してもるといいかも・・ヴィパッサナー瞑想
ユバル・ノラ・ハラリ‘ #21世紀における21の提言 (英語版)’第21の提言 #瞑想 P309~313
(有難うございます。)
大仏2.0 さん。今日は有難うございました。釈迦に説法ならず、毘盧遮那仏に瞑想です。世界中で一番長いあいだ瞑想してる方なのにな~ぁ。な~む毘盧遮那仏!
タジ さん。有難うございます。約束通りに、内省をお届けします。数日前から貴殿とシンクロ、セレンディピティしています。奇遇さに、わたしはダジダジです。本日の要約は、昨日に貴殿がおっしゃった事に尽きます。
【外を探さないで内を探す 見つけたいのはモノではない】
(本題)
#ヴィパッサナー瞑想 (古代インドのパーリ語で、内省を意味する) のサティア・ナラヤン・ゴエンカ師匠は、両足を組んで座り、目を閉じ、鼻孔を出入りする呼吸に集中するよう、生徒に教えた。
‘ #何もするなかれ ’と彼は言い続けた。
‘呼吸をコントロールしようとしてはならない、ある特定のかたちの呼吸をしようとしてはならない。’
この瞬間の現実を、 #ただひたすらに観察しなさい 。たとえそれが、どんなものであれ。
息が入ってくるとき、-あなたは、ただ気づく-今、息が入ってきている。
息が出ていくとき、-あなたは、ただ気づく-今、息が出ている。
そして、心が記憶や妄想の中に彷徨い出したら、-あなたは、ただ気づく-今、心が呼吸から彷徨い出したと。
このことは、他者が私にそれまで話したことの中で、最も重要なことであった。
人が人生の大きな問題を問うとき、いつ息が鼻孔に入ってきて、そして、いつ息が出ていくかに全く興味がない。むしろ、人は死後に何が起こるかというようなことを知りたがる。
しかしながら、人生の本当の謎とは、死後に何が起こるかではなく、 #生前に何が起こるかということである 。
もしも、 #死を理解したいならば生を理解する必要がある 。
人は、‘死んだとき’と問う。
私という存在は、完全に滅するのであろうか?
私は天国に召されるのだろうか?
私は、新たなる肉体に生まれ変わるのだろうか?
それらの質問は、誕生から死まで続いている‘ #我 (I)’が、いるという想定に基づいている。
そして、死に瀕し、 #我がいるということに対して 、何が起こるであろうか?と問うている。
しかし。‘そこに、 #誕生から死まで続いている何があるというのか ?’
肉体は常に変わり続けているし、脳も、心も、しかりである。
己をつぶさに観察すればするほど、 #ある瞬間から次の瞬間に続いていることなどないと 、わかるようになる。
では、 #何が人生全体を束ねているのだろうか ?
もし、このことに答えを見出せなかったら、人生を理解しえず、かつ、死を理解しえない。
もし、 #人生全体を束ねているものを発見できたならば 、死という大きな問題の答えも明らかになるだろう。
‘魂は、誕生から死へと続く。したがって、魂は人生を束ねる。’というが。これは、ただの物語である。
今までに、魂を見たことがありますか?
死の瞬間だけに限らず、どんな瞬間にも、魂を探索することはできる。
もしも、 #ある瞬間の終わりから他の瞬間の始まりに起こること を理解できれば、死の瞬間に起こるであろうことも理解できるだろう。
もしも、 #一つの呼吸の継続のさなかに 、 #本当に自分を観察できれば 、
-自分全てを理解するであろう。-
#ヴィパッサナー瞑想 のコースが進むにつれ、呼吸だけでなく身体からやってくる感覚を観察するように教えられる。悦楽やエクスタシーといった感覚だけでなく、もっと日常的な、悲しみ、重圧、痛みといった感覚である。
#ヴィパッサナーの手法は 、 #心の流れは身体の感覚と密接に結びついているという考えに基づいている 。
私と世界の間には、つねに、 #身体の感覚が介在する 。
私は、外界の出来事に、反応するのでは決してない。私は、 #自分の体内の感覚に反応するのである 。
もしも、その感覚が喜ばしいものでなければ、私は怒りで反応する。
もしも、その感覚が喜ばしいものであれば、私は感動で反応する。
他の人がしたこと、
-トランプ大統領の最新のツイート-、
-遠い幼少期の記憶-に反応するときでさえ、
本当は、#現在の身体の感覚に反応しているのである。