「僕はきのこだけを傷つけない」
この筆名でエッセイというか、フィクション以外の文章を書いたことはないのだけれど、イグBFC3において「僕はたけのこを傷つけない」(以下「たけ傷」)という作品で参加する上で、いろいろあったことを記してみようと思う。
拙作を楽しんでくださった方、興味を抱いてくれた方、そんな方々にたけ傷の「B面」を楽しまれるように読んでもらえたらとてもうれしい。
この記事は本編のカップリング曲めいたものとなるが、残りの収録曲、全部KAROKEバージョンだった、しかもリラックス・レゲエ・ヴァージョンとかオルゴールremixみたいなやつしか入ってない……そんな悲しきCDバブル時代のようなことはないので、どうか安心を。
昨年のイグBFC2では革命が起きると思っていた――
まずここから話を始めるのだけれど、それは拙作「うりふたつ」が大喜利と小説が一緒になって、しかもそこそこまとまっている! たぶん、そこそこおもしろい! そしてなんと! 最後にフリップで大喜利の答えが出る! という非常に画期的な作品ができた、これは事件だ! と本気で思っていたからだ。難解だったり、下ネタが多かったりするような大会だと、ポップな感じがちょうどいいのでは、という期待もあった。
みなさんの度肝を抜くのではないか、これは大変なことになるぞ、とわくわくしていた。
大変なことになんて、ならなかった。
おかげさまで二回戦には進めたものの、そこで退場となってしまう。それでも望外の数の投票や感想をいただけて、とてもうれしかった。
最初の「革命だ!」という思いは速攻で消え去っていた。というか、吉田棒一さんの「飯塚」がアップされたあとに、むしろ革命はあっちで起きているじゃない、しかも歴史に残るタイプのガチなやつが、という衝撃しかなかった。私の「うりふたつ」なんて、革命ごっこじゃないか、と頬を赤らめたくなるほど、大会前の思い上がりが恥ずかしかった。
感想の中に「小説としてまとまりすぎている」というようなものもあり、イグ観というのは人それぞれに違うのだなあ、ということも改めて思った。
BFCの本戦に関して、M-1みたいなものだと私は本気で思っているので、一年かけて6枚の掌編をどう仕上げるか、というイメージがある。ネタを書き、どんどんブラッシュアップして、それを年末にぶつけ合う、というやつだ。実際にBFCが開催されるかはともかくとしても、6枚の作品を書くことは練習にもなるので、この量での掌編は日々かなり意識している。
というか、BFC以前から、このくらいの長さのお話を書くのが好きで、よく習作としても取り組んでいた。それをnoteでもいくつかあげていたことから、こんなものがあるよ、とご紹介を受け、BFCの存在を知ったのだった。
本体のBFCもお祭りと言えばお祭りではあるものの、イグはさらに何でもあり、というイメージだ。予選がないのでより「ブンゲイ」の概念を壊したものが集まってくる。大会としてはR-1だったり、あるいはむしろThe W(ピンでもソロでもトリオでも漫才でもコントでもネタのスタイルもなんでもいいという意味で)だったり、そちらに近い印象がある。
どんだけお笑い好きやねん、って話なのだけれど、私にとってのイグは、そのお笑い好きの思いを昇華させる場、とも言えよう。
ただ、大喜利を成立させるために逆算してお話を考える、みたいなものは前回の「うりふたつ」のあとでは、また改めて書けるとは思えなかった。あれはそれこそ大喜利を出して(それがお話の中で)すべっても大丈夫なような保険をかけた設定で、そのために双子が出てくるわけで(クリストファー・プリーストにもいつか双子大喜利小説を書いてほしい)、また別の形で「お笑い」を小説にするのはものすごく難しい、もう無理だろう、と諦めていた。
そんな状況下で、ある日、一つのアイデアが頭に降りてきた。それが、ランチパックだった。
おい、ランチパックってなんや。
このようなご感想を抱かれても当然だろう。私も思う。お腹が空いていたのかな、あのとき。みたいなことしか今となっては考えられない。
ともかく、ランチパック、だ。元々、今年のイグ用に考えていたのは、ランチパックをいかにかっこよく見せるか、それを剛力と賢人で言い合う、という内容のものだった(「ナックル」の握りでランチパックーメンチカツ味ーを見せる、という絵が最初に浮かんだ)。見せ方以外のやり取りは夏くらいまでにはだいたい完成していた。大喜利で扱うネタもある程度の候補はあがっていた、それくらいの仕上がり具合だった。
