「ペノキヨができるまで」
昨年、イグBFCに「僕はたけのこを傷つけない」という作品で応募したのだが、その製作日記、執筆過程において揺れる私、みたいなことも別の記事で書いた。
普段、ほとんど自作について解説することがないため、反動のように思いのたけを存分に開陳してとにかく楽しかったし(「イグ」というフィルターがあるせいか、自作語りの恥ずかしささえも楽しめた)、それを多少なりとも喜んでくださった方もいたので、味をしめて、今年もそれっぽいことを書こうと思っている。
そう思っていたのだけれど、イグも本家のBFCも始まるかなり前にこの記事用のエントリーを作って、前文みたいなものとかメモ程度のことをいくつか記しておいただけで、ずいぶん放置してしまった。
というのも最後の最後でBFC本戦のほうに行けなかったから(とにかく応募作をたくさんの方に読んでもらいたかった)、そのショックで(ニイケイの賞も正賞取れなかった)、もう何も書けない、パソコンを見るのもいや、キーボードに触れたくない、マウスの形からしてもう憎い、あと、マウスポインターって行方消失しすぎじゃない? みたいなモードになっていたからである。
PCや周辺機器の視点からすれば、ほぼほぼ言いがかりに近いし、そもそもそのスネ方もどうなのよ、その駄々をこねる「mewl mewl」の泣き声、早く止んでくれないかな、みたいなことを言われかねない、まるで言語圏ごと違っているような、傷心ぶり、荒ぶる私、という風情だった。
どうか安心してほしい、例えこそ間違っている自覚はある。
とにかく気が重かった。そういう話だった。
あと、やっぱり単純に面倒だったよね。
ということで、気を取り直してやっていこうと思う。
改めて書き始めるのは面倒を乗り越え、単に私が書きたくなったからであって、そのモチベーションを無事に再駆動できるようになった、という次第なので、これからだらだら書いていくことになると思う。ご了承いただきたい。
長くなること必至だが、ちゃんとトイレ休憩、設けるから。
イグに興味ない方、そしてそもそも今年、私が応募した「ペノキヨ」に関心がない方には、インディー(ジョーンズ)に付き添って遺跡に来てみたものの、全然、石板の文字読めない、全然冒険も起こらない(ただのフィールドワーク)、全然ロマンスもないし、キー・ホイ・クァンもいない、全然、テーマソング流れない、ディズニーシーのアトラクションみたいに終盤で骸骨から煙っぽいやつ、全然出てこない(あれって独特の匂いがしないだろうか?)、みたいな状態だと思うので、ゆっくり、本当にゆっくり、閉じるボタンを押してほしい(こちらがびっくりするので)。
ここで書きたいことは、いかにして、ペノキヨ、というまあ、ピノキオめいた鼻が伸びる男の話を書くことになったか、どういうことを思いながら、考えながら、書いていったか、みたいな流れをだらだら、あとはほぼ脱線、ほぼ他愛もないことになると思う。
できれば、おいしいキッシュの焼き方、みたいなこともお伝えしたいが、私はキッシュはもっぱら食べるサイドの人間なので、残念ながら、え、パイシート?……これを底に敷くんですか? みたいな初期の段階でうろうろもごもごするばかりだ。
もっぱら食べるサイドだ、も何もないのだが、まあ、そういうことなので、こちらもまたご了承いただきたい。
ペノキヨ。そもそも、この話については、昨年、準決勝で負けてしまって、イグに関して、ちょっと雰囲気というか、流れが変わったような気がして、もう大喜利でお茶を濁すのは無理だな(というか、湯呑みの中、シュワシュワの微発泡になってるくらい)、と感じた、というのがそもそもの始まりだった。
イグに対する参加者、読者、投票者の感覚が少し変わった気がする、とはいうものの、それでも大喜利から離れられなかった。
これはある種、私のイグに対するスタンスというか、一つの捉え方であって、そこから何かお話が生まれる素地があるのではないか、と大喜利のお題をいろいろ考えていた。
