとその匂いを憶えていられる。俺はミヨコの匂いに浸りながら、眠りについた。光はビクビクしながらも、道を照らすことを再開していた。
日光の熱は何故か俺の毛皮に集まる。俺は少し気怠いその熱さで目が覚めた。そうか、俺はこの家を出るのか。覚悟は決めていたはずなのに、やはり物寂しさを感じる。俺はまだ月の満ち欠けを十回しか見ていないから、独り立ちするにはいささか若い。しかし、そうすることしか出来ない。俺は一つ溜息をする、なんてツいていない猫生なんだろう。また泣きそうになったが、あの日から随分涙を流したためかもう涙は流れなかった。俺はもう一度覚悟を決め、その勇敢な一歩目を踏み出した。振り返る。俺が育った家。今までの俺の全てがこの家を見ていると回想される。前を向いた。もう後ろは振り返らなかった。
威勢よく独り立ちをしたものの、行く当てもないからユズさんの家に向かった。ユズさんは少し寒そうにしながら、ひなたぼっこをしていた。ユズさーん。俺はいつものようにユズさんに声をかけた。ユズさんは俺の方を見ると、少し余所余所しく頬笑んだ。俺の体に何かついていただろうか?
「…コウくんじゃない、お久しぶり。すっかり痩せたわね…。」
「うん、結局ミヨコは帰って来なかったよ。家にあったご飯も食べきっちゃってからしばらく経ったし…。ちょっと早いけど、独り立ちかな。」
「若いのに可哀想に…。もう、家には誰もいないの?」
「うん。」
「そうか、コウくんは〝野良〟になってしまったのね…。」
「…野良って?」
「ごめんなさい…。」
そう言うと、ユズさんは急に俺の首輪に爪をたてた。俺はびっくりして、思わず威嚇の姿勢をとり、ユズさんを睨みつけた。
「急に何するんだ!」
「本当にごめんなさい…。でも、知ってしまった以上こうしないといけないの…。コウくんはモモが小さい時に旅に出てしまったから教えて貰ってなかったのかしら…。」
「…怒ってしまってゴメンなさい。教えてください。」
「謝らなくていいのよ、知らなかったんだもの…。私たちの社会では、首輪は自分の身分を証明するためのものなの。私には住処があり生活に困りません、という証明のね。でもコウくんは家を出て独り立ちをしたから、これに当てはまらないわ。虚偽の首輪は、この社会では最も重いタブーなの、そしてそれを知った上で隠蔽することも同様に…。」
「…僕は野良ってこと?社会から外れているってこと?」
「…本当にごめんなさい。せめて独り立ちの意味を教えてあげていれば…。」
そう言いながら、ユズさんは起用に首輪の穴に爪をかけ、引きちぎった。輪は線となり、地面に吸い込まれるように落ちた。ユズさんは涙を目に浮かべている。
「…コウくん、とても辛辣なことを言うようだけど、日が出ている間は私に話しかけないで頂戴。私にも世間体があるから…。もちろんコウくんを助けてあげたいから、夜中にコッソリ来てくれればご飯を少し分けてあげたりすることはで…」
「ちょっと待ってよ!僕が野良になった途端にそんな事って…。今まで仲良くしてくれたのに!オヤが旅に出てからずっと面倒見てくれて、ユズさんは俺にとってのオ…」
「大きな声出さないで!誰かに見られたら…。」
「…。」
俺は言葉が出なかった。呆然としながら地面の上の茶色の線を見つめていた。頭は真っ白になった。体の内側がわなわなと震え、目頭が熱を帯び始める。
「ごめんなさい、言い過ぎたわ。本当に夜だったらこんなことは…」
「…今まで面倒見てくれて有難う。」
