「にんべん」
「わあ、かつおぶし」
次の言葉を口にする間もなく、わたしは白い小部屋にいた。ワープだ。じゃなきゃ拉致だ。たぶん。目の前には黒服の男がいた。頭は灰色でものすごく長身だった。靴がエロいくらいにとんがっていた。
だめだよ、だめ。低音の声が響く。鈴みたいな音も聞こえた。
わたしたちはお好み焼きを焼いている途中だった。キャベツはたっぷり山盛り。山芋も入れてだし汁で溶く。豚肉はバラじゃないとだめだし、揚げ玉を敷いてその上に乗せて焼く。そこに生地をかける。紅ショウガも細かく刻んで入れてある。
具はこれだけで充分、あとはもういらない。完璧で最強。ソースを塗って、あとはかつおぶしをかける。これで完成、のはずだった。
だめなんだって。男がくり返す。ねえ、あなた、かつおぶし踊ってるよ、って言おうとしたでしょ。
言ったっていいじゃないか、と思った。それを知らない男に指摘されるなんて耐えられなかった。
ただ、わたしはそれを恋人になりそうでならなそうな相手に向けて言おうとしていたのだ。客観的に見れば、ものすごく恥ずかしい。そんなの言っていいはずがない。いや、言ったっていいと思う。わたしは混乱している。
男が淡々と説明みたいなことをしてくる。デスゲームでも始まるみたいに。ときどき交じる軽薄な口調が気に入らない。
かつおぶしが踊ってる。この物言いを口にしようとするものは皆、部屋に飛ばされる。部屋というか、この空間というか、次から次へと、飛ばされてくる。絶対に、そんなことを口にさせないんだ、という高次元的的な意思があり、それがこうした形で結実した。わたしもそんな一人だった。
話を聞いて、やっぱり言ったっていいじゃん、別に、とわたしは思った。そんなのさ、これまで何度も聞いてきたよ。わたしの思いはなぜか筒抜けで、いいや、あなたは一度たりとも言わなかったよ、これまで、と断言された。ずっと、誰が言ったのを聞いてただけなのね。でももうそんな悲劇は終わりなわけ。それは誰にも言わせない。言う前に、ここに飛ばされる。かつおぶしは、踊らないんだ。男は最後泣きそうになっていた。
というわけで、今から、かつおぶしの代わりに本当に踊ってもらうからね、と言われてわたしは首を振った。男も即座に首を振った。振られ返された。
「だめなんだ、申し訳ないけど。だって、かつおぶしが躍るわけ、ないじゃないか、だから、だめなんだ、申し訳ないけど、だめだよ、だめ、かつおぶしはさ、踊らないし、だいたいさ、そんなこと言っちゃだめじゃないか、一方的すぎるよ、そういうのって、もう時間だね、それでは踊ってもらうからね、かわりに」
本当に鈴の音が聞こえてきた。男は両手に手持ちの鈴を握り、しゃんしゃんと振った。
白い壁に扉をかたどる黒い線が浮かび上がる。わたしは自動で滑るようにそちらへ動く。勝手に、自由意志もなく、引き寄せられる。扉が開く。その先に舞台が見える。
「それでは、かつおぶしのかわりに踊ってもらいます」
わたしの名前がコールされる。観客たちがくり返す。その人たちの姿はよく見えないけれど、やんややんやと声がする。音楽が流れる。あーぱつあぱつ、あーぱつあぱつ。わたしはいやな気持ちなりながら、いまどきじゃん、って思う。まあ、でもこれなら踊ってもいいか、と一瞬思ってしまい、そのあとで猛烈に拒否したくなって、いやああああ、と叫ぶ。わたしの動きは止まらず、扉の外、壁の外へと送り出される。
ステージに移るまでのわずかな距離がほとんど永遠みたいで、やがてわたしは意識を失う。能天気にAPT.が流れている。もしロゼちゃんもかつおぶし踊ってるとか言ったら、部屋に連れられて、この曲が流れる中、踊らされるのかな、みたいなことをどこかのタイミングで思う。というか、お好み焼きとか、食べたことあるのかな。
わたしは気になっているあの子と熱々のホットプレートの前にいる。豚肉が焦げた匂いが漂っている。生地にもいい焼き色がついている。とろりとしたソースが熱せられた香りにお腹がぐうううるるると動く。
「うん、焼き上がったみたいだね」
恋人未満のすてきな黒髪の子がわたしに向かってつぶやく。思っていたよりも声が乾いている。
わたしの目の前にはかつおぶしのパックがあった。手を伸ばし、切り口から開封しようと思うのだけれど、どうも力が入らない。というか、わたしの中の何かが躊躇している。音楽をかけたい気持ちになる。それも頭の中で勝手に知らない曲が鳴っている。わたしは少し悲しい気持ちになる。なんでだろう。かつおぶしをあつあつのお好み焼きの上にかけたくない。
あの子が代わりに、パックを開ける。
ねえ、マジックカットって全然うまく開いた試しないよね、ってこれは違うか。
そう言いながら、かつおぶしを生地の上に振りかける。
あ、かつおぶしが
その子が消えた。ぱらぱらぱら。かつおぶしがゆっくり生地の上に落ちる。わたしは一人、くにゃくにゃとした動きを見ている。それはずっと踊っている。でもわたしはそれに関して独り言としても何も口にしない。その代わり、アレクサに向けて大声で呼びかける。スポティファイで続き流して。わたしの声はぱりぱりしている。
流れてきたのは、よく知らない演歌っぽい結構ムーディーな曲だった。日本海の冬がどうとか歌ってる。わたしはへらを持って小さく不器用にリズムを取る。