「音楽」
CDはよく燃える。かすかに音を立てて。
炎は内側から放射線状に広がる。円盤の形がゆっくりと失われていく。
娘とそれを眺める。燃える音を一緒に聴く。ちちちちち。ハイハットみたいに規則正しく鳴る。うすピンクの耳が震える。こんなのはよくない、と妻が言う。
オーディオ機器はなくなった。それでもCDは残していた。ケースだけ捨てて専用のラックにしまった。それがいくつも積み上げられる。灰色の一画に妻が鬱陶しげな視線を向ける。
「そういうコレクションって、普通、レコードじゃないの?」
アナログなんて一枚も持っていない。
ずっとCDで音楽を聴いてきた。タワレコやレコファンにひたすら通った。三秒で魅了される曲も視聴機を長らく独占するアルバムもあった。ジャケットやポップのレコメンド文にときめいたときも手に入れた。
音楽は何も殺さない。音楽はずっと鳴り続ける。意味不明なことをときどき思った。
革命が起きた。ストリーミングサービスが始まる。音源をデジタルに変換して残す必要もなくなる。戸惑いつつ一派に加わる。瞬間、気が楽になった。
突然、太った娘が生まれる。妻と揃って四十代半ばを越えていた。角張った頭をうねうねとした黒髪が覆う。肌は白く、青い血管が浮かぶ。およそ赤ちゃんらしくないが、ベビー用家具を置くためのスペースを作った。黒いタンスを廃棄した。本棚やこたつ、ベッドも粗大ごみで出した。
娘は圧倒的なスピードで成長する。二か月足らずで這い回る。よくしゃべる。言っている意味はわからない。十倍粥とすりおろしたかぼちゃを好んでもりもり食べる。歯が生えそろう。夜泣きもしない。ディズニーのメリーをつるしたベッドは窮屈そうだ。
ハーフバースデーを迎える。娘はうろうろ歩く。灰色のラックを開ける。逡巡することなく一枚を選ぶ。とりわけ長い人差し指で器用に回転させ、短く声をあげて放り投げる。妻と同時に叱りつける。ふぁしし。娘が笑う。
ヘリンボーン柄のジョイントマットの上でCDがひっくり返る。じゅ、という音と共に発火する。温かみのある炎が揺らめく。虹色の表面が浸食されていく。火はほかの何ものにも燃え移らない。ちちちちち。高音が響く。すべてが消えて静まり返ったあと、うっすらと粉が残る。
次の夜も娘はCDを投げる。円盤が内側から燃える。もう叱らない。娘も笑わない。二人で小さな音に耳を傾ける。娘の成長がぴたりと止まる。ただ大きすぎる赤ちゃんになる。妻は燃える間だけ家を出る。
Ultraboxがすべて無くなった。じゃがたらの裸の王様も燃えた。Youth Lagoonの数枚も一週間足らずで消滅した。Supergrassの1stと山口百恵ゴールデン☆ベストでは燃える長さも音の響きも違う。Operation Ivyはずいぶん時間がかかって消えた。
一夜に一枚ずつCDが消失する。慣れてくると、燃える音にもコード進行があることがわかる。展開によっては稀に胸を打つ。もう一度聞きたい。その願いは叶わない。残滓から真夜中に齧るチョコレートみたいな甘い匂いが漂う。
ストリーミングですら音楽を聴かなくなっていた。
「CD、燃えるんだって?」
同僚が神妙な顔つきで言う。誰から聞いたのだろう。
「見に行っていい?」
断ると露骨に舌打ちされる。その夜、A Quick Oneが炎に包まれる。娘は子供用の踏み台に乗ってラック内を探すようになった。
三日後には上司からも声をかけられた。まだ幼いんで。産後鬱なんで。頭を下げて断る。上司は来年の異動をちらつかせる。そしてElliott Smithが燃えた。
いよいよ人が集まってきた。結局、同僚や上司たちも訪れた。今では見知らぬ連中がやってくる。
「昔、HMVでバイトしてたんすよ」
アフロの大男が言う。涙ぐみながら、ぜんぶ!プッチモニが炎に包まれるところを見つめている。全身ピンクの女がちょこっとLOVEを歌う。娘の丸々とした耳がぴくぴく動く。瞳の中でオレンジ色だけが燃える。
一歳の誕生日を迎える。成長は尚も止まったままだ。それでもまだ充分に大きい。
娘は黄色い台に乗る。探す手先が珍しく彷徨う。その様子を知らない人たちが見守る。ラックには多くのCDが残っている。
ようやく掴んだ一枚をすぐさま放り投げる。床の上で発火する。拍手が起こる。人生で一番聴いたChicken Zombiesが燃えている。小さく音が鳴る。そのうねりの軌跡を見失う。刹那、娘が死んでしまったような錯覚に陥る。音楽は絶対に、絶対に、絶対に。その先の言葉が出てこない。
娘が静かに飛び降りる。這うように近づき、火の環に手を伸ばす。人差し指のすぐ前で炎が揺らぐ。娘が息を吹きかける。火は消えない。深く吸い、何度かくり返す。頬が紅潮する。カウ。変な声と一緒に白いものを口からどろりと吐き出す。拍手がまばらに鳴る。妻がいつの間にか戻って来て、皆の前で汚れたマットを拭く。