いわゆる、ネタ出し、のような意味合いもあるし、発想トレーニング(書いてて恥ずかしい)みたいなものもであるのだが、正直、イグのような作品でなくても、こういうアプローチをすることはままある。
例によって(脱線)、ネタになるかもしれない、と思いながら考えていた大喜利のお題をいくつか挙げてみたい。
一言とは? みたいなお題が多いのはどうか許してほしい。
あと、最後のお題に関して、不良おもしろ小説といえば吉田棒一さんの十八番ジャンルではあるのだが、それをお題に取り込もうとしている姿勢がうかがえる。
それはともかく、この不良の何々の特徴は汎用性が高そう(すでにこういうお題があちこちで出されているかもしれないが。これは河童でも、テングでも、魔法学校の不良とかでもいけそう……来年以降の課題としたい)。
こういうアイデアのトレーニングみたいなことをする際は、答えよりも、むしろお題を考えるほうが役に立つことが多いのだが(もちろん、答えもおもしろいものを考えたいが)、って、これは、暗に、答えつまらないけど許してね、という皆様方へのメタ・メッセージでもあるので、どうか、ちゃんと、それを受け取ってほしい。読み取ってほしい。
また、お題本文にも本当はいろいろちゃんとした書き方がある(と思う)のだが、ここでは便宜上そこそこシンプルに記した。
桃太郎や一寸法師、寝太郎のお題なんか、おもしろいかどうかはともかく、今回のペノキヨみたいに、二次創作的なお話ができそうだし、たぶん、そういうのはすでにたくさんあるだろう。
こうした中に「ピノキオの鼻が唯一伸びなかった嘘とは」というお題があった。はじめのうち、これ、という答えが全然おもいつかなくて、おもしろくなかった。
最近、鼻うがいにはまっています
という答えがやがて浮かんできて(たぶん、私の鼻がむずむずしていたんじゃないかな)、この是非はおいておくとして、まあ、そこからどうしようかな、と考えているうちに、
♪人生って、すてきなものですね
という、「愛燦燦」を歌っているときに伸びている、という状況がおもしろいかな、と思った。
実際、すてきなものですね、という歌詞は(たぶん)愛燦燦にはないのだけれど、ここから答えが飛んでいって、モノマネをしているときに、鼻が伸びる、という設定が浮かんだ。
そして、
「すっごいですね、すっごいですね」
と所ジョージのマネをしているときに、鼻が伸びない、という答えが、自分の中で結構イメージが膨らんだ。
ただ、同時に、ここまできてお題が違うな、と思った。つまり、鼻が伸びなかったのではなくて、「いつも以上に鼻が伸びる嘘とは?」というお題にしたらいいのではないか、と考えた。そちらのほうが「嘘」という前提に強弱がつくことでギャップができるから、どの答えでもおもしろくなりやすい。
ここまで進んだところで、これはイグでいけそうだな、とイメージが固まった。
それでも前述したように、大喜利の形でイグには参加できない、しても勝てないだろう、と思っていた。もはや前年みたいにお題とフリップみたいな形にするのは違うし、昨年は文章量とイラストの情報量で一度は規定から外れる、という判断が下されたので、そこの危険も避けたいし、避けられたとしても、絵はやっぱり違くない? と思う方もいたらそこも気をつけたい、と思っていた。
(今年のイグには、日比野心労さん――BFC本戦にもDJ SINLOW名義で出場された――のオタ恋の宣伝画像を作った創作があって、あれは衝撃を受けた。やられた、と思った。私も、あの画像で、大喜利みたいなことやってみたい、という刺激を受けた。写真で一言、みたいな形になるのかわからないが、あれは今年のうち、今のうちに使っておきたいよな、と思う。さすが斬新なアイデア溢れる、心労さん。開催時機や組み合わせによっては、あの作品が優勝していてもおかしくなかったと思う)。
というわけで、ピノキオがモノマネをして鼻が伸びる、という骨子が固まる。そういう設定のもと、所ジョージの「すっごいですね、すっごいですね」というモノマネをしているときに、いつも以上にぐんぐん伸びちゃう、みたいな流れに持っていくためにはどうしよう、ということで話を作っていく。
