「あたらしい指」
夜になると、悪い子供たちは飛び降りる。着地の際、軽くやわな骨は砕ける。その音の響きはかすかだが、町のいたるところまで届く。
運が良ければ、足首をひねるか、打撲や挫傷程度で済む。それでもダメージは下半身を中心に蓄積する。
町に住む多くの者は生来、骨格が歪んでいる。淀みなく歩けるほうがむしろ珍しい。それ故、踵や踝、大腿骨や膝の皿が割れたところで構わない。誰も彼もが皆、脆い身体で生まれてきて、日々、少しずつ壊れ、失っていく。
劇場は燃えた。喧騒や狂乱も灰となり、猥雑さだけが空気のように残った。行き場をなくした悪い子供たちはやがて飛び始めた。現場となる建物は有人無人を問わず、その夜ごとに変わる。踊り場やバルコニー、窓の縁、屋根の上などの高所から一人ずつ飛び降りる。枯れた大木や墓標代わりの石塔、巨大広告の残骸なども格好の降下台となった。
地面へ落ちるまでの軌道を見つめる間、子供たちは黙り込み、耳を澄ませる。骨の音が鳴ったあと、どよめきが起こる。品評めいた感想やでたらめな採点などを声に出し、一しきり騒ぐ。やがて周囲は再び静まり、次の子供が飛ぶ。
いつか煙突から飛んで最高の音を響かせてやる。そんな言葉も聞こえてくる。だが、今のところ、実行に移すほどの勇猛さを見せる者はいない。
工場には町の象徴とも言える煙突が並び立つ。それは何よりも高く、吐き出される煙はどんなものよりも黒かった。
ミーの指の数は「正常」だ。もはやその言葉は意味を失って久しいが、手足それぞれ、十本の指がそろっていた。ただ、左手の小指は短く、しかも本来あるべき場所には存在しない。右の肩甲骨あたりから捻じれ曲がって生えていた。普段は小さく折りたたまれ、邪魔になるようなこともなかった。だが、それは時折、ミーの意思とは無関係に動く。
欠損部分を補うため、ミーは多様な部品を集めてきた。木の棒や鉄くず、石ころ、麻のスカートの切れ端、革のベルト、腐った根菜、不気味な水草、女の白い髪、泥土、合成化繊の一部。それらを変形させて、左手の空白地への接続を試みる。だが、身近にある接着剤や粘性の物質で固定させようとしても、すぐに落ちてしまう。
いつか必ず十一本目の指をものにしたい。ミーはそんな夢を描く。未来に関して何かを渇望することさえ困難な環境下、ミーにとって唯一の灯火だった。
夜中、ミーは住処で目を覚ます。家族三人が暮らすその空間は、いつからか歪み始め、およそ楕円に近い状態で留まっていた。工場で働く父と母のシフトは朝と夜に分かれる。たまに入れ替わっても同じ時間帯に重なることはない。
何かが割れたような乾いた音が響く。飛び降りる子供たちの噂は聞いていた。見物に行こうと幼なじみから誘われたこともある。だが、ミーは決して近寄りたくなかった。挑発され、罵倒されることになったとしても、自分が飛び降りなくてはならない可能性から、遠く離れていたかった。十一本目の指を完成させるまでは何も失いたくなかった。
骨の音は日によって様相が変わる。それは音の大小というより、響き方そのものがまるで異なる。
悪夢から覚めたミーは汗をかいている。額や頬や首の裏を左手で拭う。それにつれて、肩甲骨の小指がうねる。ミーにはその自覚がない。どこかで鳴る音から逃れるように、まぶたをきつく閉じる。骨が壊れる音は断続的に聞こえてくる。ミーは再び、悪夢を見る。
遠く離れた広場から、少女は工場の煙突を眺める。ミーよりも背が高く、いくらか斜めに傾いで立っている。顔全体の色素がうすく、それ以外は濃密な褐色だ。
たまに見かけることはあったが、彼女の名前をミーは知らなかった。通り過ぎようとする刹那、その強烈な視線に感染して思わず振り返った。少女は睨むように、悲しみ嘆くように、そして何かを殺そうとするように、煙突を一心に見つめる。ミーもまた、しばらく同じ方向を眺めていた。あの高い煙突の下、今は父と母のどちらが働いているのか思い出せなかった。
