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海2編


「海になる」


 痛みはなかった。おへその辺りに小さな水たまりができた。皮膚を青い水面が覆う。いくら拭き取っても消えない。ずっと立っていても垂れ落ちない。鏡に映すと知らない島の地図みたいだった。
 それは少しずつ広がっていく。お腹の表面も水になる。指を突っ込むとくすぐったい。同時に冷ややかさを感じた。手の匂いを嗅ぐ。海の香りがした。小さく波の音が聞こえる。
 
「海、俺は好きだよ、カニもいるし」
 離れて暮らす恋人から返事が届く。会いに来てもらう約束を取り付ける。胸の奥が少し暖かくなった。
 お腹の様子を確かめたら、手のひらが濡れた。海の香りはより濃くなっていた。
 
 わたしを海が覆い尽くそうとしている。胸だけでなく首にまで及ぶ。股の辺りにも広がっていく。身体のラインは変わらない。昼間は服を着て隠す。中に突っ込まない限り、それは何も濡らしはしなかった。
 顔まで浸食してきたらどうなるのだろう。口が覆われたら溺れてしまうんだろうか。鼻も消え、目も海になる。そのとき、わたしには何が見えるのだろう。
 
 恋人は変わらずにわたしを愛してくれた。強く抱き寄せられる。
「波の音がするよ」
 耳にかかる吐息が温かい。まだ残っている唇で恋人の頬や首筋に触れた。それからうすい下唇、やわらかい舌へと移ろう。前と同じ感触に涙が出そうになる。
「カニはいる?」
 わたしが尋ねると恋人は少し困った顔をした。答える代わりに、海で覆われたところに手を入れてかき混ぜる。古い記憶に触れられているような気分だった。
「頭の中がこんがらがっている感じがする」
 わたしは正直に言った。
「ここに俺たちの島を作ろう」
 恋人が言う。
「それができたらいいね」
 
 わたしは海になった、完全に。
 恋人が何かをささやく。たぶん、恋人なんだと思う。もう何も見えない。ただ、耳のあたりが波打つ。きっと恋人の息がかかったからだ。それでもその温もりはもう感じられない。わたしには波の音しか聞こえない。
 
 ときどき誰かがわたしの身体に手を入れ、水を掻く。それはとてもいい気持だ。わたしはいろんなことを思い出せなくなっている。
 海になった人間の最後がどうなるかわからない。けれど、これでよかったのかも、と思う。いつか誰かが泳ぎに来てくれないかな。そのときにはカニも住んでいたらいいな。
 

「瓶の海」


 記憶と違い、冬の海は穏やかだった。
 太陽が沈みかけても水は蒼い。ひと気はない。波の音が規則的にくり返される。はるか先には小さく船が見えた。その姿もやがて消える。わたしの手先は完全に冷え切っていた。
 もう帰らなくては。父を飲み込んだ海をいつまでも眺めているわけにはいかない。丸いガラス瓶の蓋を開ける。水に浸して、中が満たされるまで待った。冷たい風が吹いてくる。これ以上、身体から熱が奪われることはない。
 蓋を閉めるとき、わずかに水がこぼれた。砂が吸いこみ、灰色をさらに濃くした。海に背を向けた途端、潮騒はより強くなった。
 
 海を持ち帰った。窓際の長机に瓶を置く。父はそこで長い手紙をよく書いていた。日当たりは良好なのだけれど、瓶の中は波も立たない。蒼かった水は無色だ。小さな緑の粒がゆらゆら彷徨う。上昇し、揺らめいてまた落ちる。
 窓を開けて空気を入れ替える。冬の匂いがした。鼻の奥がつんと痛い。雪が降るとしたらきっと今この瞬間だろう。
 
 それでも雪は降らなかった。数日経っても瓶の水は色を変えない。透明のまま、ただそこにあった。緑の粒が脈略を失ったように泳いでいる。
 蓋を開けて鼻を近づけた。涙の匂いがした。父が海に消えて以来、わたしは一度も泣いていない。
 
 夜を待つ。空には黄色く丸い月が浮かんでいる。それを瓶の水面に映そうとする。しかし淡い月光は落ちてこない。父をさらった、わたしたちの小さな海はここでは安寧だ。
 この日もまた雪は降らない。
 
 朝からストーブをつけていた。夜中、赤い月が輝く。ようやく海に映すことができた。父さん。わたしは呼びかける。声が掠れていた。もう一度父を呼ぶ。冷たい風が吹き、水面と共に月が揺れる。瓶の中に小さな波が立つ。
 母を呼びに行く。寝室にはいなかった。トイレで母は小さく丸まって眠っていた。
 
 窓際の海に母を連れていく。すでに赤い月は隠れてしまった。波ももう消えていた。
 ここに父さんがいるよ。
 母が短い間、人差し指を水に浸す。それを深くまで舐めた。わたしは顔を背ける。何も言わず、母が去る。
 わたしは瓶に唇を当てて、慎重に傾ける。中の水を一口飲み込む。何の香りも味もしなかった。喉の奥がひんやりと冷たい。蓋を閉めて海を閉じ込める。
 波のささやきの代わりに雪が降る音が聞こえる。
 

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