最初はペノキヨでなく、普通にピノキオだった。けれど、原稿用紙6枚で人形から人間に変わるシーンを描けないし、省くにしてもその説明でも文字数がもったいない、ということで、穂積ペノキヨ、という名前と、はじめから人間だった、という一文で、(なんかわからんけど)鼻が伸びる状況はとりあえず把握してもらえる、と思った。
こういうときに「本歌」、それも古典というのはあまりにも便利だ。ただ、もちろん、ただのパロディでは評価されないところもあるし(あくまで、イグでもお話を書きたいので)、おもしろさという強度でしっかり支えないと、勝ち抜けない、という気持ちはあった。
師匠に弟子入りするにあたり、ここではじめて「年代」という問題が出てきた。
清水アキラのイメージはすぐに浮かび、お話でのサプライズ登場も含めて、テープ芸と水着姿の恰好がいいな、と思った。(まさに我が子の面倒をお願いするように)ペノキヨを清水の元に送り出したのだが、正直、引退していることを知らなかった。これは清水情報を調べているときに気づいた。
それでも、鼻が伸びるペノキヨとテープで鼻をつぶしたり持ち上げたりする清水お得意の芸と相性がものすごくいいと思えて、そこでのエピソードも楽しく描けそうなので、もうここまできたら清水一点張りで行きたかった。今更コロッケに乗り換えるなんて、私にはできなかった。クリカンのことは微塵も考えなかったし、冬樹はゴルフ、グッチは料理に忙しそうだった(後述するが、こういうところが「ジェネレーション」問題として引っかかってくる)。
本当は、清水家で破壊するものは淡谷のり子先生の肖像画ではなく、息子の写真とかだったのだけれど、年代によっても伝わらないことを覚悟しつつも、それでもここは淡谷先生のほうがいいだろう、と思って、最後のほうで変えた。
ただ、やはり、清水に関する描写がどうしても過去のこと、かなり昔のことになるので、そこでもし十代、二十代前半の読者が読んでもわからないかも、という不安があった。
そう思ったときに「所ジョージではだめだ」、という結論になった。
何が、所ジョージではだめだ、なのか、私は何を言っているのか、完全にプロデューサー目線じゃないか、という自省の念もこの瞬間抱いていることは間違いないのだが、そう思った。
そして「さかなクン」を出すことになるのだが、ここは自分でもものすごく安直で、安パイな感じがして、恥ずかしかった。けれど、ほかにいいチョイスが浮かばなかった。
このセリフ(モノマネ)で、誰だかはっきりと伝わる普遍性と、内容が少しでもおもしろくなりそうなぎりぎりのところが、私の中で、さかなクンしか思いつかなかった。ここはまだ耕し甲斐がある荒地なのではないか、と思えるが、その限界を乗り越えたら、途中でさらに強いパンチを一発放てたのではないか、と思う。
さかなクン以外では、「王林」とか「アンミカ」という案もちらついたが、それはやはり、モノマネさせるセリフとインパクトのバランスが悪かった気がする。
結果、「アンコウちゃんには捨てるところがギョざいません」という、実際にどこかで本当に言ったのかわからないが、たぶん、言ってるんだろうな、さかなクン、だってさかなクンだもの、というようなフレーズを挿入できて、それはまあよかった。
また、そのあとは「ジェネレーション」的問題をよりフラットにしようと思った。
そこで滝沢カレンと佐藤栞里に出てもらうことになった(この言い方もどうなのよ)。ここはもうモノマネは関係ないし、何か、言いそうなことを、と思って、しばし考えてみた。
作品の中で気に入っているところが2つほどあるのだが、それは滝沢カレンの「ドーナツに穴って空いてましたっけ?」だ。
(あと一つは清水アキラが初舞台前に芸名をつけてくれるのだが、それが「鼻頭ザ暴君」というところ、そして字画はいいよのセリフだ。本当は、そう言った清水が思わず自分の鼻に手を触れる、といういかにも文学的な描写を入れたかったのだが、字数と流れの問題で泣く泣くカットした)。
