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「市民プール」

 日曜の朝、妻が裏庭を掘り始める。プールを作るつもりらしい。本格的なシャベルが二本も用意してあった。すでに足首が隠れる深さまで掘られている。広さは五十センチにも満たない。蛍光オレンジのタンクトップを着た妻は汗まみれだ。掘り返された土が短い草と混ざり合い、小さい山になっていた。

 夕方、打ち合わせを終えて戻ってきても、穴掘りは継続中だ。母も色違いのタンクトップ姿で手伝っている。
「ずっと掘ってたの?」
「さすがに休んだよ、昼寝もしたし」
 妻はぶっきらぼうに答えた。母が笑いながら額の汗を拭う。
 夕飯は寿司の出前を頼んだ。夏までにはある程度プールを完成させてお義母さんと水浴びしたい、と妻が言った。いいね、と母はつぶやき、二貫続けてやりいかを食べた。

 元々、私も妻も仕事を言い訳にして家事のほとんどを母に任せきりだった。それが母もキッチンに立つのを止めて、夕食は出前ばかりが続くようになった。
 妻はスケジュールを調整して、夕方には帰ってくる。そしてひたすら土を掘る。また、早朝から庭に出る。昼間、母も一人で作業をしているようだ。穴は広さと深さを、土の山は高さを少しずつ増していく。
 妻に筋肉がつき始める。リビングのスタンドミラーに映る身体を何度も確認している。普段、私たちは別々の時間に食事を取る。夜遅くに帰宅すると、とんかつ弁当や唐揚げ弁当、麻婆豆腐や麻婆ナス、ネパール風ビリヤニ、ベトナム風オムレツ、ワカモーレナチョス、ケバブライスなどがテーブルに用意されている。

 ほぼ同じタイミングで妻は貝殻を、母は不発弾を掘り起こした。
「何度かスコップが当たっちゃったよ」
 母は不発弾を手元に置きたがる。役所に頼んで処分してもらうべきだと訴えると、母だけでなく妻からも激しい抗議を受ける。結局、二日後に引き取りに来てもらった。私は不在だったが、母は処理班から恫喝同然の注意を受けたらしい。
 妻は貝殻を磨き始めた。唇のような形で殻口に小さなぎざぎざが並ぶ。薄紫色の表面には白い横線が浮かんでいる。妻はリビングや玄関、キッチン、トイレの洗面台など、ランダムに場所を移して貝を飾る。

 本格的な梅雨入り前に穴は放置されていた。急な運動がたたったのか体調を崩し、母は入院する。特に危険な様子はないが、この機会にあらゆる検査を受けるようだ。
 妻は筋肉を落とさないように時間があればジムへ出かける。家では鏡で身体つきをチェックするか、貝を磨く。殻の口に耳を当てたり、時折、中を覗き込んだりもする。何か聞こえるのか、何か見えるのか、私が尋ねても、妻は首を振るだけで何も答えない。

 出前をしまくったおかげで特別なクーポンがもらえた、と妻が言う。翌日、帰宅したときにはハワイ料理がずらりと並んでいた。久しぶりに妻と二人でゆっくりと食事に時間をかける。お義母さんに申し訳ないね、と言いながら、妻は巨大なステーキ肉を半分に切る。それからテーブルの隅に追いやられたマヒマヒのグリルを勧めてきた。
「プールのほうはどうなってる?」
 妻の機嫌がみるみる悪くなった。私は黙ってステーキの残り半分を自分の取り皿に移したが、大きすぎてはみ出してしまう。肉の端が垂れてテーブルに触れる。

 検査のリストは長くなり、母の帰宅は先延ばしにされる。雨が長く続き、庭の穴に水が溜まる。シャベルは放り出され、セメントの袋は積まれたままだ。木板も並べてブロック塀に立てかけてあった。土の山にも雨粒が落ちる。
 筋肉のメンテナンスに努める一方で、妻は食事にはあまり気を遣わない。そしてまた新しいクーポンを手に入れる。それは母が戻ってきたときに使う予定だ。
 私が先に帰宅した際は、そばを茹でて一人で食べる。葱があれば刻む。冷凍庫の海苔をキッチン鋏でカットして散らす。妻は帰りが遅くなっても出前を頼む。私は腹が減っていないのに夜食につき合う。おかげで私だけが太っていく。

 やがて夏が来る。プールは完成しない。毎朝、鳥が庭に降り立つ。蒼いその身体は薄くて長い。二つの穴をしばらく行ったり来たり、土や草をつついたりしたあと、鳥が飛び去る。私はそれを眺めながら出かける支度をする。
 テーブルの真ん中に貝殻が置いてある。今や表面は白みがかっている。ヨーグルトにルバーブのジャムを垂らす。今度の休みに市民プールへ出かけるか、と妻を誘う。俺こそ運動しないと。妻は口を横に広く開けて驚き、遅れて静かに笑う。わたし、水着を買い替えないとだめかも。
 子供のころ、母と海に出かけたときのことを思い出す。母は水色のビキニを着ていた。小さなヤドカリを二匹捕まえた。だが、母に強く諭されて海へ返した。日焼けとクラゲに刺されたこともあって、夜の間、私はずっと泣いていた。
 ヨーグルトがこぼれ、小さな粒となってテーブルに落ちた。私は白い貝殻を手に取る。耳に当てても何も聞こえない。ひんやりと冷たいだけだ。中を覗き込もうとするその瞬間、玄関のチャイムが連続で鳴らされる。不規則に、荒々しく、それは響く。


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