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『騎士団長殺し』/村上春樹
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・2017年なので7年前、個人的にも何かと忙しかった頃、ザーッとひと思いに読んで、深夜の2時くらいに読み終わって、何がなんだか分かんねぇ話だな、と思って、それから7年間一度も読まなかった。(今回、夏休みに読み返してみた)
・高校生の時に『海辺のカフカ』や『ねじまき鳥クロニクル』を繰り返し読んでいた時のようにはのめり込めなかったんだけれど、一つには、登場人物に、今ひとつ共感出来なかったというのが大きかったように思う。主人公も、どういう見かけなのか(不思議と)想像しづらい所があるし、白髪の壮年男性である免色さんは、名前の怪しさも伴って、自分の頭の中では、みのもんたか、晩年のブライアン・ウィルソンのようなイメージだし、身長60cmで、変な話し方の騎士団長は、手塚治虫の漫画に出てくるオムカエデゴンス的なイメージとなった。そんなこんなで、(いつも以上に)何がなんだか分かんねぇ話だな、という感想になった気がする。
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・村上春樹自身が、エッセイとかで、よく「●●(作家)は晩年になっても力のある作品を作り続けた」とか、「●●にあった輝きは、◯◯(作品)以降、避けがたく失われていった」…みたいに書いてあるのを読むけれど、村上春樹の作品群は、初期(鼠シリーズ〜ノルウェーの森)、中期(ねじまき鳥クロニクル周辺〜海辺のカフカ)、後期(1Q84以降)、という区分けになるのではないか。という意味では、『騎士団長殺し』は、後期の、不思議な佇まいの小品…とでもいう感じがある。
・前半、抑制されたトーンで語られる、肖像画家としての主人公の行き詰まった生活、免色さんとの関わり、庭から聞こえてくる不思議な鈴の音色、屋根裏に隠された不気味な絵画…の辺りまでは、これまでの春樹の世界にはなかったような、ちょっとしたミステリー的な手応えがあって、新境地か!?みたいな感じがする。ただ、庭に井戸めいたものが登場するにあたって、ま、また、井戸ですか!?みたいな感じがあり、なんといっても身長60cmのオムカエデゴンス的な騎士団長が登場する辺りから、様子が、俄におかしくなってくる。
・思えば、自分が大学生時代に出た『1Q84』は、とにかく、巨大な作品という印象があったし、社会現象にもなった(ような覚えがある)。個人的に、『アフターダーク』がすごく好きで、『1Q84』が出た時も、その世界と地続きの、現代を舞台にした、春樹が志したという総合小説(というのが、どういったものなのか、正確なイメージはないけれど)なのか!?と思いきや、舞台は80年代、主なテーマはオウム真理教的な宗教団体、という所で、肩透かしだった思い出がある。個人的には、高校生の時に、『海辺のカフカ』を読んで、啓示を受けた(ような気分になった)ように、『1Q84』にも、なんらかの啓示を期待していた所があったのだろう。大学生になって、00年代も終わりに近づいた頃、春樹が、日々不可解に入り組んでいくように思えるこの現代の世界を、紐解いてくれるのでは…みたいな、妙な期待感があったと言える。(という意味で、『アフターダーク』には、若者が深夜のジョナサンで夜ふかしをする感じとか、監視カメラのような独特の視点の設定とか、ひどく現代的な感じがして、何か、春樹が、新たな世界に足を踏み入れようとしているような感触があった)
・とはいえ、(長いし)野心的な気がした『1Q84』に比べると、『騎士団長殺し』は、村上春樹が、春樹らしい記号の中で、戯れてるような作風だな、と感じたものだった。『街とその不確かな壁』に関しても、同じような感想がある。後期の春樹の作風は、端的に言えば、村上春樹が、もはや盤石となった村上春樹らしい世界/記号の中で、戯れているような作風、ということになるのだろうか?
・今回7年ぶりに(Kindleで)読み返すと、やっぱ、なんか、普通に面白いな、という気がした。「我々の人生においては、現実と非現実の境目がうまくつかめなくなってしまうことが往々にしてあるのです」ということ。物語の類型のようなものがあるとして、主人公が、ある状態(非現実)を通過して、元の日常(現実)に帰るんだけれども、最初とは違う状態になる。それを追体験することで、我々もある種、その物語を読む前と違う状態になることが出来る。村上春樹の小説世界においては、非現実への入り口として、象徴的に「井戸」のような装置が出てくる。それがひどく新鮮だった『ねじまき鳥』に比べると、はぁ、また裏庭に井戸あるんすか、というか、また(『1Q84』同様)療養病院にお爺さんがいて、そこで異変が起きるんすか、というか、今回は「空気さなぎ」じゃなくて「顔なが」すか、みたいな感じが、なくはない。「海辺のカフカ」の、主人公のカフカくんが非現実の世界に足を踏み入れていく所の、意識が変容していく感じというか、緊張感に比べると、「顔なが」の、微妙な緊張感のなさが切ない(オレンジ色のとんがり帽子!?)。でも、そういう所も、味わいがあっていいのかもしれない。若い頃はとんがって、エキセントリックなネタをやっていた漫才師が、キャリアを重ねるに従って、徐々に力を抜けた、自己言及的というか、ベタなネタもするんだけれども、それはそれで、円熟味というか、味わいがあっていい、みたいなことかもしれないな、と思った。
・「非現実を通過する」際に、主人公が、「どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができる」と信じて、二重メタファーにとらわれることなく、なんか、狭い洞窟を、頑張ってくぐり抜けるくだりが、やっぱり、感動的なように思った。自分も、象徴的な狭い洞窟を、日々、頑張ってくぐり抜けなあきませんなぁ、という気がした。