あとはもう話を進めていくだけだ。書き始めたときから、終わりのシーンが見えていたわけではないが、清水アキラが出てきてからは、初舞台と、そこに乱入する清水(橋幸夫スタイル)の絵はできていた。
そこをつなぐために、途中で、やりたかったのは猫八のほうのマネだった、とか、鶯の練習をしても鼻が伸びる(夜の虚空に、鶯の鳴き声と共に鼻が伸びる、という描写はブンゲイ風――めちゃめちゃ手癖丸出しで安直だが――を意識した)、この辺りのポイントを詰め込んだ。
なぜ、初舞台で鼻が伸びても観客がウケるのか、ここの根拠というか説得力は弱いかも、と思っている。ただ、あの場面を表現するのに、「見世物」みたいな落とし方、そういう表現もしたくはなかった。だから、雑に、というよりも、説明せずに、ただ「ウケる」事実を置くような形になってしまった。
そこをエクスキューズするように、舞台袖の清水(最後に出てくるための振りでもあるのだが)がウケている、そのことに喜ぶペノキヨ、という、どこかほっこり要素を足しているのだと(自覚的ではないが)思う。
あと、爺さんはこのお話においてのキーポイントだ。先ほど、好きな場面が二つあると書いたが、それとは別に、作者としては、爺さんの存在も好きだ。彼の登場、その描写によって、お話にまた一つの角度をつけられたのではないか、と思っている。
たぶん、爺さんは思春期までにペノキヨの鼻頭暴君的な被害にあっている。何度も嘘を吐かれ、伸びる鼻で突かれた。だから額には穴が残っている。
そういう前提で、「モノマネ芸人になる」という告白を受け止めようとするのだが、「本気か?」と尋ねるそばから、おびえている。だから、声に出さず、うなずくペノキヨ、その動きに、見えない(伸びていない)鼻の軌道を見てしまい、ひゃああ、と声を出す。
この爺さんのリアクションが好きだ。
だから、初舞台でも(たぶん、師匠の清水が気を利かせて招待してくれたんだろう)、爺さんはペノキヨからも見えるようないい位置にいるのだが、フェイスシールドをしている。時節柄、とか書いているが、絶対違うだろう、というところが、好きだ。
そんな初舞台の様子があり(そもそも、鼻が伸びる前提でなぜ客席に立たせているのか、清水の見識も問われるのだが)、持ちネタのモノマネどれでも鼻が伸びてしまい、いよいよレパートリーがなくなり、鶯の鳴きマネをする。
舞台に立たせるような展開を考えていないうちから、鳥の鳴き声のマネをして(たぶん客前に立っているイメージはあったのだが)、そこでぐんぐん伸びた鼻先に蝶が止まる、というアイデアがあった。なんなら、そこがお話の終わり、というイメージだったと思う。
あるいは、その蝶の前に、伸びた鼻を振り回すことで、会場全体をデストロイ状態にして、そんな中、鶯の声に誘われて蝶がひらひらと、みたいなイメージもあった。
この蝶のくだりは、絵面としてはかなりおもしろいと思うし気に入っているのだが、お話の流れ的にはいよいよますます唐突で、まるで必然でないような気もする。そうなると、鼻によって破壊された会場、というカオス的な流れで留めておいたほうがよかったのかもしれない(その場合は清水のリンボーはなくなってしまうが)、と今になって迷いも出てきた。
ただ、師匠の清水も知らない鶯のマネ(独学)をして、結果、蝶が止まる、というアクシデントによってではあるが、一つ笑いの山場を作る、この点は意味があるのではないか。
また、清水リンボーバージョン(つまり現行のやつだが、この呼び名の是非は金輪際問わないでほしい)だと、後半鼻が縮んでいく、という契機が必要で、それをこの蝶が止まるアクシデントで利用させてもらった。
鼻が縮むのは、ペノキヨにとってもありがたいはずなのだが、ここで師匠が飛び入りして、(アドリブ的に)リンボーダンスをすることで、むしろ鼻を伸ばさないような状況に陥ってしまう。
なんとなく、現実において、清水アキラがこの場面に出てきても、橋幸夫の格好をしながらリンボーダンスをするような気がする。そんな確信めいた思いもある。どうして清水に対してそんな全幅の信頼をおいているのか、私にもよくわからないが、そのイメージがくっきりと浮かんでいる。
