空をなぞれ、アルフィーネ
朝起きて。
顔を洗って。
朝ご飯を食べて。
制服に着替えて。
「いってきまーす」
朝日の下、家族に一言挨拶を入れてから家を出る。
「おはよ、○○」
「はよ。アルノが俺より早く外出てるなんて、珍しいな」
「まあね。今日はたまたま早く……はわぁ……」
隣を歩くアルノの大きなあくび。
俺も思わずそれに釣られる。
「ねむい……」
「アルノはどうせいつもみたいに、朝方まで映画でも見てたんだろ?」
「まあね~。○○の方は?部活、順調?」
「ぼちぼちかなぁ。先輩たちの気迫はやっぱすごいよ」
「お兄さんとの約束、果たさないとね」
「その言い方だと兄貴死んだみたいじゃねーか。ただ進学して上京したせいで遊び惚けてるからしばらく帰ってきてないだけで連絡は取ってるから部屋は空になってるけど」
にしても、朝も早くから暑いな。
年々夏の暑さは増していき、今や朝から三十度を超える日も珍しくない。
「夏の大会、期待してるからね」
「ほどほどで頼むわ」
「○○のホームランとか、見てみたいな~」
「人生でホームランなんて打ったことねーよ」
「やっぱ難しいんだ」
「まあ、難しいな」
セミは朝から元気に鳴いている。
夏の大会は、もう目の前。
・・・
トロンボーンのパート練習は、いつだって三階の端。
窓の外にはグラウンド。
野球部の練習風景。
「アルノ~、そろそろ全体練習だよ~!」
「あ、ごめん、すぐいく!」
いけないいけない。
つい彼のことを目で追ってしまった。
セカンドを守る彼。
幼馴染の○○。
『ま、またいじめられたりしたら……お、おれに言えよ!』
十年間の片思い。
私はずっと、彼のことが好き。
”だからこそ”、あのことは伝えられずにいた。
・・・
「おなしゃす!」
ナイター設備が稼働して、明るく照らされたグラウンドに汗が滴る。
「次、セカンド!」
「しゃす!」
竹のバットで弾かれたボールが地面を走る。
一歩目、問題なし。
しかし、打球は二遊間に強め。
俺は腕を目いっぱい伸ばして飛び込む。
ユニフォームが黒土で汚れ、口の中にもちょっとだけ土が入る。
そんなこと気にしてなんていられない。
素早く立ち上がり、一塁へと送球。
「よし、次!」
一仕事終えた俺は、列の後ろに回ってベルトのバックルに詰まった土を落とした。
「ラスト、バックホーム!」
内野ノックの終盤。
前進守備で捌いたボールをキャッチャーに投げるバックホーム。
大抵内野ノックはサードから順番にというのが鉄板ではあるが、この部の伝統として、バックホームの時だけは一番声を出しているポジションからとなっている。
「セカァァァン!!!」
今日の練習も声出して、鞭打ち続けた喉に追い打ちをかける大声。
それが功を奏したのか、部員を見渡す監督と目が合った。
「よし、セカンド!」
「しゃっす!」
前進守備はその名の通り、普段のポジションよりも打席に近い。
その分強いボールも飛んでくる。
金属音とともに放たれた打球が地を這う。
素早く打球の正面に入り、グローブを地面に触れさせ、補給を確認してから胸元に持っていく。
握り替えももたつかないよう行い、キャッチャーのミットめがけて送球。
「よし、あがれ!」
「はい!」
なんとか一発で合格をもらい、グラウンドにひかれた一塁線の脇に並ぶ。
その後も続々とチームメイトがノックを終え、最後にキャッチャーがキャッチャーフライを捕球して、本日の練習終了を告げられる。
「トンボ代わります!」
「俺はいいよ」
「いえ、代わります!」
「わかったわかった。じゃあ、頼むわ」
一年生の押しに負けて、俺はトンボを渡してからベンチに置いてある自分の道具たちのもとに戻る。
「○○、今日は残って練習してくん?」
「そのつもり」
