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"狩猟採集型"資本主義で村づくり


狩猟採集社会の平均労働時間は、『1日4時間』

人類学の研究では、純粋な狩猟採集社会における狩りや炊事などの生きるための労働時間は、"1日4時間程度"であったとされています。

食べ物を採ってきて、みんなで分けて食べたら、あとは遊んで暮らす。

現代の感覚で大雑把に言えば、そんな暮らしだったんじゃないでしょうか。
サラリーマンで例えると月の半分は休み、くらいの計算ですね。

これは1960年代以降に"現存する狩猟採集民族”を調査・研究することで得られた結果なので、かなり信用できる数値だと思います。
有名なところでいうとアラスカのイヌイット、オーストラリアのアボリジニー、その他アマゾンの文明非接触民族などでしょうか。

僕は、資本主義経済の貧困格差やマネーゲーム化から脱却するには、この狩猟採集社会にそのヒントがあると思っています。


こんにちははじめまして。
滋賀県湖南市在住、『お金のいらない村づくり』を目指す、Dongree代表のドリーと申します。
就職経験ゼロのフリーター時代からまさかの起業。七転八倒を繰り返しながらも、いまだに夢を語って生きています。

日々の判断基準となっているモノの考え方、価値観を自分なりに整理して、より解像度を上げていくために、時折こうしてnoteに綴っています。


全員が"お金でお金を稼ぐ"ことは出来ない

世界の富の半分を所有しているのは、世界人口1%の超富裕層だと言われるくらい、昨今は『格差社会』が問題視されています。
日本でも中間所得層が減り、富裕層と低所得層の人口が増えているそうです。貧乏人と金持ちの二極化が起きてます。
さらにマネーゲーム化。
『お金でお金を稼ぐ』と表現される、不労所得としての『投資』が今や資本主義経済の中核を担っています。
実体経済から隔離された、数字だけの価値の交換。だから株価が上がり続けても、国民の所得は上がらない。

先日僕もサクッとビットコインを買ったり売ったりしましたが、いわゆる投資家でなくとも簡単に投資(に似た行為)ができる時代です。
でも、「みんながみんな"全員 お金でお金を稼いで働かなく" なったら、誰が食べ物や生活に必要な物を作ったり、日々の娯楽サービスを提供したりするんだろう?」って思いませんか。
僕は全員(資本主義社会で暮らす人)がお金で不労所得を得るというのは不可能だと思っています。
"AIとテクノロジーが完全に人の手の代わり"となった社会では、おそらくそれに近いことが実現するかもしれませんが、今段階では不可能だと言えます。
どうしたって誰かが生きるための仕事、エッセンシャルワークに従事しないといけない。
だから、資本家(雇う人)と労働者(雇われる人)の関係は続くし、資本家には常にお金が集まり続ける。


資本主義経済のはじまりは農業から

さてそんな格差を生む資本主義社会は、いつから始まったのか。

中央銀行が生まれて、国債(紙幣)が発行され始めた時から?
産業革命が起こって、工業化が加速したときから?
いやいやもっと遡って、貨幣が生まれたメソポタミアなど古代文明のときから?
実は資本主義は『お金』の発生以前まで遡る、という考えが、人類学者の一部で唱えられています。
それが『農耕革命』といわれる紀元前1万年という超古代社会でのことです。
農耕文明が生まれたことで、人類は安定した食べ物の収穫を実現しましたが、同時に『貯蓄』『長い労働時間』も覚えることになります。
稲や小麦は、年中手をかけて育ててあげなくてはならず、そして悪天候で不作の時に備えて、蓄えも必要。
ここから徐々に、食べ物や領土の奪い合いが発生し、それが古代〜中世までの奴隷制度につながり、また中世には貴族と庶民の関係をつくり、そのまま現代の資本力の格差となっている。
全ては農業から始まった。
それとは意を異にして、資本主義の起源は"工業"にあるという分析もありますが、僕は農業起源説の方に賛成で、だからこそ転換点であった狩猟採集的な考えが必要ではないか、と思っているのです。

そういえばミュージシャンの"レキシ"の歌でもありましたね。

『狩から稲作へ』
どんぐり拾って食べてた〜♪
あの頃の夕日赤かった♪

ただし本当に狩猟採集時代に戻ってどんぐりを食べるわけじゃなく、現代社会において資本主義やテクノロジーともバランスの取れた方法で、です。


農業的狩猟採集の創出

狩猟採集民族の平均労働時間は4時間だった
サラリーマンの労働時間の約半分の時間
これが大きなヒントだと思っています。
つまり『生きるために働く時間を減らす』こと。
月の半分を生きるための労働にしたら、あとは遊んで暮らせる。
そんな環境をつくるためにはどうすればいいのか?
そこには農業的な思考が不可欠だと思っています。
狩猟採集的に生きる場をつくるために、人間の身体でもって畑を耕したり森に仕事を見出す。
生きるために必要な物をいかにお金を介さず循環させていくか。
そしてそれをどうやって他者と分け合っていくか。
これを合理的な資本主義経済に飲まれないように、"非合理的に身体を張る”。
京都精華大学人文学教授の内田樹先生は、あるスピーチで農業に関する私見をこんなふうに述べておられました。
その一文を紹介します。

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『個人の身体だけが農業と市場をつなぐ』

【略】

繰り返しますけれど、農業と市場は原理が違うんです。無限に貨幣が欲しいという人たちの欲望で動いている市場と、太陽の恵、大地の恵み、水の恵みを受けて耕作し、育った果実を生身の人間が飢えないために享受するという農業はまったく別のものです。
だから、市場は農業の原理が理解できない。農業は市場の原理についてゆけない。やむなく「折り合いをつける」だけです。

【中略】

こういう原理の違うものを折り合わせようとしたら、最終的には生身の人間に出てきてもらうしかない。
自然と文明という食い合わせの悪いものを里山が間に入って共生させているように、市場と農業という食い合わせの悪いものを共生させるためには「中に入って調整する」ものが必要です。

それは個人の身体しかないと僕は思っています。


ミシマ社 『ちゃぶ台 vol.1 周防大島での二日間 』より一部抜粋
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この、"中に入って調整する者"として活動し、
『狩猟採集的なシェアスペース』を作り維持していく。

それが僕が今段階でおぼろげながら掴んでいるDongree村のイメージです。
ちなみに自給自足とは違います。労働量にかかわらず全員が食べれる全体給与であり、また、外からお客さんを呼んでお店やサービスで”外貨"も稼ぐハイブリッドな暮らし方を理想としています。

そう、Dongree村では"円も外貨"になります笑

そんなこんなで、今日も荒れた畑を耕しにいってきまーす。


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