最後の一言は迷った。正直正解がわからない。
はじめ、クレタ人のパラドクス「クレタ人はうそつきだ」という自己言及めいたことを言わせる予定だった。それは、弟子入りするときに清水が何か、胡散臭いカントやら脱構築やら、哲学(っぽい、あくまで、っぽい、という感じ)じみたことを言う場面とつながっていて、うまい終わりだな、とも思っていた。
だが、「私は(生まれながらの)うそつきです」というようなセリフがあまり自分の中でしっくりこなかった。ここは鼻を伸ばすでもなく縮めるでもなく、(太くなるという)また違う変化が必要なので、そのためのセリフで「矛盾」というのは案外理にかなっていると思うのだけれど、それでもペノキヨのセリフとして、芯を食っていない気がした。
この短い物語の中を通してきて、ペノキヨの思いが乗った一言のほうが、一見「理にかなかった」ように見えるものもよりも、強い、と思った。
思いが乗った一言。それが全然思いつかなかった。作中のペノキヨ同様、文字通り、必死で絞り出した。師匠も客も爺さんもいなかったが、私は自分を追い詰め、それを考えた。
結果、「鼻が憎くてたまりません」という言葉が出てきたのだが、それは嘘にも本心にも聞こえるし、うそほんとの基準以上に、それを越えて、心からの言葉、に思えた。作品内でペノキヨが発する言葉で一番力があり、それ故、呪術的なのではないか、と思う。
これなら、鼻が太くなる状況が発動するのではないか(魔法めいた物言いになっているが)、とある程度、納得して書くことができた。
そして、せっかくの師匠との絡み、師匠の笑いを邪魔しつつある、という終わり方も、悲しくおかしく、私にとっての、イグっぽいな、と思えたのだった。
今、気づいたが、なんか、ものすごく細かい(本編の何倍もの長さ!)自作解説になっている。何が、私にとってのイグだ、と恥ずかしい思いでいっぱいではある。
つくづく、おもしろいお話、というものを書くのは難しい。元々が大喜利から生まれたお話なので、その一瞬を切り取ったおもしろさをふくらましてみたけれど、すべてが台無しになる、という怖さもある。最初のお題から一つの世界を作り上げられたか、それがきちんと果たせているのか、自信はない。
ここからいよいよ余談になるのだが、以前、お笑い芸人のネタを一緒に考えていたことがあった。
そのうちの一組(そのネタ担当)とは特に仲が良くなって、いろいろ相談されるようになり、あるとき、単独ライブ用のネタを二人で考えた。
そのうちの一つに「ピノキオ」のネタがある。
少年ピノキオが誘拐される。
犯人のアジトでピノキオは椅子に縛られている。(客席には)背中しか見えない。犯人が家族に身代金要求の電話をかけるため、いろいろと聞き出そうとするのだが、何か答えるたびに鼻が伸びる。犯人がピノキオの前を通ろうとするが、そのたびに、くぐって移動する(倉庫の壁も早々に破壊されている)。
「お前、鼻、伸びとるやないか」と犯人がその度に言う。
ずっと嘘をつかれるので、とりあえず、鼻が伸びない質問をしようとする。だが、それでも伸びていく。「おい」とか呼びかけている時点で、もう伸びる、みたいな流れになる。
もはや、質問してなくても伸びている。(勝手に、伸びてるやないか、みたいなセリフ)。
鼻が伸びるときに効果音を鳴らすのだが、マリオがキノコを採って大きくなるときの効果音を編集して延々くり返すようにした。その音に、合わせて、「伸びとるやないか」の声が重なると、またおもしろかった。ウケた。
細かい会話と何で鼻が伸びるか(これはもう大喜利)、おもしろさを担保する、肝心なその具体的な中身を今やまるで思い出せない。たぶん、自宅の電話番号とかを聞き出して、「0120」とか言い出して、フリーダイヤルやないか、とか、そういうところで鼻を伸ばしたりするのだろう。それがいいとかおもしろいとかじゃなくて、あくまで、例えだから! 即興で今考えたやつだから!