そう言い残し、俺はユズさんに尻を向けて駆け出した。ユズさんは最後に何か言っていたが風をきる音でかき消された。俺は息が切れてもとにかく脚を回し続けた。止まったら見える現実が怖かったのかもしれない。俺は導かれるようにあの日の丘に向かっていた。なぜあの丘なのか理由は分からないが、俺にはあの丘を目指すことしか出来なかった。俺
は心血を注いで走り続けたから、丘に着くやいなや嘔吐してしまった。俺の吐瀉物が無惨な水溜まりとなって草の上に広がる。俺はその広がりを見ることが出来なかった、泣き崩れた無様な俺が映っているような気がして。俺は喘ぐような呼吸を整えながら、涙で滲む眼を必死に海へ向けた。アマテラスさまの憤怒が嘘であったかのような、穏やかな海だった。どれほどの時間が俺の前を取り過ぎたかは分からないが、俺は海を眺め続けていた。
俺は塀に身を潜める。銀の皿の上には何か喰えそうなものが残っている。犬は眠っている。俺は息を殺し、忍び足でその皿に近づく。徐々に距離が縮まる。心臓が大きな音を立てる。外に聞こえてしまうような大きな音だ。俺は荒くなる呼吸をなんとか抑えながら歩みを続ける。狙いを定める。一気に駆け出す。犬は目を覚ますが反応を示す前に俺は銀の皿に辿り着き、それを前足で力一杯蹴った。銀の皿が大きく動く。犬は大きな声で吠え、俺に突進してくる。俺は逃げながらもう一度銀の皿を蹴り、犬から必死に離れた。後ろでグァロン、と大きな音が立ち、犬が苦しそうに吠える。振り返って見ると、鎖がピンと張っている。ざまあみろ、俺の勝ちだ。俺は鬼の形相で吠え続ける犬を傍目に、皿の上のものを貪り喰った。この犬がなんて言っているか猫の俺には分からないから、余計に気分が良い。優雅な食事が続くと思っていたが、建物の中からヒトが出てきた瞬間、俺は本能的に逃げ出していた。茂みまで辿り着き、俺は様子を覗った。中から出てきたヒトは、俺が逃げた方向を見て、舌打ちをした。
「チッ、野良かよ。」
そうだ。俺は野良だ、野良猫だ。どんなに苦境に立たされようとも、俺は生きていく。野良猫として、俺は俺の力で生きていけることを証明してみせる。俺はそのまま茂みで眠った。今まで冷たく感じていた草花が、何だか暖かかった。
「おい、てめぇみねぇ顔だな。」
路地裏を途方もなく歩いていると、灰色の太った猫に目をつけられてしまった。
「…コウって言います。」
「コウ?ハハハハハッ。お前まさか堕落組(だらくぐみ)か?可哀想になぁ、まだガキなのに。それにしても…ハハハハハ。」
初めて聞く言葉だが、俺を侮辱していることは明らかだった。俺は思わず、その太った猫を睨んでしまった。
「お?てめぇなかなか度胸あるじゃねぇか。嫌いじゃないぜ、そういうトコ。」
俺はその太った猫に飛びかかった。今まで喧嘩などしたことはもちろんなかったが、本能が俺にそうさせたのだ。俺はどうも本能には抗えないらしい。
「残念ながら、野良に慈悲はねぇんだよ!」
俺は遮二無二相手の頬を殴ろうとしたが、デタラメなその攻撃は手練れの相手に当たることはなかった。俺は何発も重い殴打を受け、尻尾を噛まれた。必死に抵抗をしたが、やがて諦め、最後の力を振り絞って逃げた。
「二度と通んじゃねぇぞぉ、ハハハハハ。」
自分の無力さが悲しかった。もうしばらくご飯を食べていない。