少女がミーの肩を叩く。左右の腕の長さは不揃いだ。手の先は丸く、すべての指が一つに固まっていた。その表面にはいくつか切れ目があり、それぞれに深さや長さが違う。
ボワ。少女は短い右手で虚空に字を書いた。ミーにはそれがすぐに読めたし、彼女の名前だとわかった。そのことを特に不思議だとも思わなかった。
ゆびがきれい。ボワが続けた。
「そんなことはないと思う」
ミーはひさしぶりに声を出したような気がした。指のことを褒められるのは恥ずかしかった。
やばいけむりがたくさん、うられている。
ボワが書く。
みんなそれをすって、とびおりて、さわぐ。
ミーはうなずく。寒さを感じて腕をさすった。さようなら。ボワはゆっくりと描く。すでに煙突から視線を逸らしていた。ミーは手を振る。ボワも同じように、文字にならない別れのジェスチャーをした。それは左手によるもので、ミーにはぎこちない動きに見えた。
ミーは肩甲骨の小指に名前をつけていた。それは本来、両親から与えられたものだ。父も母もその名でミーに呼びかける。その際、肩の小指はわずかに震える。ミーは元々の名前を嫌ってはいない。ただ、小指のほうがずっと相応しい気がした。ミーにとっては呼び名も一人称もミーで、それが自然だった。
父が身体を壊して、しばらく仕事を休むことになった。右の肺には三つ目の穴が開いた。病院で治療するような余裕はない。そのため、工場の従事者が半ば隔離状態で収容される療養所へ移った。
母は夜通し働き、夕方近くになっても帰らない日も多い。楕円状の空間にミーは一人きりで眠る。毎晩、悪夢で目が覚め、骨の音を聞いた。その狂騒は終わりを見せない。また次の夜、悪い子供たちは高いところから飛び降りる。
ボワとよく話すようになった。右手を使うばかりで、彼女の声を耳にしたことはなかった。それでもスムーズに会話ができた。ミーは十一本目の指となる素材を探していることを話した。これまでに試した数々の失敗談も披露する。ボワは声を出さずに笑った。音がなくても、やわらかな笑顔だった。
ボワは煙突を憎んでいる。それは両手がつぶれた状態で生まれてきた、という理由だけではない。工場の煙によって、大人だけでなく子供たちもおかしくなったこと、数多の動物たちが死んでしまったこと、残った鼠だけが異様に太り、その尻尾は変色し、波打つように伸びていること、それらを忌んでいた。ミーも鼠は苦手だったから、その部分は特に強く同意した。
げきじょうにいったこと、ある? やけちゃうまえのことだけど。
ミーは首を振る。ボアが疑問形で話すときに描く、クエスチョンマークの軌跡が好きだった。何もない空間に、その印はくっきりとうつくしく浮かび上がる。もし現実の形あるものとして手に触れることができるなら、それを十一本目の指にしたい。ミーは強く思った。
今度は母が療養所で過ごすことになった。戻ってきた父の肌は赤黒さを増していた。息を吸い、吐き出すたび、つぶれた音を右の胸から漏らす。母も同じような状態で帰ってくるのだ、とミーは想像する。長い言葉を話すことも儘ならなくなった父は、ついにミーと呼びかける。肩甲骨の小指は固まったまま、微塵も動かなかった。
ミーの眠りは浅く、どんな夜にも一度は目を覚ます。壁の曲線に沿って背中を丸める父の姿が見える。肺からは絶えず雑音が聞こえてくる。夜明け前、それはより激しくなる。おかげで骨の音がかき消される。悪夢を見る回数は少しだけ減った。
ボワは煙突を見つめている。やはりその視線には怒りや悲哀が混じる。多義性は増して、絶望や憐れみ、怯えなども帯びるようになった。ミーはその隣に並び、同じように工場の方向を眺める。あそこのどこかで母は不気味な音のする息をずっと吐き出しているのだ、と思った。
ボワが骨をくれた。鳥の一部だという。町の上空では、すっかり鳥の姿を見かけなくなった。あらゆる鳥は落下して、そのまま死んだ。あるいは飛びながら死んで、地上に降ってきた。
