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私の心をあなたに捧ぐ

乃木○○は、どこにでもいる普通の会社員だった。


昨年結婚した妻の祐希とは、子供はいないながらも穏やかな家庭を築いていた。

毎朝決まった時間に起き、同じ電車に乗り、同じオフィスで同じ仕事を繰り返す。


特別なことは何もない、平凡な日常。


変わらない日々に特に不満はなく、それなりに幸福だと思っていた。



しかし、そんな日常に徐々に陰りが差し始める。


ここ1ヶ月ほど、○○の中に説明し難い違和感が芽生えていた。


会社からの帰り道、ふとした瞬間に感じる視線。


まるで誰かに見られているような、不安な感覚。


振り返っても誰もいない。しかし、視線を感じる感覚は消えない。


最初は「仕事の疲れだろう」と考え、深く気にしなかったが、その奇妙な感覚は日に日に強くなっていた。



それだけではない。


近頃○○は身体の不調を感じていた。


常に体が重く、疲れが取れない。


階段を上がるだけで息切れすることもしばしば。


○○「俺ももうすぐ30だし、やっぱり身体も動かさないといけないのかもな…」


そう考えた○○はジムに通うことにした。


体力の低下をなんとかリカバリーしようと、仕事帰りに立ち寄るのが日課になっていた。



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そんなある日、ジムの入り口で見覚えのある人物を見かける。


○○「あれ?岩本さん?」

その人物は、会社の部下である岩本蓮加だった。


今年の4月に入社した新入社員で、○○が指導員として面倒を見ている。


正直半年ほどで教えることがなくなるくらい優秀で、他のチームに異動してもらうことも考えたのだが、


蓮加「まだまだ乃木さんに教わりたいことがたくさんあるんです!」


と言われてしまった結果、現在も○○の下で働いている。


蓮加「乃木さんもここに通ってるんですか?」


○○「"も"ってことは岩本さんも?あれ、でも確か…」


前に話した記憶では、蓮加の家はこの辺りではなかったはずだ。


蓮加「最近引っ越してきたんです。隣人トラブルで、元のアパートに住み続けるのが難しくなっちゃって…」


○○「そっか、大変だったね」


蓮加「乃木さんはいつから通ってるんですか?」


○○「俺もつい最近からだよ。体力が落ちてきたのが気になって、仕事帰りに寄るようになったんだ」


蓮加「そうなんですね。じゃあ私も見習って通います!もし私がサボりそうになったら、指摘してくださいね?」


○○「はは、お互いにね」


この広い東京の中で、同じ職場の後輩と同じジムに通うとは、なんとも奇妙な偶然だった。


しかし○○としても、知り合いがいるのは心強く感じる。


その日を境に、○○と蓮加は仕事帰りに一緒にジムに行くようになった。


仕事の立て込み具合によっては当然行けない日もあるが、週数回のペースでジムに通っている。


週数回、決まった日課となり、二人の関係は少しずつ近づいていった。




ある日のトレーニング終わりのこと、


近くのコンビニでジュースを買って一息ついていると、蓮加が話を切り出した。

蓮加「乃木さん…あの時のこと、覚えてますか?」


○○「ん?あの時?」


蓮加「私、入社したての頃、すごく緊張してて…初めてのプレゼンの時に、途中で声が出なくなってしまったことがあったじゃないですか。覚えてませんか?」


○○「ああ、そんなこともあったね」


○○は思い出すように笑ったが、蓮加にとってはそれは笑い事ではなかった。


蓮加「私、本当にあの時ダメだと思ってて。もう会社に来れないんじゃないかって…」


○○「そんな大げさな。でも、すぐ立ち直ったじゃないか」


蓮加「それは、乃木さんが声をかけてくれたからです」


蓮加は、その時のことを鮮明に覚えていた。


プレゼン後、誰も声をかけてくれず、絶望感に襲われていた蓮加に、ただ一人優しく「大丈夫だよ」と言ってくれたのが○○だった。


蓮加「乃木さんの言葉に、すごく救われたんです。あの時から、ずっと感謝してるんです」


その出来事以来、○○は蓮加にとって憧れで特別な存在となった。

それが恋愛感情なのかどうかは分からない。

仮に恋愛感情だったとしても、妻帯者の○○と結ばれることはできないが、彼と一緒に働けるだけで心が満たされていた。



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それから数ヶ月後、○○は再び体調の異変を感じ始めていた。


今度はさらにひどく、日常生活にも支障をきたす程だった。


妻に促されて病院で検査を受けたところ、衝撃の事実が発覚した。



「原発性悪性心臓腫瘍、所謂“心臓がん”です」



医師の言葉が頭の中で何度も反響した。


○○「心臓…がん?」


思考が止まり、言葉の意味をすぐには理解できなかった。


自分の心臓が病魔に侵されているなんて、どこか他人事のように聞こえた。


医師が話し続けているが、その声は遠く、頭の中に残っているのは「がん」という言葉だけだった。


…どうして自分が?


