「色褪せぬ恋」
「彩ちゃん!おはよう!」
「こら!彩ちゃんじゃなくて小川先生でしょ!」
「すいませーん!彩ちゃん先生」
「だからちゃん付けで呼ばないの!」
この人は小川彩さん。
俺の担任の先生で…俺の初恋の人。
思えば、先生の気が引きたくていつも悪戯ばかりしていた。
先生に笑ってほしくて、授業そっちのけで必死にギャグを考えたりもした。
先生からすれば面倒な生徒だったと思うけど、叱られることさえも嬉しかったんだ。
「まったく…そろそろ卒業するんだから、しっかりしなきゃダメでしょ?」
そう、もうすぐ俺は高校を卒業する。
それはつまり、先生とも会えなくなるということだ。
社会人3年目の先生は25歳。
7つも年が違う俺なんて、きっと子どもにしか見えていないだろう。
それでも、この思いに蓋をしたままお別れなんてしたくなかった。
あっという間に迎えてしまった卒業式の日
式を終えた生徒たちは、外で写真を撮ったり語り合ったりしながら友人との別れを惜しんでいる。
そんな中俺はただ一人、誰もいなくなった教室で静かに物思いに耽っていた。
「みんなと写真撮らないの?」
「…彩ちゃん」
「最後まで君は…だから、小川先生でしょ?」
何度も繰り返したこのやり取りも、今日で最後かと思うとなんだか寂しい気持ちになる。
「あのさ…俺、彩ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
首を傾げながらこちらを見つめてくる先生。
教室の窓からは暖かな陽射しが射し込み、春らしさを演出している。
心臓がドキドキして、口の中はカラカラだ。
「俺…先生のことが、好きです」
「…えっ!?」
先生は驚嘆の声を上げるが、それも無理はないだろう。
7つも年下の、それもつい先程まで教え子だった相手に告白されたのだから。
先生は俯いたまま黙っていた。
しばらくすると先生は顔を上げ、真剣な眼差しを向けてきた。
「本気…なんだよね?」
「う、うん」
「それじゃ、私も本気で応えなきゃだね…」
その後の先生の言葉に、俺は頭が真っ白になった。
そこからのことはあまり覚えていない。
気が付いたら家にいて、枕で声を押し殺しながら泣き続けた。
「彩ちゃん…彩ちゃん…っ」
こうして俺の初恋は、高校生活と共に終わりを告げた。
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「お疲れ様でした!お先失礼します!」
あれから早5年が経ち、俺はそこそこの大学を出て、大手企業に就職することができた。
覚えることばかりで毎日大変だが、刺激的な日々を送っていた。
あの後、しばらくは先生のことを思い出しては泣いていたが、今はもうすっかり立ち直り、毎日頑張って働いている。
先生も、こんな俺を見たら褒めてくれるだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、いつもと違う道に出てしまう。
どうやら曲がる道を一本間違えてしまったようだ。
引き返そうとしたが、ふと一軒のバーが目に入る。
「こんなところにバーなんかあったのか。まあ、金曜日だし…」
俺は引き寄せられるように、そのバーへと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
シックな雰囲気の店内にはカウンター席だけなようで、とても落ち着いた空間だ。
「こちらへどうぞ」
案内されたカウンター席に腰掛ける。
あまり繁盛していないのだろうか、俺以外には誰一人のお客さんもいなかった。
「ご注文はどうなさいますか?」
「えーっと、じゃあ…スクリュードライバーで」
「かしこまりました」
カクテルのことはあまり分からず、メニュー表で見たことのある名前のものを注文する。
マスターは手際良くカクテルを作り始めた。
店内には静かな音楽が流れており、心地いい時間が流れていく。
「お待たせいたしました。スクリュードライバーでございます」
マスターからカクテルを受け取り、一口飲んでみる。
「あ、美味しい…」
「お気に召していただけて光栄です」
マスターは優しく微笑んで言った。
「正直カクテルって全然知らなくて、名前知ってるやつを適当に頼んじゃったんですよね」
「ふふ、そうでしたか。カクテルには味の変化以外にも、カクテル言葉というものがありましてね。このスクリュードライバーには、『貴方に心を奪われた』という意味があるんですよ」
「へぇ、なんだか素敵ですね」
「その辺りも調べてみたりすると、また違った楽しみがあるかもしれませんね」
「なるほど、ありがとうございます」
「ええ、ごゆっくり」
それから俺は時折マスターと話をしながら、カクテルを楽しんだ。
すっかり酔いも回ってきた頃、ふとバーの入口の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
どうやら他のお客さんが来たようだ。
