瓶詰めの言葉。
宛先のない手紙を書くことが好きだった。宛先がある手紙を書くことは、僕に沢山の杞慮を強いるから苦手だった。たとえば、他者を目の前にして発話するのにも、重層的なフィルターみたいなものを透過させる必要があるのに、手紙となるとそれは殊更だった。(どのペンで書けばいいのか? 文字のサイズはこれで合っているのか? ここは平仮名にした方がいいのか? etc……)でも、誰かへの思いなるものは言葉にしないとやたらに重いし、抱え込みすぎるとぐったりとしてしまう。それだから僕は、宛先のない手紙を書いて、そのめくりめくる感情を吐露する必要があった。
そのような手紙はすべて、ビールの空き瓶に詰めて川に流した。海の方が風情のある気がするけれど、1番近い流動的な水場が川であったのだから仕方がない。僕はそのボトルメールの行く末を望みながら(どんぶらこ)、いつも煙草を吸った。吐き出した煙も、そのボトルメールの一部であるような気がした。
そのボトルメールが何かの因果で誰かの手に渡っても、僕は関与することができない。でも、それでいいと思う。それはあくまで手紙として発露された言葉だからだ。手紙には手紙として生きる権利がある。僕が僕として生きる権利が(望む望まずに関わらず)、あるのと同じように。