「じゃあ、俺のティーバッティングも付き合ってくんね?俺も○○の練習付き合うから」
グローブとスパイクを担いで、部員でパンパンの室内練習場に足を踏み入れる。
「やっぱ、週末試合だし先輩たちも気合入ってんな~。相手も、春こけてたとはいえ、去年の夏に負けた甲子園出場校だしな~」
「だな。ほら、早くやるぞ」
ボールの入った籠を集球ネットの脇に用意して、練習用の竹バットを一本バットケースから取り出す。
「タクからいいよ」
「サンキュー」
部員もそこそこ多い、強豪公立。
甲子園も現実的に見えてきたこのチームで、ベンチに入っている二年生も六人いる。
「にしてもお前、二年で一桁番号ってすごいよなっ……!」
「バッティングしながらしゃべるなよ。舌噛むぞ」
背番号。
俺のポジションはセカンド。
三年生も二人いるし、まだまだ胸を張ってレギュラーですとは言えない。
「○○はどうよ。緊張してる?」
「するだろ、どう考えても」
夏の背番号は『4』。
しかし、春の大会では四試合九番セカンド出場してヒットは一本だけ。
最近の練習試合もベンチスタートの代走から出るなんて試合も半々になってきたし、本当に言葉の通り俺はスタメン当落線上の選手だ。
「でも、二年で試合出てるってだけですげーよ。お前、中学の頃から足も速いし、バントもうまい。守備だって安定してんじゃん?」
「お前が言わなかったことがすべてだよ……」
俺がスタメンに定着するには明らかに打率が足りていない。
明らかに俺が打線の穴になっているという自覚はある。
「ほい、次○○の番」
だから、バットを振り込む。
実力がないなら、練習するしかない。
手にできたマメは最近つぶれた。
練習用のバッティンググローブも擦り切れて穴が空きそうになっている。
「そうだ、○○」
「なんだよ」
「お前そろそろ、アルノちゃんに告白しないん?」
「な……!な、なな、何言ってんだよ……!」
「おーおー、わかりやすく動揺してんなぁ」
「お、お前が……変なこと言うからだろ……」
「いつお前が告白するかは自由だけど、うかうかしてるとアルノちゃんに彼氏できちまうぞ~。かわいいし、人気もあるんだぜ?」
「わーってるよ」
家がずっと隣で、物心ついたころから一緒にいた。
親同士がかなり仲良かったし、庭でバーベキューとかもしたくらい。
そんな関係だから、言えてればとっくに言ってんだよなぁ。
だって俺は、アルノに十二年も片思いしてるんだから。
・・・
「あつい……」
もう七月。
夜とは言っても、扇風機だけでは限界かもしれないってくらいあつい。
私は、昔○○がUFOキャッチャーで取ってくれたお気に入りの犬のぬいぐるみを抱きしめて、ベッドに寝転がっていた。
「小腹空いたなぁ……」
冷凍庫にはアイスがあるのを確認したけど、この時間に食べたら太るかなぁ……
でも、一個くらい……
「いや、我慢我慢……!ダイエットするって決めたんだから」
私は煩悩を打ち消すように目をつむる。
すると、外からドアの閉まる音が聞こえた。
私はその音でベッドから跳ね起き、窓から顔をのぞかせる。
その音の正体は、○○が素振りをするために裏口から庭に出た音。
雨とか雪が降らない限り、小学校から毎日○○が続けている日課。
そして、その横顔をこっそり自分の部屋の窓から眺めるのが私の日課。
こうして自分の好きなこと、夢に向かって一生懸命に頑張る○○のことを私はずっと、一番近くで見ていられたんだから得なものだ。
「ってぇ……」
またマメがつぶれたのか、痛そうに顔をしかめて手を振る○○。
○○のこと、ランニングにでも誘ってみようかな。
・・・
「いってぇ……。またマメつぶれた……」
右のバッテを外して痛みの元凶を見てみると、親指の背の皮が剥げていた。