最初のつまずきが起こる。
BFCファイターの一人として、というよりも今では文芸誌でもご活躍の伊藤なむあひさんが、「偏在する鳥たちは遍在する」という作品を発表された。そのことによってTL上で、ランチパック、という言葉が飛び交うようになった。それについての感想、絶賛のコメント、何よりも作品を目にして、驚愕した。
ちなみに、私がBFCではじめて読んだ作品がなむあひさんの「跳ぶ死」で、これがブンゲイファイトクラブなのか! ここに集う作品はこんなにもすごいのか! と強烈な衝撃を受けた。BFCにおいて最初に殴られたのは(洗礼を受けたのは)、間違いなく、なむあひ作品だ。もはや刷り込みとして、私にとってのBFCはなむあひさん、ということになっている。
そんななむあひさんが、傑作「偏在する鳥たちは遍在する」を公開して、それはもちろん、私のイグ用の原稿とはまるで重なるものがないのだけれど、それでもこの「ランチパック」という固有名詞では、戦えない、と感じた。ランチパック作品集としてアンソロジーがあるなら、ご一緒したい気持ちはあるものの、ランチパック先輩として、偉大過ぎる。圧倒的にすぐれた作品なのだ。
もはや剛力と賢人にさよならを告げるしかなかった。剛力には、作中、「友達より大事な……」というセリフを何としても言わせたかったのに。
そんななむあひインパクトのあとでは、もう今年のイグでは大喜利っぽいのは無理か……と思っていた。
用意だけは周到な(それでいて稀代のうっかりぶりも備えた)私は、大喜利ではない、6枚の掌編としてもイグ用に準備してあった。それはあるいは、BFC本戦用でも使えるかもしれない、と思い、事前に書いていたものだ(おそらくこのイグ冒険譚と同じようなタイミングで公開するつもりで、それは「お見舞い」というタイトルなので、こちらもあわせて読んでみてほしい)。
こちらの掌編をイグに出すにしても、あるいは本戦用に仕上げるにしても、かなりブラッシュアップが必要だな、と思っていたとき、きのこやたけのこでいけないか、むしろきのこたけのこ総選挙を前提に、ランチパックでやろうとしていたかっこいい見せ方大喜利みたいなことができないか、というアイデアが浮かんできた。
同時に、今回モチーフとする音楽ユニット(くれぐれもご理解いただきたいのだが、私は一言も作品内でも、そしてツイッター上でも、ユニットの名前を出していない。稲葉松本と散々言っておいてなによ、って話なのだが、最後の一線は超えていないことをどうか知っておいてほしい)が、イメージとして湧いてきた。
稲葉のシャウトする声が聞こえてきた。松本のギター(ちゃんとギブソンなり、レスポールという語句を本文で入れておこうと思っていた)が鳴り響いた。
何やら、ライブレポみたいな物言いになってしまったが、二人がやり取りして、かっこいいきのこなりたけのこの見せ方を披露する、フリップも続けて出す。きのこたけのこと某ユニット、それが絡む内容をほぼ完成形として思い描けた。この段階でほぼほぼ「たけ傷」は出来上がった、と言ってもいいだろう。
ランチパックで剛力に言わせるつもりだったようなことを松本に言わせよう、というのはすぐさま決まった。
(元々、松本が語る一人称の「うち」は剛力が使っていたものである。そして、結果、松本の「うち」のほうが私的には大変おもしろく思えた。剛力が使っていたものである、という一文、なんなんだ、と我ながらかなり強く驚いている)。
堂々と脱線させてもらうが、ランチパックのかっこいい持ち方、見せ方として考えていたものの中に、
叶姉妹の間(グッドルッキングガイの位置)
というのがある。あとは「たけ傷」でも使った世紀末世界の雑魚の肩パットみたいなところについている、とファイルには残っている。
ほかには、ランチパックの形状的にどのCDジャケットの隣ならおもしろいかな、というのは一つの案としてかなり強力だった。ベタなところで
「Velvet Underground & Nico」(ウォーホルのバナナのやつ)と並べて
