天理大でのクラスター発生に思う
8月中旬、奈良県の天理大学ラグビー部の部員寮で、新型コロナウイルスの集団感染が確認されたようだ。
私は寮生活で感染が発生するのは、ある程度仕方がないと考えている。
どう考えたって日常生活で他人と接する共用部分が多いのだから、感染をゼロに抑えようという方が難しい。
もちろん感染対策は最大限行うべきだが、一人部屋を用意するとか普通のアパートに引っ越すなどしない限り、大幅なリスク低減は難しいのではないだろうか。
さて、クラスターが発生してしまった今、大学は当事者である学生を精一杯守ってやってほしい。
大学の会見でも学生の精神的ケアに関する言及があり、大学HP上でも感染者及び家族の人権尊重・個人情報保護について配慮を求めている。
ただ1つ気になったのが、大学側が会見で『集団感染が発生し、遺憾に思う。』と表現したことだ。
政治家の発言でよく登場するおなじみの言葉「遺憾」には
期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと。また、そのさま。
のような意味がある(デジタル大辞泉より)。
特段問題はないようにも見える。
ただ、この言葉はどうしても「申し訳ない」や「悪いことをした」というニュアンスを感じさせるのだ。
言葉は、正確に意味通り使っておけばいいというものではない。
こちらの意図通り相手に伝わらなければ、正しい定義など意味をなさないからだ。
結論を言えば、「遺憾」という言葉は使ってもいいけど、同時に
私たち大学は、学生・職員の健康と安全を最優先に対応してまいります。
(私たちは学生の味方です)
感染対策の見直しとともに、陽性が判明した学生はもちろんのこと、必要な人に必要な支援が行き届くよう引き続き尽力いたします。
というメッセージを発してほしかった。
陽性が判明した学生たちが悪者に聞こえるような表現は、極力避けてほしかった、と思ったのだ。
もしかしたら、記事で使われていないだけで会見では話していたかもしれない(そうなると今度は記者・メディアの役割と使命とセンスの話になってくるのかな)。
ただ、私がニュース動画やネット記事を軽く検索した限りでは、(再掲となるが)スポーツ報知のこの記事が最も詳細に書き起こしたものだった。
そして、その中に私が期待するメッセージはなかった。
大人からすると、大学生は叩きやすい。
義務教育課程や高校のような手厚い保護下になく、ある程度の自由が認められ、20歳になれば成人としての責任ある振る舞いが求められる。
改めて考えてみると、大学生はうまく搾取されやすい立ち位置にいるのかもしれない。
(高校生以下の年代に対する扱いや保護が適切十分かというと、それはまた議論の余地があるが、ここでは割愛する。)
(また、ここ数年、「社会人」という言葉に対する違和感を自分なりに覚えるようになってきているが、それについては後日書きたいと思う。)
今回、学生に誹謗中傷を浴びせたり、天理教うんぬんといった別の話と安易に結び付けた人は、自らの行為を大いに恥じてほしい。
少なくとも私は、同じ日本人として恥ずかしい。
(もちろん確からしい根拠があればよいのだが、その場合であっても、淡々と批判することと感情的に誹謗中傷することは別だと心得てもらいたい。)
最後に、国の情報発信について。
ニュースでよく取り上げられているのでご存知の方も多いと思うが、私はニュージーランドのArdern首相の発信の仕方に感銘を受けた。
強く、そして優しく
こんな聡明で素晴らしいメッセージを発するリーダーがいるんだ、と。
私もコロナ禍での日本社会の変化について思うところを書いたが、同じような ‘心の嵐’ が国民の間に吹き荒れることを、彼女は流行の初期段階で予見していたのだろう。
迅速な対応と丁寧な説明は当然だが、それに加え共感や一体感、何を大切にしてコロナ禍と向き合っていけばいいのかという心の指針を発信し続けたその姿勢からは、危機対応時のリーダーや代表者としてのあり方について、学ぶべきものがたくさんある。
日本でも、各首長やあしなが育英会の会長(元記事・会見動画は削除済みでした・・残念)、かつて新型インフルエンザに感染した生徒への誹謗中傷に悩んだ兵庫の元学校長など、発信時の表現や心構えが心に響く人たちがいる。
ただ、それはまだほんの一部。
国にしても大学にしても、「表現力」にまだまだ伸びしろがある代表者たちが多いように感じてしまうのだ。
'20/08/17 最終更新
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