何度も問いかけるが、答えは出ない。


○○「うっ…ぐぅっ…」


突然、喉の奥から言葉にならない嗚咽が漏れた。


気づけば、病院の廊下で涙が溢れ出し、周りの視線も気にせず泣き崩れていた。


焦燥感に胸が締め付けられる。


命が次第に失われていく恐怖、そして何もできない無力感に押しつぶされそうだった。


○○「どうして俺なんだよ…」


何も特別なことを望んでいなかった。


ただ、毎日を妻と静かに過ごしていければそれでよかった。


それだけで、幸福だったのに。



祐希「おかえりなさい、どうだった…ってあなたどうしたの?」


真っ赤に腫れた目に憔悴し切った顔を見て、妻は心配の眼差しを向ける。


○○「…心臓がん」


祐希「え…?」


○○「俺、心臓のがんなんだって…」


それからのことはよく覚えていない。


妻がどんな顔をしていたのかも分からない。


何かを言っていた気がするし、何も言われなかった気もする。


○○は心細さと恐怖に打ちひしがれながら、これからの未来を考えた。




それからしばらくの間、○○は絶望的な日々を過ごしていた。


心臓のがんは手術は不可能で、化学療法と放射線療法で進行を遅らせることしか手立てはない。


唯一の希望は心臓移植だったが、順番が回ってくるのは一年以上も先。


それまで体がもつかどうかはわからなかった。


ガンが命を脅かす現実に直面しながらも、ドナーが見つからなければ命の期限は迫ってくる。


尾けられたり見られているような感覚もまだ続いていたが、今の○○にそれを気にする余裕はなかった。



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○○は治療に専念するために休職することになり、その手続きで会社に出向いた。


「乃木さん、体調はいかがですか?仕事のことは心配しないでくださいね」


○○「ありがとうございます。ご迷惑おかけして申し訳ありません」


休職中、自身の案件と蓮加のことはちゃんとサポートすることを上司から聞き、○○は安堵の表情を浮かべた。



会社との手続きを終え、帰る支度をしているところで蓮加が近づいてきた。

蓮加「乃木さん…」


○○「あぁ、岩本さん。ごめんね、急に休んで迷惑かけることになって」


蓮加「いえ…」


○○は蓮加の様子がおかしいことに気づく。


顔を俯けて何か言いたそうにしている。


蓮加「あの、ドナーって見つかったんですか…?」


蓮加の言葉に、○○はしばらく沈黙した。


○○「いや、まだ見つかってないんだ。順番待ちでさ…。どうなるかは、正直わからない」


口に出してみると、改めて自分の置かれた状況の残酷さを感じた。


誰かが命を与えてくれなければ、自分には未来がない。


それがどれほど小さな可能性か、わかっているのに…。


蓮加「もし、見つかったら…」


蓮加の声が、微かに震えていた。


○○「見つかったら、きっと感謝しかないだろうね。その人がいなければ、俺はもう…」


そこまで言いかけて、言葉が詰まる。


自分の生と誰かの死が表裏一体であることを、改めて痛感した瞬間だった。



○○「…こんなので答えになってたかな?」


蓮加「…はい。すみません、変なこと聞いちゃって…」


蓮加は頭を下げ、○○に背を向けた。


その背中には、何かを決意した力強さと、言い表せない悲しみの色が滲んでいた。

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日々体調が悪化し、祐希の献身的な看病にもかかわらず、希望を見失いかけていた頃、突然病院から連絡が入った。


「適合するドナーが見つかりました」


正直生きることを諦めかけていた○○にとって、暗闇に差した一筋の光だった。


聞けばドナーの強い希望により、○○への提供が決まったという。


誰かが、自分の命を救うために提供してくれたんだ。


ドナーの情報は開示してもらえなかったが、○○はただただ深く感謝するのみだった。




移植手術は無事に成功した。


まるで奇跡のような出来事だった。


数か月前まで、自分がこの手術を受けられるなど、夢にも思っていなかったのに。


幸い拒絶反応も起こらず、術後の経過も順調だった。


退院後、家に戻った彼を待っていたのは、安心した妻の微笑みと、これまでと変わらない日常だった。



しかし、いくつか不思議なことがあった。


一つ目は、手術前とは食べ物の嗜好が変化したこと。


具体的には、以前はあまり食べなかったプリンやチョコレートなどの甘い物を好むようになった。


これは臓器移植をした患者には時々あることらしく、あまり深く考えることはしなかった。



二つ目は、以前あれだけ強く感じていた「誰かに見られている感覚」が完全に消えたこと。


それは安堵感と共に、何かを失ったかのような妙な喪失感をもたらしていた。


○○はあの感覚が病気の不安や疲れからくる錯覚だったのだろうと、自分を無理やり納得させることにした。




手術からしばらくして、会社に復帰することになった○○は、蓮加が会社を辞めたことを知った。


理由はわからないが、彼女は何も告げずに静かに会社を去ったという。


体調が良くなり再び通い出したジムでも、もう二度と蓮加に会うことはなかった。



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今、新しい心臓が自分の胸の中で鼓動を刻んでいる。


それは生命の証であり、同時に誰かが自分のために命を差し出してくれた証だった。


手術後、ふとした瞬間に自分が感じる心臓の鼓動は、今までとは違う重みを持っていた。


(俺の命は、もう俺一人のものじゃないんだ…)


そう思うたび、胸が苦しくなる。


生きられるようになって嬉しいはずなのに、何か大事なものを失ったような感覚が押し寄せる。


そして、蓮加のことが頭をよぎった。


どうしてだろう。


蓮加がいなくなったことに対する喪失感と、この新しい心臓の存在感が、どこか奇妙に重なり合っているように感じた。


ある日、メールボックスを整理していた○○は、蓮加からの最後のメールを発見した。


「乃木さん
 今まで本当にありがとうございました。
 これからもどうかお元気でいてください。
 私のこと忘れないでくださいね?
                 岩本」


そのメールの受信日時は、○○が手術を受けた時期と重なっていた。

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