みたいな感じのものを考えていて、これはかなり別案候補が必要かな、ネタ出しが全然足りないな、と思っていた。NirvanaのNevermind、The ClashのLondon Calling、クリムゾンの「宮殿」(顔のやつ)など有名なジャケットのやつはとりあえずの候補だった。レッチリの「母乳」も強そうだが、おもしろいかどうかは不明だ。
どの答えも、見せ方や置き方に加えて、そのランチパックは何味なのか、というフックを作りやすくて、これは取り合わせによってすごいおもしろくなる可能性があるなあ、とは思った。ハム&マヨネーズ、ピーナッツ、ツナマヨみたいなベタな味をどの見せ方で使うか、その取り合わせが肝になる、と感じていた。
ただ、結果として、たけのこの里のように一点突破でいけたほうが、わかりやすさは増したと思う。そういう意味でも、ランチパックじゃなくてよかったかもしれないのだが、そちらの世界線がどうだったのか、自分がどこまで考えられたか、どんな仕上がりになったか、気になるところだ。
軌道修正。ランチパックからきのこたけのこになったという話だった。
小説にしない。会話だけのやり取りにする。ランチパックのやり方で書き始めていくと、松本稲葉の前提となる関係がある分、そこでの会話はスムーズだし、個人的には、よりおもしろくなるかもな、と手応えのようなものを感じられた。
きのこたけのこ:稲葉松本、という対立軸があって、構造としてはわかりやすくなっている。イグにわかりやすさはむしろマイナスかもしれないが、私的にはただただおもしろいものを書くことが一番イグだと思っている。
(※もちろん、個人的な価値観であることをお断りしたい――そしてそれは自分で書く上での話で、大会で読ませてもらうさまざまなイグ作品はその都度、違った尺度で作者の方それぞれの「イグ」を感じることができて、とても楽しませてもらっていることは強調しておきたい)
むしろランチパックじゃなくてよかったかも、なむあひさん、ありがとう、という気持ち、ある種の光明という名の余裕のようなものだが、そんなことを感じた。
ある種の安心感から、ただ楽しむように書き進めているうちに、ルナシーショックが起こる。
前回のイグで颯爽と現れ、「飯塚」という誰も見たことがないようなものすごい武器で、さまざまなイグ観をなぎ倒すように栄冠を勝ち取った、王者、吉田棒一さんが、イグ大会を前にルナシーをモチーフとした「アイアムザトリガー」という作品をアップされた。
飯塚とは種類や方法が違えど、ルナシー愛に満ちた、吉田棒一のストロングスタイルを貫く、これがまた最高の作品で、私は泣いた。この作品のあと、ビーズ(あ、言っちゃった)で大丈夫かしら、と不安しかなくなった。
私の「笑い」なんてものはただただベタで、ある種、すでに大喜利としてもお笑いのネタとしても、やりつくされている形のものばかりだ。そういう「お笑い」の「お勉強」をして、ブンゲイのスタイルに落とし込んでいるだけで、全然突飛でもなんでもない。個人的にちゃんと好きなものを選んでいるものの、すごくわかりやすく、大喜利の答えとしても「優等生」なものだと思っている。
それに対して、イグ王者だもの。飯塚だよ。前年の衝撃は忘れられない。忘れることができない。あっという間にBFC界隈へその名を轟かせた、対峙する者すべてをひれ伏せた飯塚。その棒一さんのルナシー。
一世風靡した(そして今尚活躍中の)国民的アーティストを愛情を持っていじる。こういう観点からすると、棒一ルナシーと拙作「たけ傷」には共通がある。
今大会もチャンピオンとして参加するであろう棒一さんと並べられたときに、これはちょっと相手にならない。棒一さんがルナシーで参加するわけではないのだが(なんか、新メンバーオーディションみたいな物言いにこそなってるけれど)、そこで比較されるのも辛いし、後追いだと思われたら致命的だよなあ、という思いで、二度目のストップが入ったのだった。
ただ、もうきのこたけのこスタイルで行くつもりだったので、それを某ユニットでやるのか、何か違うのでいくのか、そこですごく迷った。
たとえば、いっそのことお笑い芸人みたいな形に……と書いたところで今、舘ひろしと柴田恭兵でやり取りしたらおもしろいかな、と思ったので、そのバージョンも突き詰めてみたい気もする。あまりよく知らないが(そもそもあぶない刑事もあんまりわかってないのだが)、相棒シリーズでもいいかもしれない。バディものを掘り起こす作業はやっていなかったので、そちらにもまだ鉱脈のようなものはあったかもしれない。