必死な言い訳もともかくとして、これはコンビのネタの中でもかなり好きなものだった(自分が関わったからというのもある)。
彼らはとっくに解散して、そのコンビ名はもちろん、ピノキオのネタさえ、誰も覚えていないだろう。それに今ではこれに似た設定で、もっともっとおもしろいネタがいくらでもあるだろう。手垢にまみれすぎて、誰もこんな設定のコントなんて作らない。
だが、ペノキヨの元ととなる大喜利の答えをあれこれ考えているとき、このコントのことを思い出した。
彼らは続けていれば、売れる売れないはともかく、どこかで一度や二度くらいは、きっといい結果が出たに違いないのだが(私は勝手に、東のジャルジャルと思っていたし――コンビそろって沖縄出身なのだが――あとから、ジャルジャルがやっているネタで、解散した彼らがやりそうだなあ、と思うものもいくつかあった。おもしろさは差があるとしても、そういうニュアンスのネタが彼らは好きだった)、志半ばで、潔い決断をして故郷に帰ってしまった(ネタを作ってたほう)。
こういうのは本当によくある話で、同じような人たちもいろいろ見てきた。何しろ、彼らには華がなかった。運もなかった。ただ、ものすごく、おもしろい人たちだった。それがとても私にとっては大切なことだった。
ペノキヨという作品を書きながら、なんとなく、彼らの芸人時代のことを思い出したし(今でも友達ではあるのだが)、あの、もっと表に出てほしかったピノキオのネタのこともなつかしく、そして愛おしく思った。
彼に、今回、ピノキオのお話書くよ、あのネタのこと思い出したよ、と伝えたら、なつかしいと言ってくれた。それもとてもうれしかった。そして、この作品も読んでもらったけれど、おもしろい、と言ってもらえてうれしかった。
彼におもしろいと言ってもらえるようにおもしろいことを考えていた時期がかつてあったので、それだけでもペノキヨ(ピノキオ)は成仏できたのではないだろうか。
いや、勝手に死んでもらっても困るわけだが。まだペノキヨはクジラに遭遇してすらいない。
さらなる余談だが、このときの単独では天狗のネタも考えた。
(「お前、最近天狗になってるな」と上司っぽい方が言うのだけれど、言われた方は、ただ両こぶしを鼻に重ねているだけでめちゃくちゃ慇懃、というだけのネタ。こっちはこの説明だけでもわかる通り、伝えづらくてあんまりウケなかった記憶がある)
よっぽど鼻が伸びる話、というか鼻がモチーフの話が好きらしい。確かにゴーゴリの「鼻」も芥川の「鼻」も好きだ。
そういえば、noteにも「テングむすめ」という作品を載せているので、よかったら読んでみてほしい。私はこの作品が好きだ。
思いのまま、だらだらと書き連ねてしまった。
初動が遅れてしまったが、これを書いている今は、イグ決勝開始前日の夜だ。明日から、最後の投票が始まる。
できれば勝ちたいな、勝てたらいいな、と思うが、そもそも相手が強すぎる。
前回優勝者げんなりさん、前々回優勝者吉田棒一さん、そしてBFC本戦、その他でも存在感を放つ優れた書き手(イグではないが今回、本戦応募作の「バース/バース」はすばらしすぎてBFC5影の優勝者説もささやかれている)Q平さん。
本当にすてきな書き手の方々、そしてそれぞれのイグを体現している作品で、同じ舞台に一緒に立てたことが、本当にうれしい。
