くじら。
私のデコルテを泳ぐ鯨のタトゥーを、彼は決して触らなかった。
「どうして、鯨なの?」
「……あるひとつの、神秘として」
今思えば、彼は畏怖を憶えていたのかもしれない。キャンバスとしての私を、まるで写し鏡のようにおそれていたのかもしれない。敬虔な彼の指は、私の鎖骨をなぞることを拒み、その無骨な手はいつも冷たかった。
「渡り鳥は、自由だと思う?」
彼の素朴な問いは、いつも私を形而上学的な気分にさせた。
「どうだろう?」
「多分、どっちでもないんだろうけどさ」
彼はその頃、二律背反の狭間でとても悩んでいて、哀しさを少しでも分け合うように私とハグをした。
「君の鯨も、同じだね」
弱音を漏らすように落とした言葉が、私の鼓膜を静かに濡らした。私の耳朶は彼の吐息と、薄幸な舌先の感触を今でも憶えている。
私は洗面台の鏡の前に立つと、いつもくじらをなぞっている。私に命を預けた哀れなくじらは、何人にもけがすことができない。彼はそれを知っていたのかもしれない。