……えーと、話が逸れてしまったけれど、続けると、お笑い芸人のコンビでのやり取りだと、ただでさえ寒々しい会話が、本当に厳しいものになるので(普通に芸人がネタをやっている、という設定自体もおもしろくないので)、結局は、それ以外のジャンルでどういうコンビがいいか、という話になる。そしてそこでは某ユニット以上の目がなくて、結局、そのままいってしまおう、ルナシーショックをなかったことにしよう、という結論で落ち着いた。
というか、当時の私にはもう新たなフォーマットを考える余力がなかったようだ。
腹をくくり、「きのこたけのこいなばまつもと」という仮タイトルで本格的に書き進めていく。全体的なフォーマットはすぐに完成したのだが、あとはかっこいいたけのこの見せ方、というお題の答えの精度を上げる作業に時間をかけていくことになる。
没になった案のいくつかは後述するが、今回使用した答えでは、太宰の生原稿は思い浮かんだ瞬間、いける感じはあった。
ブンゲイファイトクラブということで、読書家の方は多いわけで、どの原稿がいいのか、ということはしっかりと考える余地があった(読者の方の一部からは、これが一番おもしろい答えだと思ってもらうようにもしておきたかった)。個人的には太宰なら斜陽の冒頭が好みなのだが、一文がちょっと長くて厳しそうだった。人口に膾炙している人間失格はもちろんおもしろいので、こっちにするしかなかった。富岳百景は案外いいかもな、と今ちょっと思ったりもした。
それでもやはり作家としても、作品としても、太宰治の人間失格、この一文がよかった。たけのこを句点で、「恥の多い生涯を……」の文を締める、というのは、かなり強いと感じた。
レクサスは、何かロゴをたけのこに変えようと思って、車のロゴを検索して、一発で決まった。車のことは全然詳しくないのだが、たぶん高級車のはずなので、それと一応、お題としての「かっこいい」に沿っている序盤の答えとしてかなり使える、と思った。
2つ目の答えなので、かっこいい、というフレームとレクサスは絶妙の距離感、という印象だ。
と、答えの解説をしようと思っていたわけではなくて、没になったやつをあげるつもりだった。
室井さんの口の中に……というやつがあるのでやめたのだが、
「シータとパズーの手の中にはたけのこの里が……」
みたいなキャプションで、バルスシーン(重ねた手のアップ)を答えにしようかな、という思いもあった。
目が、目がー、とこのあと騒ぐであろうムスカを前に、(あの毅然とした表情で)何チョコを手にしているんだ、というズレた光景がイメージしやすく、おもしろいかな、とかなり推しの案だった。
それでも、室井さんの答えが強すぎて、どちらも身体の部位に(たけのこが)隠れている、という共通点があるため、これは並べられない、ということでやめた。
余談だが、室井さんがほっぺを舌で尖らせているシーンの画像を検索して見つけたとき、めちゃくちゃ笑ってしまった。それを参考画像としてデスクトップに貼っていたのだが、執筆中というか、ほかのときでもそのサムネイルを目にするだけで、楽しかった。室井さん、ずっと尖らせてた。ずっと尖ってた。無事に「たけ傷」を公開し終えたあと、画像をごみ箱に捨てることができて、なぜか、安堵した。
TK(小室哲哉)のインカムマイク、という答えも気に入っていたのだが(自分では文章にして言うことはないが、TKってイニシャルがもうたけのこじゃん!)、これは本文で、マイクとしてお口に近づけたら食べてまうやん、と松本がいじる記述もあり、マイクのイメージが(答えの前に)被るのでやめにした。
その他、没にした答えでメモとして残っているのは(多くはすでに消してしまって思い出せるものが限られるが)以下の通り。
などなど。
固有名詞だらけで、ジェネレーションギャップを感じさせるものも多く、ただただつまらなそうなものもあるものの、ここでも叶姉妹の間(グッドルッキングガイ)を書いていることが驚きだ。
赤坂ミニマラソンの折り返し地点、ゼビウスのバキュラなどはかなり好きなのだが、どこまで伝わるか不安なのと、全体的なボリュームの問題でやめにした。
