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老いと毛

最近、鼻毛が出るようになってきた。
鼻の穴が下を向いているわたしとしては、「鼻毛が出にくい」という一点においてミポリンに勝っている。そのことが子供の頃からのアイデンティティだったのに。

どんなに美人でも、鼻毛が出ることはある。同時にどんな醜女でも、鼻毛が出ないことはあるのだ。鼻毛が出ていると、一緒にいる相手に少なからず逡巡を与える。指摘するか、するまいか。指摘して傷ついてしまったらどうしよう。ただ体毛が体の一部からちらちらと見え隠れしているだけで、人間関係においてわずかなストレスを生む。鼻毛の主が美しく、またご機嫌であるとそのストレスはさらに膨らむだろう。意気揚々としている人に鼻毛が出ていると指摘するのは、出鼻をくじく、鼻っ柱を折るが如き行為だからである(ダジャレではない)。
醜女であることは指摘する必要がないが、鼻毛が出ていることは指摘する必要が生じてくる。醜女であっても鼻毛が出ていないことは人に安らぎを与える。よって、わたしはこの鼻毛が出にくい鼻の形状に多大なる自信を持っていたのだ(「鼻高々だった」と書こうとしたが我慢した)。

鼻毛が出やすくなったのは、おそらくは老いが原因だ。加齢による毛関係のバグは多い。薄毛や白髪、そして一部の体毛の異常な伸び、である。若い頃は生活習慣に関わらず鼻毛は一定の長さまで伸び、予めプログラミングされた長さで抜け落ちていた。が、加齢で体内のプログラムの制御がうまくいかなくなり、「伸びろ」という指令は出せても「抜けろ」という指令が出せなくなった。もしくは出しても実行部門が聞いてないか、聞いてもうまく実行できなくなったか、とにかくそんなところだろう。
体毛のバグはその他のところでも起きている。先日、とうとう陰毛の中に白髪を一本だけ見つけた。元々ひどい若白髪だったわたしは頭の白髪には辟易していたが、40を過ぎ周りの友人が次々と「陰毛に白髪を発見した」という報告をし始めてからは「何故わたしの陰毛には白髪が生えないのか」と少々やきもきしていた。

陰毛に白髪が生えてショックを受ける人は多いそうだ。それゆえに陰毛専用の白髪染がよく売れると、かつて取材した女性向けアダルトショップの経営者が話していた。彼女はそれを「女として終わるのが怖いのだろう」と語った。陰毛が白髪になるのと女として終わるのは全然別の話であるように思うが、性欲の衰え、性という市場から降りることへの恐怖は世間一般の女性にも大問題で、抗う気持ちから陰毛を染めること、「アンダーヘアダイイング」に駆り立てるのかもしれない。今、英語で言ってみて気がついたが、「染める」も「死ぬ」も音は同じ「ダイ」なのだ。

若さの喪失、性欲の衰えは死の影を匂わせる。だが、わたしにとっては陰毛の白髪は歓迎せざる客ではない。20代も30代も強すぎる性欲によって判断力を失い、人生をめちゃくちゃにしてしまったという意識があるので、むしろ性欲が衰えてくれるならそこからがわたしの人間としての人生のスタートだし、陰毛白髪が性欲の衰えの象徴ならば、その発毛を広く世間に喧伝して回りたい。

こんな話がある。わたしは現在バーで働いているが、バーのオーナーはわたしより8歳ほど年上の女性だ。新型コロナでバーが休業になり、経理だ税務だと事務作業に追い立てられ、頻繁にオーナーとLINEでやりとりを交わしていた時のこと。駅に出る必要がありわたしが自宅最寄りの停留所でバスを待っていると、オーナーからLINEで動画が送られてきた。てっきり経理のことで数字を提示しながらなんらかの説明をしたいのだろうと、サムネイルもよく見ずに再生すると、尻の穴から盛大に脱糞しながら時折放尿もしている無修正動画だった。もちろん脱糞の主は当のオーナー本人である。彼女は、ごく純粋ないたずら心からこうした画像や動画を送ってくることがある。わたしは普段から下ネタばかり言っているがうんこ実物は苦手なたちで、自分が出したものすらノールックで流す。よってこの時も動画に映っているものがなんなのか分かった瞬間、不快すぎて怒りがこみ上げてきた。だが、である。千葉県の松戸でヤンキー文化を身近に少女時代を過ごしたわたしとしては、ここで怒りを表明してしまっては「負け」だ。不快さの渦に身を委ね、怒ってしまったら「舐められる」…論理ではなく自らの野生でそう判断したわたしはその動画を真正面からじっと見てみることにした。すると、ほぼつるつるに永久脱毛されたオーナーの股間に、陰毛白髪だけが数本ピョロ〜ピョロ〜と、とうもろこしの髭のように伸びているではないか。これだ、と思ったわたしはオーナーに「永久脱毛しても、白髪だけは伸びてくるんっスね」と返信した。永久脱毛は黒い毛根に向けて光やレーザーを照射して毛を生えないようにする仕組みなので、脱毛を完了しても白髪だけは生えてくるのだと、オーナーはやや照れながら説明した。

美しさを求めて毛根を焼却しても、死の影はにょきにょきと生えてくる。先ほど性欲が衰えるのは大歓迎と書いたわたしだが、正直なところ死は怖い。いや、もっと正確に言うと、身近な人の死に立ち会うのが怖い。去年の早春、わたしがもう15年以上飼っている猫に死期が迫っているのを実感して、そのことに気づいたのだ(よく考えたら人ではなかった)。

わたしが26歳、彼が生後2か月ほどから一緒に住んでいる。当時の夫やその後何人かの彼氏、そして次の夫と別れても、彼とは変わらず共に暮らしている。身体を横たえれば、彼の身体の一部がどこかに触れる。家の中のどこかで彼が呼吸している。それが当たり前のこの15年だ。しかしその年月で彼は当たり前に老い、ここ1年は寒くなると体調を悪くして食事を取らなくなり、動物病院に駆け込む事態がしばしばである。あぐらをかけばその上でくつろごうと太腿に白い前足を乗せてきて、朝起きると掛け布団をかけたわたしの上で喉をごろごろと鳴らしている、そんな日常が近い将来、終わる。慌ただしい日々のなかそのことをふと思い出すと、わたしの細胞すべてが「受け入れられない」と反応する。目の前が真っ暗、とよく言うが本当に、全身が何かを知覚することを拒否してしまう。でも、いつかはその時に立ち会わねばならない。彼の身体から命が消えてしまうその瞬間を、しっかりと知覚しなければならないのだ。

その予感に怯えながら、わたしは今日も彼が乗る掛け布団の下で目覚めた。大部分が白い毛で覆われている、彼の顔や顎下を撫でる。彼は目を細め、またごろごろと喉を鳴らす。彼のおかげでわが家は常に白い毛まみれだ。黒い服にはいつもコロコロクリーナーをかけ、部屋を水拭きすれば雑巾にびっしりと獣毛がついてくる。厄介なことこの上ないが、そうして生きてきた15年間、わたしは不幸だっただろうか。

生えていても、抜けていても、すべて毛は死んだ細胞でできている。生の終わりに死があるというが、実際には、無数の死を積みながらわたしたちは今日も生きている。

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