ここまでこれただけでも本望だし、参加して三回目、最初は二回戦で負け、翌年は準々決勝、今年は決勝、と少しずつステップアップしているので、この辺りが限界かもしれない、という思いもある。
いずれにしても、まだ結果がわからないうちに、この記事を締めたい。
決勝の結果が出たあと、この記事を公開するつもりだ。
もちろん、何の予約設定とかでなく、手動だ。思い切り、手作業だ。(あれだけ憎んだ)マウスをぽちっとするわけだ。
公開するときには、きっと変なタグとかつけるんでしょうなあ、と、未来の私に意味のない呪いをかけてみた。
どうしてかは、わからない。
読まれている方はすでに決勝の結果を知っているのだろう。もし私が圧倒的に負けていても、どうか暖かい目でこの文章を読んでやってほしい。そして、ペノキヨちゃんにがんばったね、と言ってやってほしい。鼻、伸びとるやないか、と言ってやってほしい。
なんとなくだが、イグの盛り上がりは年々、減りつつあるように思う。ここまでのラウンドを見る限り、その傾向は今年も変わらないようだ。
今回は予備予選みたいなものがあって、これは新しい取り組みで、例年以上の緊張感、どきどきがあった。
参加者だけが事前に作品を読んで、これはイグ、と思うものに最大三票入れる、というものだが、その投票内容が可視化されないので、自作がそもそも本戦に出られるのか、不安だった。
結果、あまりに接戦となったらしく、参加者のうち数人だけが落ちてしまう状況を避けて、全員が本戦に出ることになったのだが(その判断は書き手にとってとてもありがたく、うれしい。本当に感謝しかない)、いざ、一回戦、それ以降が始まっても、投票している人の半分以上は、参加者、イグ作を書いている方々なのではないか、と思う。
その輪がより遠くまで広がっていない感じがして、さみしくもある。元々、ローカルな大会ではあるのだが、外に広がる動きがどうも硬直しているような、ダイナミズムを感じなくなってきている(それは程度の差こそあれ、BFC本体自体もそうなのかもしれない——もちろん、意義がないとか、作品内容の優劣のことを言っているのではない)。
以前の大会みたいに投票数がコントロールできないくらいに膨らんでしまうこと、それによって運営の方々に負担がかかることも問題だし、そのバランスは非常に難しい。
参加者としてできることも限られ、あまりに無力だと思う。
イグという枠組みを超えるような作品もたくさんあるし、そういう作品が好きだし、私もそういうものを書きたくて参加しているので、ただ願うだけでは何の効果もないのだが、これから始まる決勝も、来年以降も盛り上がるといいな、と思う。
イグに対する思いとこだわりだけは強く持っているし、その自負はある。
来年もまたイグに参加したいです。
来年はもっとおもしろいものを書きたいです。
今年はずいぶん真面目に書いてしまった(最初の無理やり、何かおもしろおかしく書いてやりまっせ、みたいな感じが嘘のようだし、あのときの自分を山へ捨てに行きたい。帰り道はトロッコで降りてきたい)。
あと、トイレ休憩設けます、と言っておきながら、その前振りみたいなものを微塵も回収もせず、放置してしまって、本当に申し訳ないと思っている。あと、とにかく長くて読みづらい文章で申し訳ない、とも。
心から謝罪したい気持ちでいっぱいです。
今、目の前のPCモニターは何か暴力的なものが突き刺さった状態で、ほとんど何も見えないという報告と共に、この記事を了としたい。