あと、固有名詞以外の答えを本編でももう少し入れたかったのだが、なかなか難しかった。ここでもう一つ強いものを考えたかった。
私は普段、長い小説を別として、自分の作品でほとんど固有名詞を使うことはない。首都や都会としての「東京」は例外で、具体的な地名もあまり出さない。その反動があるからこそ、イグではがんがん使ってしまうのかもしれない(昨年の「うりふたつ」はマナカナありきだったし)。大喜利の答えとして抽象的なものが難しいというのはあるが、何しろ、稲葉松本を出すのだから、これはもうイケイケ状態でやり切るしかない。これぞイグなのだ、という思い込みで、というわけで、たっぷり使わせてもらった。
あと、普段作品内で使わないもので言うと、ツイッター上では連発するのだが(むしろ「記号」として使いやすいのだと思う)、三点リーダー。これも会話というか科白形式だとかなり頻出する。
イグにおいてはこの二点が大きく違っている。
なんとか原稿を完成させたのだが、イグの募集が始まってからもしばらく温めておいた。文章パートは短く、読み返すときにスルーもされると思うので、投票前にあまり何度も読まれたら、笑い、としてはかなり飽きられるだろうな、と感じていた。
できればぎりぎりに投稿して、あわよくば、あれなに? という感じでざわついているうちに(希望的観測)、投票が始まる、みたいな流れで、とにかく初動の勢いで突っ走ろうと狙ってのことだ。
しかし、投稿締め切り日には泊りがけで出かける用事があり、しかも現地でパソコンを使える目途も立たず、また不慣れな環境での予約投稿とかはもしものときに対応できない、ということで、ほぼ締め切り前日に参加する運びとなった。
今回はレギュレーションで原稿用紙6枚きっちり、ということが書いてあったため、動画の言及はあるけれど、イラストを使った場合、どのようにカウントされるかわからず、不安があった。
その旨を記して運営さんにお伺いを立てておき、出かけることになる。一応、投稿したあとで何か変更できるとは思えなかったので、レギュレーションから外れると判断された場合は、参加除外でお願いします、ということは記しておいた。
まず、規則から外れる、という報告を受けた。私自身としては、まあ、普通に大丈夫かもしれないし、イグだから(前回までのある程度の緩さのように)いけるかもしれないし、また動画に関しては映像内の言葉での文字数とカウントされるらしいから(映像自体の情報量はカウントされないから)、そこまで厳しく判定されないかなあ、そうだといいなあ、という願望は持っていた。
ただ、ほかの参加された方や投票する方から、フリップ一枚を原稿用紙一枚として考えたらだめじゃない? と投票開始後に指摘や抗議をされると、こちらも気持ちが落ち込むし、心がくじけてしまうし、納得いっていない方がいる状態で参加していることは本意ではないので、とにかく事前にはっきりさせておきたかった、もし大丈夫ならば運営さんからの承認(お墨つき)を得ておきたかった、という背景があった。
前もって聞いておいてよかった、という思いと、だめだったか(残念すぎる)、という悲しさが混じり、その上で、事前にこのレギュレーションを問うことで作品が注目されてよかったな、という気持ちがいろいろ混ざり合った。
そんなゆらゆらとした状態のまま、出先の港町でお酒を飲んでしまった。いくらか錯乱していたのだろうか、現地はお魚がおいしいはずなのに、うっかり鳥貴族に入ってしまった。生まれてはじめての鳥貴族だったので、え、全部同じ値段なの? 爵位もないというのに? というピュアな驚きと微塵もおもしろくない一言があったことも、この場で付記しておきたい(主に自戒のため)。
結果的に、運営さんから許容してもらえることになった。正式に参加が認められるまでに、多くの慰めのコメントや、好意的な感想をいただいたことで、とてもうれしかった。だめでも応募してよかった、と心から思えた。ある種の達成感もあった。
いくつかの紆余曲折があった上で、「たけ傷」はイグBFC3の舞台に立つことができた。
この文章は敗退が決まった瞬間、投下される予定なので(あたかも自動みたいな物言いをしたが、完全に手動だ、予約設定みたいなことさえ私にはできない)、大会内での経過、結果については、ここでは語ることはできない。あくまでも、大会に出るまでのお話、ということで長く語らせてもらった。普段、自作解説なんてすることがないので、不思議な高揚感と共に、ずいぶん饒舌になってしまった。