俺は何気なくそちらに視線を向ける。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた気がした。
そこにいたのは…紛れもなく先生だったから。
先生はこちらに気づく様子もなく、カウンター席に座る。
「マスター、いつものを」
「かしこまりました」
もう既に常連なのだろうか、慣れた様子で注文を済ませる。
あれから5年が経ち30歳になった先生は、大人の色気を醸し出していた。
しかしどこかあの頃と変わらない優しい微笑みが、俺の心臓を撃ち抜いた。
「どうして…」
つい声に出してしまう。
俺はいたたまれない気持ちになって店を出ようとするが、体が言うことを聞かなかった。
そうこうしている間にも先生のお酒は進み、酔いが回っていく。
「何が『他に好きな相手が出来た。慰謝料なら払うから離婚してくれ』よ。この数年間はなんだったのよ…」
先生は左手の薬指から指輪を外しながら、グラスのお酒を一気に煽る。
「お気持ちはお察しいたしますが、少々飲み過ぎかと…」
マスターが諌めるが、先生は聞く耳を持たない。
「マスターもそう思いません?やっぱり男なんて若い子が好きなんですよ。…それに比べて、あの子は違ったなぁ」
「よくお話ししてくださる方のことですか?」
「ええ、まだまだ若いのに一生懸命で…でも、ちょっとおバカさんで。そこが可愛くて」
先生は少し遠い目をしながら呟いた。
「あれ以来一度も会えてないけど…幸せになってくれてたらいいな」
「大丈夫ですよ。その方も、きっと元気にやってらっしゃるはずです」
「ふふっ、そうだと…嬉しいわね」
そこで先生は、カウンターに突っ伏してしまった。
「…寝ちゃったんですか?」
「はい、そのようですね」
俺はマスターと顔を見合わせる。
「先せ…この人は、なんで潰れるまで飲んでたんですか?」
俺が尋ねると、マスターは少し俯きながら答えた。
「…5年程前、想い人がいらっしゃったそうなんです。ところが家の事情で別の方と結婚しなければならなくなり、自分の気持ちに蓋をした、と。最近離婚されたそうで、よく思い出すようになったとのことです」
「…どんな方なんですか?その想い人ってのは」
「私も話でしか知りませんが、卒業式の日に告白してくれた、教え子の男の子だそうです」
その時、忘れかけていた記憶の扉が開かれた。
(ごめんね、君とは付き合えない)
(私、結婚するんだ)
(だけど君の気持ちは、本当に嬉しかったよ)
「そんな…じゃあ、先生は…」
思わず驚きの声を上げてしまう。
するとマスターが言葉を続けた。
「私は店を構えてまだ日が浅いのですが、彼女はよくお店に足を運んでくださり、いつも楽しそうにその方のお話をしてくださいました」
先生は突っ伏したまま動かない。
「きっと、その方との想い出が忘れられなかったのでしょう」
「そう…ですか」
俺は静かに席を立ち、眠っている先生にジャケットを掛ける。
「マスター、お会計を。彼女の分も一緒に」
「良いんですか?」
「…ええ、いい話を聞かせて頂きましたから」
俺は会計を済ませ、マスターに一つだけ尋ねてみることにした。
「これは例え話なんですが、7つも年上で5年も会ってなかった相手でも…想い続けていいと思いますか?」
するとマスターは微笑みながら答えてくれた。
「想うことは自由ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が軽くなった気がした。
「…ありがとうございます。また来ます」
俺はそれだけ言い残して店を出た。
帰り道の途中、ふと夜空を見上げると、月が綺麗に輝いていた。
どうやら、俺の初恋はまだ終わっていなかったらしい。
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それからしばらく経った頃、俺は久し振りにあのバーに足を運んでいた。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた雰囲気の店内には、一人の女性客がいるだけだった。
「こんばんは、マスター」
「ええ、お久し振りです。本日は何になさいますか?」
俺はカウンター席に腰掛けながら答えた。
「スクリュードライバーを」
「かしこまりました」
「…それと、あの人にこのカクテルを」
俺はあの日と同じように一人で飲む女性を、チラリと見ながら言う。
注文を聞いたマスターが少し微笑んだ気がした。
「…失礼いたします。こちら、"ジンライム"でございます」
「え…?」
「あちらのお客様からです」
5年振りに視線が交錯する。
(あぁ…やっぱり綺麗だな…)
大きな目をさらに大きく見開かせながら、驚いた顔を見せる彼女に、俺は言った。
「久し振り…彩ちゃん」
5年の月日は経ったものの、先生はあの頃と変わらない笑顔で言った。
「もう、だから…小川先生でしょ?」
「色褪せぬ恋」 -完-
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