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『私ときどきレッサーパンダ』 世間体という呪い

コロナ禍の影響でこの2年間、映画館への足がすっかり遠のいてしまった。上映作品も軒並み公開延期や、劇場をスルーして配信へと移行していた。そういった中で、企画段階から配信専用として制作されてであろう『私ときどきレッサーパンダ』。配信専用作品もあってか、従来のピクサー作品のような製作費のたっぷりかかった濃厚さはない。なんとなくこざっぱりとした亜流の匂いさえする。監督は中国系のドミー・シー。30代前半の女流監督さん。短編の『BAO』はとても良かった。長編初監督作品でもあるし、いつものピクサーよりも軽いつくりなので、監督も肩の荷も少し軽かったのではないだろうか。こちらも邦題からして、正直あまり期待しないでいた。でもナメてかかったら大間違い。

『私ときどきレッサーパンダ』がDisney+で放映開始となった途端、ネットで絶賛の声が上がった。早速配信ボタンを押してみる。ファミリー向けの誰もが楽しめる作風で、社会問題を扱った風刺作品ではないか! しっかり大人の客層にもアピールしている。自分は社会風刺が利いたエンターテイメント作品は大好物。アジア系の女流監督が放つ、半自伝的なテーマ。生きていくにつれどんどん不自由になっていく、女の子問題をコメディとして描いている。主人公がレッサーパンダに変身してしまうのは、その抑圧への爆発のメタファー。可愛い怪物。レッサーパンダが可愛いだけの映画ではない。肩肘張らずにフェミニズムを語っている。社会啓蒙を孕んだ脚本。やっぱりピクサーらしい濃厚な作品だった。

「女の敵は女」という言葉がある。主人公を悩ませる相手は、同性の自分の母親だったりする。母親だってかつては夢多き少女だった。世間体を守るため「ああしなければ、こうしなければ」と、生きていくための制約がどんどん増えてくる。がんじがらめになって、いつの間にか自分自身を見失っていく。目標は、世間からはきちんとした立派な女性となっていく。それが見せかけだけでも。そしてその裏で封じ込められた、数々の夢。悔しい気持ちがモヤってきて、モンスターにならずにはいられない。

世間に恥ずかしくない人となっていく。目上の人からの「あなたのためを思って」という忠告は呪いの言葉。この殺し文句をいう人は、単に相手をコントロールしたいだけ。適切な距離をまたなければ、自分がダメになる。相手が身内なら、かなり危険。

近年ではSNSも加わって、どこへ行っても息を抜けなくなった。物事の判断基準は、自分の気持ちではなくて、世間に文句を言われないでいること。いつしか自分の本心に蓋をする癖がつき、自分で考えることよりも、他人の評価を優先するようになる。承認欲求がすべてのモチベーション。蓋をして閉じ込めた自分の本心は、やがて心の奥底で腐り始めて悪臭を放つ。

良い成績を取って良い学校へ進学する。そして良い大学へ行って、良い会社に就職する。「自分が自分であるために勝ち続けなければならない」と歌って、若くして亡くなった歌手もいる。勝ち負けだけの人生はキツすぎる。ホントの幸せってなんだろう? 近年のアジアでの行き過ぎた学歴中心主義の弊害。自尊感情の著しい喪失。

日本の子どもたちの幸福度が、先進国38カ国中、37位というニュースが流れた。結果第一主義で、20年以上不景気が続いて年々悪化している国で、夢や希望を抱いていくのは難しい。子どもたちの将来なりたい職業No. 1は「会社員」。それ職業じゃなくて雇用形態でしょ? 一時期の「将来の夢は公務員」よりも悪夢的。現代は、まず長いものに巻かれたあとから、人生設計を始めるのだろうか。