俺は盗猫になって夜深くに様々な家に忍び込もうとするが、腹が減って繊細な感覚が失われているのか、毎回不注意で大きな音を出してしまい番犬に吠えられてしまう。なかなか上手くいかない。このままでは、旅に出なくてはならなくなってしまう。ユズさんは夜になら来ていい、と言っていた。しかし、あんな仕打ちをしたユズさんの力は借りたくなかった。でもどうすればいいんだろう?俺はやっぱり独り立ち出来るほど強くはなかったのか?俺は俯きながら歩き、寝床にしている公園に着いた。顔を上げると、公園の隅に雀が転がっているのが見えた。気付いたら俺はその雀の目の前にいた。雀は羽に傷を負って飛ぶことが出来ないらしい。雀は目が悪いのか、俺に気付くことはない。
「…残念ながら、野良に慈悲はねぇんだよ。」
象徴のようにそう呟き、俺は雀に爪をたてた。血が吹き出た。雀は唐突な痛みに苦悶の鳴き声を上げたが、すぐにその声は途切れた。生きるとはこういうことだ。俺はニヤリと笑った。久しぶりのご馳走だ。俺はご馳走を自分の安心できる場所で食べたいタチなので、雀を咥えて、お気に入りの木の元まで運んだ。雀を地面に転がし、その姿をしばし見ていた。初めての狩りの余韻に浸っていた、という方が正しいかも知れない。まだ心臓はハカハカとしている。カァァァァッァァ。俺は上空からの突然の音に驚いて思わず上を見上げた。そこには猛々しい烏がいた。俺をその鋭角な嘴で突いてくる。俺も反撃しようとしたが、不意をつかれたためただただ逃げることしか出来なかった。烏は満足げに俺が仕留めた雀を掴んで、夜空へと飛び立っていった。俺は唖然として、烏が飛んでいくのを見ていた。空には三日月が浮かんでいた。余りにも冷酷な野生に、俺は慟哭した。ミヨコ、なんで旅に出ちゃったんだよ。空腹で眠れずに過ごす夜は、とてつもない不安を俺に押しつけ、塗炭の苦しみが久遠であるかのように続いた。
俺は旅に出ることを決めた。もちろん、乞食となってユズさんの元へ行くことは出来る。けれど、俺はオヤから唯一学んだ掟を守りきろうと思う。旅に出てから黄泉の国へ行け、と。それにしても、野生というものは無情である。月の満ち欠けを十回ほどしか見ていないガキに、手を差し伸べることもなく、旅に追いやってしまうなんて。だけど、俺はとても立派だから、言い訳はしない。野生を経験できたことで、今まで俺がどんなに恵まれていたかが分かった。トシオもミヨコも、本当に優しかった。ユズさんには分からないであろう有難みを、俺は噛みしめられている。そのことが幸せであるような気がした。
俺はトボトボとした足取りで道を歩きながら、旅の行き先を決めかねていた。俺はやはりまだガキだから、旅と言われても相場が分からない。思い出の地でも巡ればいいのだろうか?ミヨコの家に行くことを思いつくのに時間はかからなかった。そうだ、ピッタリの場所じゃないか。目的がはっきりとして、足取りが軽くなると思ったが、ご飯を食べていないせいで足は氈鹿を引きずっているかのように重かった。チラチラと目眩もしてくる。大丈夫、そんなに遠くはない。どうせ最期なんだ。俺は力を振り絞ってあの家を目指す。
俺はなんとかミヨコの家に辿り着いた。もちろん、独り立ちをしているからもう敷地の中には入れず、石垣の前だけれども。息は必要以上にあがり、体が痙攣などを始める。少々無理をしてしまったようだ。俺はややぼやけている視界に、見慣れない車が止まっていることに気付いた。俺は石垣に身を潜めて、目を凝らした。何の車だ?そう思った瞬間に、家の中からヒトが出てきた。それが、ミヨコの子であることは瞭然であった。鼻や耳なんて、ミヨコから取ってそのまま付けたのではないかと思えるほどそっくりそのままである。そして、そのことは俺の選択が大間違いであったことを指し示していた。俺は首輪を付けたまま、待ち続けてればよかったのだ。待ち惚けになってしまったと疑うくらいまで、待ち続けていればよかったんだ。俺は喉がカラカラなのに、両眼から水を垂れ流す。独り立ちは嘘だったんだ、と笑いながらミヨコの子に近づいていきたかった。抱き締めて貰いたかった。食べきれないほどのご飯を皿の上に載せて、頬張る俺を見ながら頬笑んでいたミヨコの顔が浮かんだ。