まちのそとでとんでいた、とりのほね。こゆびにして。
ボワの丸い左手の割れ目に鳥の骨が挟まっていた。ミーは慎重にそれを引き抜いた。細くて長い骨だった。表面は茶色く、ほんのりと光沢を放つ。鼻に近づけると、乾いた草のような匂いがした。
きれいなはねの、とりだった、って。
誰からもらったのか、どの部分の骨なのか。ミーには訊きたいことがあった。ボワは再び煙突を眺めていた。強く睨みつけ、そのうちに涙を流した。ほのかに濁る、大きな丸い粒だった。次から次へと溢れ、頬を伝うことなくそのまま地面に落ちる。それは何の音もしない。ただ形をなくし、土に吸い込まれるだけだ。
まちをでることにきめた。いくあてもないけれど、とりがいないところに、ひとはいちゃいけない。
悲しい歌みたいだ、とミーは思った。涙を流したあとでも、ボアの言葉の軌跡は微塵もぶれず、淀みもない。なめらかで優雅な動きをミーはただ眺めていた。メロディーや歌声が伴わなくても、心が激しく揺さぶられた。
ボワは手を振らず、一度も振り返ることなく、その場から去った。ミーはさようならの代わりに、ありがとう、とボワの背中に向けて叫ぶ。ミーも出て行きたい、という声は飲み込んだ。それはしばらく喉の奥に留まり、やがて緩やかに落ちていった。
ミーは小指があるべき箇所に鳥の骨をつける。父に無理を言って、工場から溶剤を持ってきてもらった。そのことで処罰を受けるに違いないが、父は何も言わず、この夜も工場へ出かけている。肺の音はよりひどくなり、父から話しかけてくることもほとんどない。もはやミーという名で呼びさえしなかった。
煙を用いた特殊な樹脂と薬剤が混ぜられた接着液を左手の端、その窪みに垂らす。銀色に鈍く光るジェル状の物質を伸ばし、骨の根元にも塗った。もらったままの形で小指にしたかった。震える手先を落ち着かせ、慎重に接合する。生まれつき肌の感覚は鈍かったが、それでも痛むくらいに熱かった。ビニールが焦げたような匂いも漂ってくる。
悪い子供たちは住処近くの雑居ビルから飛び降りていた。間近で聞こえる骨の音は軽く繊細で、余韻を残して小さく響く。一方、子供たちの声はやたらと騒がしい。
多くの骨が砕け、崩れ、細かく散った。笑い声や怒号、発狂そのもののような声が聞こえてくる。ミーは眠ることができず、鳥の骨をつけたあたりに熱を感じながら、ずっと目を閉じていた。何の感情も持たないボアの青白い顔が浮かび上がり、すぐに消えた。
母は帰ってこない。父も働き通しで工場から離れない。煙突の下に二人はいる。本当は、もう母は死んでいるのかもしれない。
ミーには十一本目の指がある。思うように動かないし、この先もうまく扱えるかはわからない。だが、それはどの指よりも長く、しなやかだ。ミーは町のあちこちを歩き、ボアの姿を探す。煙突を臨めそうなところをミーは巡る。捜索は日々、失望と共に終わる。
悪い子供たちは飛び降りることを止めない。遠く離れたところから、骨が砕ける音が鳴る。楕円の中心で、ミーは目を覚ます。明り取りの遠い先には工場一帯が広がる。この辺は特に空気が濁っているせいで、住処からは昼間でも煙突が見えない。
うす暗闇の中、ミーは長く細い指全体を根元から回す。そうする以外、曲げることも伸ばすこともできない。むしろ肩甲骨の小指のほうがよく動く。ミーは鳥の骨の指でクエスチョンマークを描く。ゆっくりと何度もくり返す。ミーにはその軌跡をうまく捉えることができない。それでも、この動きに合わせて何か音が聞こえるといいな、と願う。たとえば、空を切り裂くような音。羽ばたくような音。古い風琴みたいな音でもいい。だが、それもまたミーの耳に届かない。ミーの心を揺らさない。
ボアともう一度会えたなら、いずれこの町を出たい、そう伝えようと思った。
「いつか、一緒に飛んでいる鳥を見よう」
ミーはそんな約束をしたかった。可能ならば、あたらしい小指で指切りをしたかった。
〈了〉