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『幸福について 人生論』/ショーペンハウアー

『幸福について 人生論』/ショーペンハウアー

・知り合いが、高校生時代から、何度も読み返してきた…というので、(表紙も爽やかだし)アドラーというか、『嫌われる勇気』みたいな本なのかな…と思いきや、非常に読みづらい一冊で、とても時間がかかった。

・同じ時期に、他の人に勧められたマルクス・アウレリウスの『自省録』を読んでいて、なんか、良いこと言ってそうな感じがするんだけれども、たまに、「ウズラを飼ってはならない」みたいな、謎めいた警句があったりして、こういう、古い警句録みたいなのを、かろうじて意味合いが取れる部分を頑張って読むくらいなら、「漫画で読める名著」とか、「超訳 ●●の言葉」みたいな、わかりやすく自己啓発本みたいになっているやつを読む方が、理にかなっているという気がせんでもない、という気がした。

・大学時代に哲学科の後輩がいて、なんかおすすめの本を教えておくれ、という話をすると、鷲田清一さんを勧めてくれて、それで『聴くことの力』とかを読んだりしていた時期があった。それまで基本的には小説とか、エッセーしか読んでなくて、大学生になったら、小難しい哲学の本とか読みたいっすわ、と思いつつも、新潮文庫のヤスパースの『哲学入門』を読んで、何がなんだかわからず、精神的にスタックしていたところ、鷲田清一さんの『聴くことの力』とか、『弱さのちから』は、「臨床哲学」と銘打っているだけあって、なんか、実際的にも勉強になるものがあったし、非常に良かった。ただ、鷲田清一さんおすすめのメルロ=ポンティを読むと、これは、全然意味が分からなかった。その時思ったのは、メルロ=ポンティはあくまで素材であって、鷲田清一さんが料理して、我々にも分かりやすい形にしてくれていることで、なんとか消化できる…ということなのだろうな、ということだ。それは、例えば、千葉雅也さんの『現代思想入門』とかも、同じことなのだろう。

・なので、独力で哲学書を読むことに関しては諦めがある。というのも、「脱構築」的な、前提となる概念への知識が足りないし、それを独力で補完していくだけの気力も(知力も)ない、ということが一つ、また、仮にそれを理解した所で、生きることが楽になるというか、人生理解というか、人間理解が深まるようにはあまり思えないからだ。(結局、人が、なんのために本を読んだり、映画を観たりしているかといえば、レクリエーションというか、時間つぶし、的な所以外では、少しでも人生理解、人間理解を深めたいからではないか?)

・ショーペンハウアーの『幸福について』は、幸い、そうした、前提知識が必須な、哲学哲学した感じではなく、人生訓という感じがあって、そういう意味では、(読みづらくはあるものの)楽しんで読めた。アウレリウスの『自省録』は、いいと思うんだけど、「アウレリウスが書いてるから」今も読まれてるってだけじゃない?と思ってしまう所があったけれど、ショーペンハウアーの文章は、独特の厚みがあって、いい。なんだか当たり障りのない表紙の感じの割に、書いてあることは、ひどく厭世的で、すごい事言うね…みたいなのが多い所が良かった。

もとより人生は本来、楽しむべきものではなく、克服し、始末をつけるべきものなのである。

「幸福に生きる」ということは「あまり不幸でなく」すなわち我慢のなる程度に生きるという意味に解すべきであるということから、幸福論の教えが始まるのでなければならない。

各自の生きる世界は、何よりもまず世界に対する各自の見方に左右され、頭脳の差異によって違ってくる。
頭脳次第で、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなれば、豊かでおもしろく味わい深いものにもなる。
たとえば他人の生涯に起こった痛快な出来事を羨む人があるが、そういう人はむしろ、他人が痛快な出来事として描写しうるだけの重要性をその出来事に認めたというその把握の才をこそ羨むべきであろう。

・意味合いが分かりづらい所があって、おおまかな理解のために、サブ・テキストとして『まんがで読破! ショーペンハウアー 幸福について』も読んだんだけれど、なるほど、ニーチェの先輩みたいな立ち位置の人なんだ、とか、ヘーゲル的な哲学哲学した哲学に異を唱える立場の人だったんだ…とか、色々理解が深まった。『まんがで読破』シリーズで小説を読むのは、2倍速で映画を観る的な無意味さを感じるけども、こういう本に関してはエッセンスがわかっていいのかも、と、見直すような気持ちになった。

・幸福であるためのコツとして、幸福と感じられるための閾値を下げるべきである…みたいな(全然違うかもしれないけど)ことが書いてある箇所があって、これも、大学生時代に、ジョイフルで試験勉強をしながら、同級生と話していたことを思い出した。「おいしいと感じる閾値が低くて」例えばジョイフルのメニューでも最高に美味だと感じてしまう、という状況というのは、実は素晴らしいことではないか。それはつまり、「幸福と感じる閾値が」低くて、何事にも幸福を感じられる、というのと、同じことなのではないか。ただ、それはつまり、本当に微妙な味わいとか、差異を理解できない、ということではないか、ということ。ただ、俺は、良いモンが食いたいんだ…という思いもあった。

・また、孤独を良しとすべし、みたいな所にも、少し前時代的なものを感じなくはない。でもそういう考え方の人もおるよなぁ、みたいな気もするけど、なんか、中二病的なものを感じなくもなかった。それはそれで良いと思うんだけれど、ただ、俺は、人と関わりたいんだ…というふうにも感じた。

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