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『あしたのジョー2』 破滅を背負ってくれた…あいつ


Amazon primeでテレビアニメの『あしたのジョー』と『あしたのジョー2』が配信された。1960年代から原作がスタート、アニメ版は自分が物心つく頃には、夕方の再放送で何度も流れていた。面白いのか否かも判断できず、アニメーションだから子ども向けなのだろうと思って観ていた。


『あしたのジョー』の登場人物の力石徹が劇中で亡くなったとき、実際に葬式を執り行ったという。ファンイベントの先駆け。それもまだ自分が生まれるちょっと前のこと。テレビアニメの放送が原作連載に追いついてしまったため、アニメ版『あしたのジョー』は物語の途中、未完結のまま終了。『あしたのジョー2』はその10年後1980年から始まる。自分はこの『あしたのジョー2』世代。子どもが多く観るテレビアニメとは思えないくらい、シブい演出が好きだった。

今回観た『あしたのジョー2』は、2021年に4Kリマスターしたものだとか。最近のアニメ作品までとは言わないが、かなりの高画質で40年前の作品とは思えない。アニメやマンガのファンションセンスはいい加減だから、時代の空気が読めない。逆にウェルメイドな印象を与えてしまうのも皮肉。ふと街並みや建物、家電などが昔懐かしいものが登場して、古い作品なのだと気づかさせられる。

『あしたのジョー2』は、当時としては珍しいステレオ音声のテレビアニメ。迫力の劇伴や効果音が楽しかった。日本が舞台だけれど、まるで洋画を観ている感じがした。制作者側から、「カッコいいものを作ってやろう」と意気込みを感じる。

主人公の矢吹丈がどんどん勝ち進んでいく。海外での対戦相手が増えてくる。今観ると、日本人の声優さんが一生懸命英語のセリフを喋っているのが気になる。英語圏のキャラクターなのに、日本語訛りの英語だったり、心の中の声になると急に日本語をペラペラ喋り出したりするのもご愛嬌。ネイティブ英語の声優さんも起用しているので、耳がちょっと混乱する。小学生の自分には、字幕スーパーに目が追いつかなくて苦労したのも懐かしい。

作品の世界観は完全にホモソーシャル。登場する男たちが皆魅力的で、お互いを讃えあっている。一話から登場するゴロマキ権藤は、チンピラなのに紳士的。カーロス・リベラの伊達男ぶり、中尾隆聖さんの芝居がカッコよかった。そして韓国からの対戦相手・金竜飛の幼少時代、朝鮮戦争での悲惨な生い立ちの場面では凍りついた。それぞれ破滅へ向かう男たちの姿が、小学生だった自分には憧れの存在だった。でもどうやら自分にはボクシングはできそうにない。殴り合いのスポーツなんて怖すぎる。

『あしたのジョー』の魅力は、主人公の矢吹丈の存在に限る。態度は子どもっぽいのに、あおい輝彦さんの大人っぽいキザな声が、現実感を超えたヒーローっぽさになっていてよかった。放浪癖のある丈に『男はつらいよ』の寅さんの生きづらさが重なり、キザな言動には石原裕次郎の太陽族からの影響も感じる。

放浪癖のある人は優しい人が多い。周りに気を使い過ぎて疲れてしまう。人から慕われるかもしれないが、本人は人付き合いが苦手。ときどき衝動的に旅に出て、ひとりぼっちになりたくなるのかもしれない。矢吹丈は天涯孤独。幼い頃孤児院を脱走して、それ以来旅をしながら生きていた。地に足のつかない生活。誰も信用していない。ひとりでもなんとかやってこれた。これからもひとりでやっていける。

丈の悲しい目が好きだった。実際のボクサーや暴力と隣り合わせの人生を送っている人の目は、いまにも飛びかかってきそうな闘犬の光を放っている。そこには悲しみとは別のものが流れている。そういえば、映画『ロッキー』のロッキー・バルボアも悲しい目をしていた。ロッキーもフィクションの人物。演じているシルベスター・スタローンの魅力と言っていい。媒体の向こう側だからこそ説得力が出てくるキャラクター。実際にはこんな人はいないと思いつつ、登場人物に感情を重ねてしまう。

丈は、飲んだくれの丹下段平に、ケンカの強さを買われてボクシングに誘われる。丈が目指しているものは金でも名声でもない。拝金主義の現代から見ると、とても新鮮。「真っ白に燃え尽きたい」と言う丈は、夢に殉ずることを願っている。納得のできる死に場所を探している。この破滅的な英雄の姿に、燃えられない己のもどかしさを昇華させる。

配信の『あしたのジョー2』を、小学生の息子と観ていた。ふと息子は素朴に質問する。「なんでこの人は死にたがってるの?」 丈にとって人間社会はあまりにも生きづらい。「真っ白に燃え尽きる」というのは方便で、本心としてはこのまま人知れず消えてしまいたいという思いだろう。本来なら、猫の死に際のように姿を消してしまいたい。

破滅に自ら飛び込んでいく矢吹丈の思考は、現代的な視点から見ると奇異に見える。自分に優しくない、もっと自分を愛せよ。泥臭くても生きていくことに目を向けるべきと、2022年の現代は価値観が変化した。

自分が10代になるかならないかのころ、『あしたのジョー』に出会った。そして10代の終わりに、リュック・ベッソン監督のフランス映画『グランブルー』を観てしまう。どちらも似たようなタイプの主人公の物語。『グランブルー』の最初の邦題は『グレートブルー』。いま観れるバージョンより1時間ほど短い、国際配給用に再編集されたもの。主人公はイルカと遊ぶのが大好きで、人生のほとんどを水の中で過ごしている。人間関係や勝ち負けに挑むことが煩わしい。長尺版の『グランブルー』での主人公は、少しだけ人との繋がりに迷いを示すが、短縮版『グレートブルー』では、なにひとつ迷うことなく自分のロマンだけに殉じていく。その姿に共感した。でも、『グランブルー』のモデルになった実際のジャック・マイヨールは、「さみしい」と書き残して自死してしまう。さみしいって、どうして?