ほっときゃ治るし、今日は終わりかな。
そろそろ風呂入るかと思って、左手のバッテも外していると、
「ちゃんと消毒しないとだめだよ」
いつの間にか庭にアルノが来ていた。
それも部屋着じゃなくてジャージで。
「アルノ。なんで外に?」
「頑張ってる○○見てたら、私もダイエットしないとな~と思って」
「ランニング?」
「そう。○○が走ってるルート教えてよ」
「あー……いいけど、暗いから一人だと……。わかった、俺もいくよ」
「え、いいの!」
「ペースについてこられるならね」
「それは加減してよ~!」
一度部屋に戻り、バットを置いて、水を一杯飲んでから外に出た。
「準備運動しっかりな。アルノは体育以外で運動なんかしないだろ」
「し……!ませんでした……」
一回「しますけど!」って言おうとしたのか。
うそも甚だしいな。
「アキレス腱とかちゃんと伸ばしといてな」
「はーい」
準備運動も終えて、アルノがきつくならないようなペースで走り始める。
いつものルートは大体一周四キロ。
普通に走れば大体二十分前後。
アルノがいるから、三十分すぎるくらいか。
「どこ走るの?」
「橋渡って、河川敷ぐるーって」
「真っ暗じゃない?」
「だからなおさらアルノ一人では行かせられないだろ」
「やさしいじゃん」
「そりゃそうなるだろ。アルノをこんな夜に一人でランニングになんて行かせたら、ワンチャン土手から落ちたりするだろ」
「わたしをなんだと思ってるのかな!」
「なにって、今更聞くなよ。ドジでポンコツだと思ってるよ」
「なんだと!」
後ろから何やら文句が聞こえるが、それは無視して夜風を切る。
俺的にはかなりペースは落としていたつもりだったのだが……
「ちょ……まって……はや……」
「体力なさすぎじゃね?」
「しょ…..がない……でしょ……」
まだ一キロも走っていないのに、アルノは今にも倒れそう。
普段から白いなって思ってた顔がさらに白い。
「無理すんなよ。こっから土手道だから、ふらついてるとほんとに落ちるぞ」
俺は足を止めて、周囲を見渡す。
そして、近くにあった自販機まで走って、キャッシュレスで水を買う。
「ほら、これ飲んで。ゆっくり歩きながら星でも見よう」
「ごめんね……」
「いいよ、謝んなくたって。ウォーキングだって結構効果あるんだから」
アルノの息が整うのを待って、俺たちは並んで街灯も少ない土手道を歩く。
ゆっくり、ゆっくり。
アルノの顔色を気にしながら。
約一時間、くだらない話をしながら歩き続けた。
テストがどうだとか、最近の部活はどうだとか。
もうすぐ、試合だとか。
家に着くころには、すっかり時間も遅くなってしまった。
「ウォーキングも結構疲れるっしょ」
「うん。結構効果ありそう」
「声かけてくれればいつでも付き合うよ」
「いつでも……」
「ああ、いつでも」
「……それにしても、星きれいだよね」
「急だな」
アルノに促されて、俺も空を見上げる。
遅くまでの練習はざらだし、そのあと家に帰ってからの自主練だって日常。
それなのに、夜の空を意識して見上げたことなんて、ここ最近はなかった。
「ほら、私は夜外出ることなんてほとんどないでしょ?」
「まあ、そうだな」
「だから、星空きれいだなぁ……って」
星空を見上げるアルノの横顔は、どこか寂しげで。
心が、ざわつく。
「…………ねえ、○○。私、○○に伝えないといけないことあるんだ」
「なんだよ、改まって」
「わたしね、夏が終わったら、引っ越すんだ」
・・・
『私ね、夏が終わったら、引っ越すんだ』
結局、今朝はアルノに会えなかった。
かなり早く家を出たらしい。
それにしても、急に、そんなことを言い出すなんて……
アルノが、引っ越す……?