泣いてばかりいるな、一頻り泣いたのち俺は俺を嘲った。どんなに泣いたところで俺はもうギリギリであることは変わらないし、独り立ちをした家に帰れないことも変わらない。俺は発つ前にミヨコの子の姿をこの目に焼き付けようとジッと見た。最後にミヨコを感じたかった。しかし、俺の視線が強すぎたのか、ミヨコの子はこちらに気付いてしまった。
「猫ちゃん?」
俺は一目散に逃げ出した。独り立ちをしたのに家のヒトに姿を見られることは、本来恥じるべきことだが、最後に少しでも俺の存在を残せたような気がして、嬉しかった。
ギリギリの状態なのに駆けてしまったから、俺はもうダメになった。良い旅とは言えなかったかも知れないが、俺なりにはぼちぼち満足している。視界は翳を射し始め、俺は歩みを止めて横になった。下はゴリゴリとしていて、土ではないようだ。大地に帰することが出来ないことが悔やまれるが、よく見えなかったから仕方がない。俺は青空を見上げ、この目に情景が映る限り見上げ続けようと思った。もう全身が干からびてしまうほど泣いたから、悲しくはない。雲は俺が黄泉の国へ行くことなんて興味がないように、いつもと同じ速度で空を歩いている。俺は少し腹が立ちそうになったが、そんな気力は残っておらず笑うばかりだった。この空に大きな声で叫んだら谺するんだろうか?俺は最期に大声で空に向かって言葉を遺す。
「世話になったなー。」
糸がプツンと切れたように俺の視界はグルグルと回り始め、翳りが増していく。あぁ、こういう感じなのか。俺は眠りに似たその感覚に安堵し、目を閉じた。ガチャッ。音が聞こえたような気がした。
「俺はあの時から、ユキコの世話になっているんだ。目が覚めた瞬間はびっくりしたよ、黄泉の国はこんなにも変わらないものなのか、ってね。でも目の前にご飯があったから、やはり俺は報われたんだって…。おい!折角思い出話をしているんだから、聞いてくれよ。」
俺はカズキの脛に頭をコツンとぶつけた。カズキはそんな俺を見て、可愛いなぁー、なんて呟きやがるから腹が立つ。まぁ、もちろん悪い気はしないのだが。
「クロ!」
こいつはことあるごとに俺にこう声をかける。俺にはミヨコに貰ったコウという名前があるというのに、事もあろうか俺の毛の色で呼びやがる。こいつのオヤなんて、俺が気にしていた茶色毛の時期に、チャイロ!となんて呼びやがった。何遍も俺はコウだ!と言っているのにこいつらは笑うばかりで呆れたもんだ。俺は頭が良いからこいつらの言葉が分かるというのに、ヒトは俺の言葉をニャーとしか聞き取れないらしい。たまにニャーと高い声を出して話しかけてくるのは本当に滑稽で笑えてしまう。
「…全く。それにしてもあれは僥倖としか言えないよなぁ。独り立ちで飛び出した家の隣でぶっ倒れて、介抱して貰えるなんて。俺は野良ではあるけれども、ユキコに首輪をか
けて貰ったようなもんだよ。ご飯をくれることはもちろんそうなんだけど、苦しみ抜いて旅までしたちっぽけなガキの俺の、心の拠り所になってくれたんだ。俺はユキコのおかげで、ジジイになった今もこうして過ごしていられるんだ。なぁ、お前もユキコに感謝しろよ。」