このゴールデンウィークに、NHKで若者たちの声を聴こうとする番組が特集された。実のところ、子どもたちの声に耳を貸すどころか、大人たちこそが救われていないことを忘れがち。上の世代が腐っているから、その下の世代に気が回るはずもない。「限界おじさん」なんて言葉があるくらい、自分が差別発言をしている価値観すらない人も多い。「自分が苦労をしたのだから、下も苦労して当然」となっていたら、いつまで経っても世の中は、より良い方向へ向かわない。

主人公の少女たちが抑えつけられていく。彼女たちがやりたいことは、アイドルのライブに行ったり、ボーイフレンドに憧れたりと、大したことは考えていない。しかもこの映画に登場するアイドルグループが、この20年くらいの間に人気があったり、今まさに絶頂期の実在のアイドルのいいとこ取りなのが笑える。若い女性監督ならではのリアルさ。

それをあたかも道を外れたかのように親が取り締まる。過干渉による人権無視も甚だしい。子どもは親の所有物のような誤解。親離れ子離れがなかなかできない。どこかでシフトチェンジしなければ、生きづらさの連鎖は永遠に終わらない。

街を歩いていると、マナーを守らない横柄な人というのはどこにでもいる。そういった人物を想像すると、態度のデカいおっさんのイメージがすぐ浮かぶ。もちろんそんな厄介なおっさんはどこにでもいる。けれど最近では、若い女性の方が凶暴なように感じる。見た目はファッションも気にしていて、可愛らしい見栄えの彼女たち。その見た目と裏腹に、混雑の中わざとぶつかってきたり、子どもを押し退けたりしている姿に遭遇する。その姿にはかなりショックを受ける。態度のデカいおっさんは少数派なので避けることはできるが、凶暴な若い女子は不特定多数。いかに彼女たちが生きづらさを抱えているかが伺える。逆に多くのおじさんたちが、痴漢と勘違いされないように小さく縮こまって電車に乗っているようにも感じられる。女性専用車両を設けるだけでなく、男性専用車両も作って欲しいと思うのはちと軟弱か。とにかく社会には女性の敵が多すぎる。

そもそもラッシュ時の混み具合は異常。コロナ禍で電車利用客が減ったせいで、1時間の電車本数が激減した。鉄道会社も運営が厳しいのだろう。ラッシュありきでなんとか商売が成り立つようでは、この先も永遠にラッシュ問題は解決しない。果たして「しょうがない」で済ますしかないのか? ラッシュアワーの改善については、企業努力だけではどうにもならないことがハッキリした。電車ネタ故に話が脱線してしまった。

さて、フェミニズムを考えて女性の生きづらさを改善していくとなると、結局男性にも生きやすい世の中に変わっていくことが想像できる。男性が同性同士でいじめ合うホモソーシャル。いじめられた側は、自分より弱い立場の人をさらにいじめて、精神的な復讐をしていく。さまざまな暴力が、上から下へとトリクルダウン。やられた方は、誰が敵かわからないので、警戒心と凶暴さをギラギラ尖らせる。つまりは若い女性の凶暴化。でも感情表現もファッションのうち。オシャレの意味を考える。みんながみんな怒ってる世の中に疑問を投げかける。誰もが自己憐憫で、被害者の気持ちなのはおかしい。誰もが周りにギスギス当たり散らす世の中はイヤだ。自分にも他人にも優しい社会が望ましい。

女性がレッサーパンダに化けるとは、これまた饒舌な皮肉。街には怒りを心の奥底に秘めた可愛いモンスターたちで満ち満ちている。でもそれは自分自身かもしれない。まさか自分がモンスターになっていだろうか。セルフチャックがときどき必要。もし危険信号が出ていたら、急いで自分に優しくしてあげないといけない。追い詰められている自分には、きっと甘すぎるくらいのサービスをしてあげてケアしてあげないと。この映画の原題が『Turning Red』というのも、多くの意味を孕んでいて哲学的。まずはLOVE MY SELFの精神。自分自身のいちばん味方は、自分自身しかない。自分に優しくできなければ、他人ね優しくなんてできない。もっともっと自分に優しくしてあげなければと、映画を観て感じていた。


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