十七年、アルノと過ごした時間。
今更、隣にアルノがいない生活なんて考えられない。
「○○!」
「うわ、びっくりした……タクか……」
「さっきから呼んでんだけど」
「ごめん。気が付かなかった」
平静を保てていないということは自分でもわかっている。
そんな俺の様子に、タクも気が付いたようで、俺の隣の席に座ると頬杖をついてこっちを見る。
「なんかあったん?今日、元気なくね?」
「…………」
「あったんだな。お前は中学時代から、悩みあっても一人で抱え込みすぎなんだよ。ほれ、話してみ」
「絶対でかい声出すなよ。……アルノが、引っ越すらしい」
「…………マジか」
「……………………」
タクも、驚きのあまり言葉が出ないといった様子。
頬についていた手で口元を隠し、目は大きく見開かれている。
「いつ」
「夏が終わったらって……言ってた」
「それは……急だな……」
「だよ、な……俺もまだ飲み込み切れてない……」
「だろうな……。俺ですらこんななんだから……」
なんでもっと早く言ってくれなかったのか。
いや、そんなこと考えるだけ無駄だ。
どれだけ早く言われたって、俺はきっとこの事実を飲み込むことなんてできない。
ずっと、喉につっかえたように靄を抱えながら生きていく。
「俺は、ずっとアルノに支えられっぱなしだったから……」
アルノに「頑張れ」って言われれば、どんなに気持ちが沈んでいたって頑張れた。
その一言だけで、俺はなんだってできた。
「なおさら負けられないな。今年、絶対に甲子園行こう」
「もう、夏も目の前だもんな……」
週末は大事な夏の初戦。
相手は強豪校。
こんなメンタルで、戦えるのだろうか。
その不安は、放課後の練習からさっそく露見した。
「高野!集中しろ!」
「すみません!」
ノックを受けていても、グローブにボールが収まってくれない。
収まったとしても、握り替えももたつくし、送球も普段よりばらついている。
「どうした○○?夏大前で緊張してんのか?」
「すみません……」
先輩たちの励ましも、ありがたいけれど素直に受け取ることはできなかった。
後ろめたかった。
今は、目の前の試合に心血をすべて注ぐのが当然なのに、俺は自分の都合で、試合とは関係のない場所で集中を乱しているから。
それでも、世界は止まってくれない。
時間は巻き戻ってもくれない。
試合は、やってくる。
・・・
迎えた週末。
蜃気楼が浮かぶほどに暑く、日差しは突き刺すように強く、セミの声がけたたましく響く。
一試合目を途中まで見て、俺たちは球場の外でアップを始めた。
体の調子はすこぶるいい。
緊張も、別にしていない。
だけど、スタメンでは呼ばないでほしい。
きっと、今日の俺は迷惑をかける。
「集合!」
キャプテンの一言で、背番号を付けた二十人が円になる。
「お前らもずっと意識していただろうが、相手は去年もやって、負けたとこだ。だからといって、気負いすぎずにやること、いいな」
「はい!」
「それでは、スターティングメンバーを発表する。一番、センター……」
俺の名前が呼ばれるとしたら、せいぜい八番。
呼ばないでくれ。
「八番、セカンド高野」
「あ……は、はい……!」