カズキは俺の話を全く理解しないで、黒い箱を俺の前に突き出している。
「なぁ、そんな箱通さなくても、ここに俺がいるんだからいいじゃないか。」
こいつらはみんなこの黒い箱を熱心に見てやがる。大方、紙芝居のようなものが流れているんだろう。俺の前に突き出している時は、俺の姿を中の小人が一生懸命模写しているんだろう。全くそんなすごいものを作る頭があるんだったら、早く俺の言葉を理解してくれよ、と常々思っている。
「しょうがねぇなぁ。」
俺はこいつお好みの姿勢を取ってやった。背中を地面につけ、目を瞑り、手足をジタバタとさせる。バシャバシャと音が聞こえる。五回ばかり音がしたら元の姿勢に戻る。こいつは嬉しそうににやけている。野良の俺にそこまでやってやる必要はないのだが、こいつはご飯をくれるし、ユキコの子の子だというもんだから義理があるのだ。
「クロ、ちょっと待っててね!」
カズキはそう言い残して、銀ドアを開けて家の中に入っていった。ご飯を取ってきてくれるんだろう。ガキのこいつも俺みたいに孤独を経験することがあるのだろうか?こいつらの社会も相当厳しいらしく、一年に二度ばかりこの家を訪れるリュウは見る度に顔に疲弊の刻印を押されてくる。まだ無邪気なこいつもあと幾何かすれば大人になって、悩み苦しむ時が来るのだろう。けど、決してそれは悪いことじゃない。俺は苦難を乗り越えて、立派な猫になることが出来た。こいつも歯を食いしばって、立派なヒトになっていくんだろう。ただこいつは大分女々しいから、黄泉の国からも見守ってやることにしよう。ガチャッ。銀ドアが開き、カズキは満面の笑みを浮かべて魚を持ってくる。
こいつらは、よほど俺のことが好きなのか、真っ黒な車に乗っている。まぁ、気に入られて悪い気はしない。こいつらがこの家を発つ時、ユキコは必ず俺を抱いて一緒に見送る。俺は優しいから、気をつけてなー、と声をかけるようにしている。
「バイバイ、クロ!」
生意気だが、今はこの呼び名も気に入っている。ユキコと同じで、俺はこいつらが来る
ことを楽しみにしているのだ。空には満月が浮かんでいた。
久しぶりにミヨコの夢を見た。目が覚めてから、詳細には思い出すことが出来なかったが確かにミヨコの夢だった。俺は何かの兆しを悟った。けれど、まだ眠いからもう一度眠りに就くのである。
もう何百回月が満ち欠けしたか分からない。あと数回もしたら、俺はもう一度旅に出るだろう。二回も旅を経験する数奇な運命になりそうだが、そこがまた可笑しくもある。あの時、ガキでどうすることも出来なかったあの旅では行く先が定まらなかったが、今はもう決まっている。潮の香りと共に育った俺は、大海原にこの身を葬るのだ。あの日、ミヨコを飲み込んだ海に、俺は飛び込みたい。最期は、その大海原の情景をこの目に焼き付けるのだ。俺はその旅を思うと、とてもワクワクする。けれど、今のこの生活も楽しいから、今日も欠伸をしながら散歩などしている。
「腹が減ったなぁ。」
俺は独りで呟いた。ポカポカとした日差しが暖かい。さぁ、今日もユキコに会いに行こう。俺は家に向かった。旅の前に、ユキコに感謝を伝えねぇとなぁ。俺は道中そのことについて考えていた。少し照れくさいが、俺に心の首輪をかけ、俺に運命以上の月の満ち欠けを見させてくれたユキコだ。夢にでもお邪魔して、たっぷりと思いを伝えよう。まぁ、それもその時が来たら、だ。グゥゥゥ。腹が鳴っている。俺は今日もいつもと同じようにあの銀ドアの前に立ち、猫撫で声でユキコに呼びかける。
「飯をくれー」