昨年のイグBFC2以降、次は何にしようかといろいろと考え、あれやこれや浮かんではだめになって、それでもまたトライする過程はとても楽しかった。イグならではの、自分がおもしろい(お笑い的に)と思うものを考えていく、という作業を日々断続的ながらにもやってきて、ずっとわくわくした時間を過ごすことができた。
それを「たけ傷」という形にできて、とても幸せだし光栄だと思う。私自身だけでなく、多くの人に読んでもらえて、「たけ傷」は本当に幸せものだ。
今さらだし、自分で言っておいてなんなんだけど、たけ傷ってなんだ。なんか、全然自分の作品じゃないみたい。全然、愛着がわかない。誰? やだ怖い、って感じすらある。
なんだか、大学一年生の基礎ゼミ新歓コンパみたいな席で、工藤が「俺のこと、ヤミィって呼んでな」と工藤とも啓太郎とも関係ないのに、まるで一方的に呼び名を自薦してきた結果、全然普及しなかった光景がオーバーラップするかのようだ。その場のほぼ全員が、ヤミィ? と頭に思っていた。会計の際、二次会の際、帰宅後ベッドで横たわったときも、ヤミィ? と思っていた。
あくまでも仮名で過去を振り返ったが、そのときのような押し付けがましい雰囲気を「たけ傷」からも感じる。
なので、「たけ傷」のことは、みなさん、どうか好きに呼んでほしい。
くり返しになるが、イグの定義はさまざまで、私はどうしてもおもしろい、とか、笑いとか、その辺を(自作のイグには)求めてしまうのだが、笑い、というのは文脈があってこそのものなので、「イグ」をわけのわからないもの、と捉える人ももちろんいるわけで、そこで感じ方や評価の(圧倒的な)違いは出てくるのだろうなあ、とつくづく感じている。こういう形の笑いが苦手、嫌いな人ももちろんいるだろう。そういう人たちにも、何かしらのイグを感じさせるものをいつかは書きたい。
今回、小説という形にもしなかったのだが、稲葉松本のやり取り自体を(書いていて、または読み返していても)自分で笑ってしまう。そこでくすりとしてくれる人がいたら本当にうれしい。
ただ、大喜利の答えのみならず、そんなやり取りのところですら「文脈」は生まれてしまう、むしろこちらからぐいぐい本当の小説以上に作り出しているわけで、それを解体なり脱構築めいた感じにするときは、私の求める笑いは消えてしまう。そんな、ある意味、当たり前の事実を再確認、再実感した今回のイグだった。私が言えることではないが、ブンゲイも、お笑いも、本当に、本当に難しい(だがめちゃくちゃ楽しい)。
大喜利というかフリップ芸みたいなことは、それこそもっと「おもしろいお題」を用意してさらに突き詰めることはできると思うが、それがもう今後、イグでも必要とされない、受け入れられないような、そんな気もしている。大喜利が出てくる設定の小説、そして二人の会話、という形を出してしまったあとでは、お題とひたすらフリップの答えを出すだけでも、もう票は集まらないのではないだろうか(もちろん私以上にお笑いが大好きな方に、大喜利だったり、それこそ漫才やコントだったり、そういうものをブンゲイに持ち込んだイグ作品を書いて、是非とも読ませてほしい、そして圧倒してほしい)。
もし次回も大会があるのだとしたら、それまでに新しい何か、自分なりの新たな、確固たるイグを見つけたい。元々、変な小説を書くのが好きで、そういうものをイグにも出したかった気持ちもあるので、純粋にただただいい掌編、お笑いでなく「おもしろい」お話を書くことに注力して臨みたいなあ、という思いもある。
また来年まで、あれこれ考えて挫折しながらもトライできたらうれしい。
ここまで長い、自己弁護自己擁護的な文章を読んでくださり、ただただ感謝です、ただただありがとうございます、という気持ちでいっぱいだ。ばかばかしい作品を真面目に語ってしまう、それもまたイグ(メタ的だが)なのかもしれない。
次回のイグBFCもまた、思い切り楽しみましょう! お世話になった某ユニット風に言えば、みなさまに、愛のバクダンを放り投げて、了、とさせていただきたい。
あ、その前にこの記事の内容、松本に相談しようか。
(きゃー、という歓声と共に暗転)。