「歯切れが悪いな。緊張でもしてるのか」
「い、いえ……!」
「そうか。九番、レフト……」
祈りもむなしく、名前が呼ばれた。
呼ばれてしまった。
バッティングが俺よりも遥かにいい先輩じゃなくて、俺をスタメンに選んだ理由は圧倒的に守備。
せめて、守備で迷惑はかけないようにしなければ。
・・・
楽器の準備も終わって、吹奏楽部の私たちはひとまず小休止。
「なんかアルノ、最近元気ないね」
「そ、そうかな……?」
「うん。○○くんと喧嘩でもした?」
あの日以降、私は○○を避けてしまっている。
後悔も、している。
あんなタイミングで、○○の重荷になるような、雑念になるようなタイミングで引っ越しのことを告げてしまったから。
謝りたかったけど、どんな顔すればいいのか、わからなかった。
「そ、そんなことはないけど」
「ふ~ん……。あ、そろそろシートノック、はじまるね」
選手たちがグラウンドの各ベースに散らばり、ボール回しがはじまる。
《本日の第二試合のラインナップ、ならびにアンパイアのご紹介いたします》
アナウンスが聞こえて、スターティングメンバーが電光掲示板に映る。
《八番、セカンド、高野くん》
「おぉ、○○くんスタメンだ」
「…………!」
○○の名前。
スタメン。
試合に出るのは○○なのに、私の心臓が激しく音を立てる。
・・・
試合は、予想通り厳しいものになった。
一度のミスも許されないような投手戦。
八回表の攻撃まで終わって、両チームヒットは四本ずつ。
得点は1-1。
そして八回裏の守備。
2アウト、ランナー2塁。
「ここ、我慢だぞ!」
ベンチから監督の檄が飛ぶ。
相手投手の調子もいいし、次の一点は勝負の分かれ目になる。
ツーアウトだし、ワンヒットでランナーはホームまで帰ってくるだろうし、エラーも命取り。
ナインに緊張が走る。
その、初球。
右バッターの外低めに投げられたカーブを振りぬかれたバットがはじき返す。
打球はマウンドの前で鋭く跳ね、その勢いが衰えることなく二遊間を突き抜けんと地を這う。
一歩目は問題ない。
飛び込めば届くか……!
踏み切り、飛び込む。
届け。
届け……!
しかし、無情にもその手はわずかに届かない。
ボールはグラウンドの土をかすめながら、小刻みに跳ねて進んでいく。
「バックホーム!」
中堅手がそのボールを捕球したころには、ランナーは三塁ベースを蹴っていて、送球の素晴らしさも虚しく、相手に一点のリードを許してしまった。
「まだ試合は終わったわけじゃない!一本ずつ繋いでいくんだ!」
九回表。
打順は六番から。
「先頭でよーぜ!」
絶対に回ってくる打順。
バッティンググローブを付け、Mサイズのヘルメットと、黒のスカイビートを用意する。
口の中の水分を捕球して、体をほぐして打席に備える。
代打を出される可能性だってある。
それでも、準備をしておくに越したことはない。
打たなきゃ。
『活躍しなきゃダメだからね!』
なんで、アルノのことがちらつく。
そう言えば、吹奏楽部だから、見られてるんだっけか。
今日は三打席立って三振一つの内野ゴロ二つ。
エラーこそないけど、いいとこは見せられてない.
