「ポスタル・サーヴィス」
舌に切手が貼りつき、どうやっても取れなくなった。喉をひくひくさせて彼は泣く。こんなに弱り切った姿を見たことがない。
「どうしてオリンピックの切手なんて舐めたの?」
「手紙を出すために決まってるじゃん」
別人みたいな声色だった。落ち着かないのか、何度も舌を伸ばす。記念切手がのぞく。2020とTOKYOの文字がやけに目立つ。
「なんで、カヌーの切手にしたの?」
「一番いらないやつだから」
切手が剥がれなくなる人は稀に現れるらしい。郵便局はそんな「お客様」を全国どこにでも運ぶサービスを提供している。病院でも処置はうまくいかず、この案内を受けた。
彼は新潟の実家まで運んでもらうことにした。母親が以前から体調を崩していた。そもそも彼女宛ての手紙に貼るための切手だった。
一緒に最寄りの郵便局へ出かけた。彼はボディバッグを肩にかけている。身体に密着している分には荷物の送料はかからない。受付で舌に日付印を押してもらい、局内の隅っこに座らされた。わたしは大げさに手を振った。彼は無言で小さく肩をすくめた。
彼が郵送されると、何をしていいのかわからなくなった。友達を食事に誘うのも買い物に出かけるのも面倒だった。
暇に任せて彼のSwitchでマインクラフトを始めた。はじめはやり方がまるでわからなかった。うろうろしているうちに夜がくる。亡者みたいなやつに何度も殺される。
画面酔いに慣れて、世界観みたいなものも少しずつ理解していく。無事に朝を迎えることができた。そのあとはひたすら山を削り、海を埋める整地作業にはまってしまった。
一週間後、彼が帰ってきた。
「電車で来たの?」
「もちろん、往復はがきじゃないんだから」
彼は舌を出した。切手はまだ貼りついていた。少し縮み、ところどころに染みがある。カヌーの選手とスタンプの日付だけ、ずいぶん色あせた。
「あっちで帰りの分の切手、舐めたらよかったんじゃない?」
彼の顔が赤くなった。黙り込み、しばらく深い呼吸をくり返す。
マイクラの様子を見せる。彼は勝手にいじられたことがいやみたいだった。
「ペペロンチーノワールド」と名付けられたその世界では、海抜ゼロの地平がどこまでも広がっている。わたしの偏執的な開拓作業による成果だ。羊も豚もラマも見当たらない。草原にピンクのベッドだけが置いてある。
地域限定のカニ味のじゃがりこを食べる。一口かじったら止まらなくなり、お土産はすぐになくなった。
「普通の味も食べたくなっちゃったね」
まいばすけっとに出かける。途中、何度か手を繋ぎ直した。彼の掌がすごく熱い。帰りの切手がどうとか、なんであんなことを言ったんだろう。わたしはずっと気にしていた。
趣旨が変わり、ポテコとサク山チョコ次郎をかごに入れる。あとは南アルプスの天然水を二本買った。
部屋に戻ると彼はやたらと饒舌になった。郵送のことを話してくれる。ホンダの赤いステップワゴンに乗せられたらしい。
「車体赤ければいい、ってことじゃなくない? 全然、郵便感ゼロだし、運転する人と二人きりで、ほぼ無言状態だったし」
わたしはまだその声やしゃべり方に慣れていない。相槌を打つようなタイミングでチョコ次郎を摘まむ。
「そういえばさ、母さんも昔、切手が舌に貼りついたって言ってた、遺伝なのかも」
「そのときはさ、母さん、下関に行ったんだって。なんで? って感じ」
「山形のばあちゃんはどうだったんだろう、ばあちゃんもさ、切手、取れなくなったことあったのかな」
「そのさらに先祖とかも、そうなのかな、だとしたら、郵便事業が始まって、最初に切手が貼りついたの、うちの誰かかも、うわあ、それ、すごくない?」
「もっとやばいことにさ、前島密って知ってる? 郵便の父、みたいな人なんだけどさ、出生地がさ、うちの近くなんだよね」
話のうねりみたいなものが気持ち悪くてたまらなかった。声だけでなく、テンポや抑揚、語尾を上げる感じ、語られる内容、すべてが間違っているみたいだった。
切手が剥がれた。テーブルに裏返しの状態で落ちる。彼のしゃべりも止まる。近くを通り過ぎるバイクの音が聞こえる。チョコの味が残る唾をゆっくりと飲み込む。
「お母さんの具合はどうだった?」
彼が静かに泣いた。切手の上にも小さな粒が落ちる。
「来月と、その次の月に、開いて、悪いもの、全部取る。でも、もう母さん、母さんじゃなくなるかも」
わたしの知っている声だった。再び長い沈黙が生まれる。彼は視線を向けてくれない。
わたしは汚れた切手を拾い、舌に乗せた。それは貼りつかず、つるつると滑るばかりだ。
古切手でもサービス受けれるかな? それがダメでも新品の違う種目、まだあるよね? 柔道ならいけそうな気がするんだけど、みたいなことを真面目なトーンで言いたかった。
けれど、言葉が出てこない。甘ったるい口の中で記念切手はいつまでも踊り続ける。
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