以前ある政治家が「生産性のない人間は価値がない」と言った。ここでの生産性とは、職業を持って経済を回したり、子を産み育てることを言っている。はたして人の価値はそれだけなのだろうか。矢吹丈はスター・ボクサーで、彼の試合には多くの経済が動く。この政治家が言う「価値のある人間」ではあるが、丈自身には自分の価値は見出せていない。自信満々に見える矢吹丈の姿には、自分自身を愛せていない姿が見えてくる。流行りの言葉で言うなら、自己肯定感の低さ。本来人は、存在しているだけで価値がある。

主人公だから当然だけど、矢吹丈は取り巻く人たち皆に愛されている。皆が丈を必要としている。それは彼がスターだからではない。丈はそれを自覚していない。

ホモソーシャルの作品で、数少ない女性キャラが興味深い。丈の住むドヤ街の酒屋の娘の紀子がいい。ほのかに丈を慕っているのだが、最終的には別の相手と結婚する。紀子が丈の気持ちを確かめようとする場面が数回ある。そんなとき丈はいつも本題から逸れた回答をしている。紀子からすれば、人生と向き合おうとしないようにも見える。彼女の結婚披露宴で、他人事のようにヘラヘラとスピーチをしている丈を見る紀子の目が怖い。40年前の日本で、女性は今よりももっと本心を語ることはなかった。そんな紀子なりの強い意思表示。人は自分自身を大事にできていないと、周りの人たちまでも傷つける。

物語の最後、丈は真っ白に燃え尽きる。果たしてこれは彼の死なのか、よく論争になる。原作者の高森朝雄こと梶原一騎さんは、丈の死亡説を語っていた。一方で作画のちばてつやさんは、丈の第二の人生のイラストも描いている。パンチドランカーになっだけど、白木葉子と共に生きている。やり遂げた丈が余生を送る姿に、かつて自分は安堵した。でも今は彼の生死を問うのはあまり意味がないと思えている。『あしたのジョー』は、生き残るかどうかの作品ではなくて、生きざまの物語だから。

女性キャラクターの声優さんは、素人公募のオーディションで決まったらしい。演技がアニメ的でないところが、何を考えているかわからない神秘的な効果を出している。ホモソーシャルな男目線からの女性心理など、わかるはずもない。せめてもの救いは、丈が葉子からは逃げなかったこと。

気が滅入るほど波瀾万丈な人生を送った梶原一騎さん。タフな印象だったけど、享年50歳。意外と早く亡くなっている。太く短い人生。作品に描かれた主人公たちの生きざまは、梶原一騎さんの理想だったのかも。丈の生存を語ったちばてつやさんが、今も現役なのが、両者の人生観をそのまま物語っている。

アニメ版『あしたのジョー』の出崎統監督は、コンテマンの名手と聞く。感情の機微よりも感覚的に、カッコよくて効率のいい絵づくりをしていく。低予算で制作時間のないテレビアニメに向いている。

『あしたのジョー2』前半の演出は細かい。手描きアニメーションでもっとも面倒なスローモーション描写や、建物を回り込むドローンのような表現で、観客を飽きさせまいとする。子どもの頃に観た印象的な演出は、大人になった今でも、しっかり刷り込まれている。

今回感じたのは、後半になると、全体のつくりが荒くなってきていること。大団円になるにつれ物語は盛り上がっていくにも関わらず、演出が単調になっていく。最終決戦のホセ・メンドーサの印象が、自分には薄い理由がそこにあった。制作時間の足りなさが、画面に反映してしまっている。きっとギリギリのところでスタッフたちが苦戦していたのだろう。

最近の原作付きテレビアニメは、何度も中断して数クールに分けて発表する。映像制作はどうしても後半になればなるほどキツくなる。時間と予算があるからあとは任せたよでは、良質な作品はできない。後世に残る作品づくりも、日本エンターテイメント界の今後の課題。

激しい作品をつくる人が、実際にはもの静かな優しい人なことはよくある。作品にすべてのエネルギーを投入して、浄化してしまっているかのよう。でもときどき、自身の作品とそのままの人生を送っている人もいる。あたかも、実体験していないことは、作品にするなと言わんばかりに。

暴力とともにある人生は、貧困からくるもの。『あしたのジョー』の時代は、腕力での暴力だったが、ネット社会は言葉の暴力も蔓延るようになった。荒んだ社会と人生観。せめて自分が好きになれるものが見つかって、それに命がかけられるだけ幸せじゃないかと究極の選択。だからこそ、ちばてつやさんの優しい画風が必要だった。それに出崎統監督のドライな演出で、作品の凶暴性が薄れて、ファンタジーとして現代でも楽しめる作品となった。

主人公の燃えたぎる野心にカタルシスを感じて、今日もまた静かに穏やかな人生を送っていける。エンターテイメントは精神安定剤にも使える。人生は、何も起こらないことの方が、実は幸せだったりもする。



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