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古びないエロスと美が満ちた社会の構想――マルクーゼ『エロス的文明』

 最近、21世紀の源流となっている文化思想に興味があったので60年代の反乱の季節に人気だったというマルクーゼ/南博訳『エロス的文明』1958年(原著1956年)を読む。
 
 われわれがどのような社会が望ましいのかと考える時、とかく正義や権利といった倫理が中心となりやすい。しかし、われわれの世界は美やエロスなしで成り立たない。

 戦争中の挙国一致で軍事動員されていた女子が若い将校に不埒にも心ときめかすとか、大きな黒目の瞳の子どもの笑顔に心和むとか、

https://www.fashion-press.net/news/9270

朝にモーツアルトのクラリネット五重奏を聴いて機嫌がよくなるとか、

夜にビル・エヴァンスのピアノを聴いてしっとりした気持ちになるとか

、60歳近くになってもなお恋によろめき続ける斎藤由貴とか。

そういうことがないと私たちは生きていけないし、これらは味わうだけで生きる意味をありありと示してくれる。毎日が生き生きと喜びに満ちた世界になったら。そういう世界は果たしてどのように可能か。
 
 まず著者は、芸術は単なる抑圧されたものの回帰として白日夢であり、子どもの戯れに過ぎないという陰鬱な診断を下すフロイトを論駁するところから始める。著者はカントやシラーの美学(美に関する哲学)を参考にしながら、芸術の創造力はそういうどうでもいいようなものではなく人間に自由や幸福の形を浮かび上がらせ、未来を示すのだとフロイトに反論する。カントは、美は人を道徳的にする力があると考えたが、シラー(ベートーベンの第9の詩で有名)はもっと進めて美は「遊び」の衝動が根底にあり、感性を抑圧する理性としての文明を打破し、人間の潜在的な可能性や自己実現を開くと説いたという。
 
 しかし、なぜフロイトは芸術に対してペシミスティックな結論になってしまうのか。フロイトは窮屈な一夫一婦制や労苦に満ち、不平等な労働を自明視し、それに適応することが人間のあり方だと思い込んでいるからだ。しかし、このような社会のあり方は歴史的に特殊であり、社会を変革すれば、人間はもっと自由にエロスを発揮できる可能性がある。実際、現代ではオートメーションが発達してきて人間の労働時間が短縮され、その可能性が出てきた。
 
 雑駁にまとめるとこんな本である。理性や労働の抑圧を取り除けば人間の可能性が花開くというのはちょっとおめでたすぎると思った*。しかし、この本は60年代の若者の反乱やそれ以降の世界に多大な影響を与えただろうことはよく分かる。
 
 男女関係の開かれた別のあり方の示唆は、その後の男女の関係性や結婚の問い直しにつながっただろうし、遊びのようなクリエイティブな労働の示唆はポップカルチャーやコンピュターに多大な影響を与えただろう。そのため現代ではもはやかつての社会主義のように美やエロスを抑圧するような体制に人類が戻ることが出来なくなったといってよい。

 現代ではマルクーゼのユートピアはある程度実現したといえる。しかし、労働時間が減らず、社会の不平等が顕著になってきた21世紀の現代ではその全面的な実現には程遠い。資本主義という現実原則が、マルクーゼが展望した超‐資本主義的なユートピアすら食いものにしているためだ。

 人類のチャレンジはまだまだ続かざるをえない。日本のように選択的夫婦別姓すら認めてこなかった国はなおさらやりがいがある(ありすぎる)。チャレンジは続く。
 
マルクーゼを批判的に言及した本:
・ジャン・ボードリヤール/今村仁司訳『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書    店、1979年
・アンソニー・ギデンズ/松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容』而立書房、1995年
ヒース・ジョセフ,ポター・アンドルー/栗原百代訳『反逆の神話 ――「反体制」はカネになる』 ハヤカワ文庫、2021年

*タイトル画像 https://navymule9.sakura.ne.jp/Eros_Farnese_N%C3%A1poles_05.jpg


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