「墓標」
強い雨風の夜が明けたあと、庭に倒れていたのは某国の首相だった。その人はすでに死んでいた。濡れた死体はみるみる干からび、縮んでいく。わたしと息子はその人を庭に埋めた。ただ黙って、手を合わせる。両手の表も裏も、さらには肘のあたりまで汚れていた。雲の切れ間から、朝には不似合いなほど濃密なオレンジ色の光が差し込んでくる。
寝起きからの慌ただしいできごとの間、息子は少しも怖がらず、ちゃんとその人を弔った。そして、いつも通りに小学校へ出かけた。
夕方、めずらしく単身赴任中の夫から電話がかかってきた。
「どう?」
いきなりこちらの様子をうかがう言葉に、わたしは少し緊張した。好き嫌いが落ち着いてきているみたいだ、と息子のことを話した。根拠があったわけではないのに、思いつきで言ってしまった。何ターンか会話を続けたあと、電話を切る。
わたしは夕食の準備を再開する。自分の部屋からそろりと出てきた息子はテーブルの上に宿題を広げているけれど、心ここにあらずといった状態だ。午前中に席替えがあったらしい。好きな子と近くの席になれたのかどうか、息子は教えてくれない。
テレビでニュースが流れる。サミットだか何かの会議で、首脳たちが山中の湖に集まっている。なじみの顔が並ぶ。庭に埋めたその人もいた。ほかの首相や大統領たちとなごやかに談笑している。また、「気候変動」とか「移民問題」とか「核軍縮」について、真剣に意見を交わす様子も画面に映る。
ホスト国の代表として、その人がスピーチしている映像が短く流れた。その顔つきも表情も、声のトーンだって以前とはまるで違う。わたしにはそれがわかる。けれど、ニュースとして報じられているのは、死亡とか哀悼とか暗殺とかそういう暗い類のものではない。あくまで現在進行形として、世界的な会議が行われている、という内容だ。
わたしは料理の手を止めて、テレビにくぎづけだった。わたしたちは顔を見合わせる。その人が映る意味がわかっているのかどうかはともかく、息子は真横に小さく首を振る。
夜中、うまく眠れずに何度かキッチンで水を飲む。やがて空が白み、窓越しに庭の様子が見えた。土から国旗が生えている。その人が首相を務める国のものだ。
庭に降りて、国旗に近づく。それは思ったよりも小さなサイズだった。外はまだ雨の匂いがした。だいぶ弱まったものの、風は吹き続いている。その人を埋めたあたりに柄が刺さっていて、国旗がはためく。周りには何かが掘り返されたようなあとは見つからなかった。わたしは旗を抜き取る。庭はいつもと同じ状態にしておきたかった。
国旗を握ったまま、家の中へ戻る。息子はまだ起きてこない。結局、眠れそうにないので、さらに水を二杯ほど飲み、朝食の支度を始める。テレビでは前日と同じような内容のニュースがくり返される。その人の姿が画面に映る。わたしはちらちらテレビを気にしながら料理を続ける。完成する直前くらいになって、猛烈な眠気を感じてきた。
その日もまた夫が電話をかけてくる。軽く眠るつもりが、かなり本格的な昼寝に移行しつつあったところを起こされる。
「どう?」
わたしはその問いをやり過ごす。ここ最近、こっちはずっと暑くてたまらない、と夫は愚痴をこぼす。わたしは、まあまあ、となだめる。それからまた会話を続ける。その間、気になって何度となく窓の外に視線を向けてしまう。庭は平穏を取り戻している。土が掘り返された様子もない。ただ、地面はずっと湿ったままだ。
サミットは二日目を迎える。それに関する新しいニュースもまた夕方すぎに流れる。その人はそこでもまだ生きている。かつて、わたしが知っていたのとは違う表情や顔つきで、その人が映る。今までにないくらいの大きさまで、その人の顔がズームされる。
朝になると、国旗が生えている。そのたびにわたしは国旗を抜き取る。サミットはやがて終わる。その人の訃報は伝わってこない。夫はこの週末には戻らない。そして息子は苦手な卵料理を本当に克服する。それどころか、大好物になる。
日曜日の遅い昼食、試しにオムライスを作った。ずいぶん、ひさしぶりだ。バターの量が多すぎるくらいだけれど、フライパンからいい香りがした。ちゃんと食べてくれるか不安なので、ケチャップをたくさんかける。卵の上に息子の名前を書いたつもりが、ほとんどつぶれてしまった。最後に、その日の朝に庭から抜き取った国旗を立ててみた。オムライスに飾るにしては大きすぎる。それでも旗は安定している。
テーブルに並べた皿を見て、息子はけらけらとめったにない笑い方をした。それにつられ、声を出さず笑った。わたしはこの国を訪れたことがない。実際、どういうところなのかもよく知らない。けれど、いつか、この子がわたしを連れて行ってくれないかな、と夢みたいなことを思った。
「ごちそうさまでした」
息子は手を合わせた。びっくりするくらいに丁寧な仕草だった。オムライスはすっかり食べつくされた。皿の上にケチャップがうすく小さなたまりを作り、その脇に国旗が寝かされていた。