見出し画像

dream

思いが強かったり、期待していたことほど、結果がついて来なかったり、うまくいかないとこころに波が立つ。最初は小さな波だったのに、さまざまなこころの突起した岩にぶつかるたびに、またすこし、またすこしと大きくなる。大きな波は、最初確実に握っていたはずの自信や確信を、かんたんに引き離す。正確には自ら手を解くのだと思う。握っているにはあまりに痛むから。

私は「ずっと思うように勉強できなかったことが悔しかったし劣等感があって...だから今好きなことを学べてるので苦じゃありません」って言いながら泣きそうになっていた。どうして泣きそうだったの?本当に今学べてることが苦じゃなくて、友達と過ごすよりも大切だったなら、泣かないはずじゃない?って思った。でも今私にそれを突きつけてしまったら、今度こそ可哀想になってしまう気がした。

私の道はこっちだ、と思った瞬間から必死に走り続けた。周りの景色は思うより早く過ぎ去ってはくれなかったけど、でも少ない力でばた脚してきたと思う、思っていた。それなのに、何が変わったんだろう。今みんなが戸惑ってることを私は何年もひとりで向き合ってきたから慣れていて、戸惑いも不安ももうない。でもそれは"強くなった"ということなのだろうか?私の欲しかった強さは、これだったのだろうか?
「ずっと続けてきたことだから慣れている」と口で語りながら、妙に肩がさみしい。触れ合う小指がさみしい。細く華奢な二の腕がこいしい。

誰かが私を見捨てたわけではなく、私はひとりで森のなかを進みすぎたのではないだろうか。こんなところに花が咲いてる、ここの木にはクマの爪の跡、突然の雨には注意、夜の森のあたたかな孤独、早朝のつめたい光、それらを私は見てきたけど、誰とも共有できなかった。小鳥たちに、森はこわくないと説きながら、次の道に足がたじろぐ。そんな自分をまた見つめる。その繰り返しだった気がする。

私はどう変わるのだろう。どう変わっていけるのだろう。この森に、山に、頂上はない。下山の道も、もう忘れてしまった。自分で描いた地図の残りがどうしても書けずにいる。でも私の信じてる人は、地図は夢だと言った。夢がない私に地図は書けないのだろうか。
私が私をおもう気持ちでは地図を書くことはできないのだろうか。何なるでもなく、何者にもならないことは、人の言う夢にはならないのだろうか。

今の私になる前も後も、私に夢はない。
夢とはなんなんだろう。
夢という割には甘くなく、ひどく渇するものをどうして求めるんだろう。夢を見つめている時は、外が雪でもあたたかくいられるものなのだろうか。

私に夢はない。でも夢は夢でも、どうか私の愛する人たちが甘い夢を見ているようにと願う。その気持ちが私をあたためつづけるとしたら、それはもう、夢とはいえないのだろうか。

私は結局のところ、夢を見つけることで、頂上を見つけた気になって安心したいだけじゃないか、そうじゃないか?