「ふぅ……」
深く息を吐いていると、鈍い金属音が聞こえる。
「ナイバッチ!」
ぽとりと、逆方向のライト前に落ちたボール。
虎の子のランナー。
俺はバットを握り、ヘルメットを被ってネクストバッターサークルで打席を待つ。
もう一度、心を落ち着けよう。
そう思っていたのも束の間、七番の先輩は初球をはじき返したものの、三遊間深い位置でショートに打球を捕られる。
ダブルプレーは免れたが、1アウト、ランナー1塁。
ゲッツーで負け。
代打も頭をよぎったが、監督は腕を組んだまま。
震える指先と、飛び出そうな心臓。
深く掘られた左打席。
「おねがいします」
審判さんと、今から踏み入れるグラウンドに一礼して打席に入る。
大きく息を吐くと、応援の声とアフリカン・シンフォニーが鼓膜を揺らす。
緊張感が張り詰める。
グリップを握る手に力を籠め、集中力を高める。
打たなきゃ負ける。
そんなこと考えるな。
引っかけてゲッツーは……
一球目。
外角へのカーブが滑らかにストライクゾーンを通り抜け、キャッチャーミットに収まる。
緩いボールのはずなのに、体が反応しきれていない。
「ストライク!」
審判の声が響く。
応援歌が響き、額に汗がにじむ。
二球目。
胸元、思わず仰け反るストレートは外れてボール。
三球目。
外角、わずかに外れたスライダー。
出かけたバットはすんでのところで静止した。
「ふぅ……」
カウント有利。
ここはストライクが欲しいはず。
次の球は狙い時。
四球目。
ピッチャーの腕がしなり、ボールが真ん中へ向かって飛び出す。
甘い。
軸足の左足にたまった力を、スムーズに右足に。
このままバットを振りぬけば……
動き出した体はもう止まらない。
ストレートだと思って振りぬいたバットはもう止まらない。
ボールは、想像以上に”来ていない”。
やられた。
スローモーションで世界が動き、ボールが俺の膝元の方に向けて曲がり始めるのがなんとなくわかった。
鈍い音がして、フェアゾーンからファールゾーンへと転がったボールは切れていく。
「ファールボール!」
一回、死んだ。
カウントはツーストライク、ツーボール。
並行カウントはボール球を一球使えるだけに、一般的には投手有利。
何で来る。
相手の投手の持ち球はストレート、スライダー、カーブ、スプリット。
セオリー通りなら膝元のスライダーか、スプリット。
五球目。
力強く振りぬかれた腕から放たれたボールはホームベースを掠めてワンバウンドし、キャッチャーの防具に跳ねる。
予想通り、三振もしくは内野ゴロを取りに来たスプリット。
これでフルカウント。
次はさすがにストレートか。
いや、スライダーやスプリットで勝負してくることだってある。
「すみません」
一度、打席を外れて目元の汗をぬぐって、戻る。
選択肢が多すぎる。
頭がクリアにならない。
応援歌も途切れ、球場は嘘のような静けさに包まれる。
心臓の音がうるさい。
暑いはずなのに、指先が冷たい。
震えも、止まらない。
このままじゃ……
「○○ー!!!打てー!!!」
永遠にも感じた一瞬の静寂を、俺の名前を呼ぶ声が稲妻のように切り裂いた。
十七年、ずっとずっと慣れ親しんでいた声。
呼ばれなれた名前。
慣れ切らない恋心。
振りぬかれた腕。
ボールは、鋭く音を立てながら突き進む。
左足の母指球に乗せた体重を、ぶつける!
感触は、なかった。
ただし、劈くような金属音がした。
青い空に、一筋。
虹か、飛行機雲か。
白球は、大空をなぞる。
ゆっくり、ゆっくり。
放物線を描いて、
『○○のホームランとか、見てみたいな~』
スタンドに、落ちる。
球場が揺れるほどの大歓声。
塁審が天に突き立てた指を大きく回す。
「っしゃあ!」
ホームベースを踏んで、やっと自分が人生で初めてのホームランを打ったのだと実感した。
そして、十分後。
試合終了を告げるサイレンが、球場に響いた。
・・・
初戦を勝利で終え、どっと押し寄せた疲れと戦いながら荷物を一度外に出してベンチを開ける。
「次の試合見てから帰るから、トイレとか行くやつは済ませておけよ」
応援席からやってきた一年生たちに道具を預けて、俺は一人トイレへと向かった。
感触なき感触が、手に残ったまま。
今までの人生で感じたことのなかった高揚感を抱えたまま。
「ナイバッチ」
木陰から声をかけられて、俺の足が止まる。
「アルノ……」
「いいもの見られたよ。やっぱ、○○ホームラン打てるんじゃん」
「…………最後の打席の打つ直前さ。声、聞こえたよ」
「なんのことかな~」
「とぼけんなよ。俺が、アルノの声を……アルノの声だけは、聞き間違えるはずなんてないんだから……」
「これで、悔いないな~」
「何言ってんだ、まだ初戦勝っただけだ。まだまだ試合はあるし、甲子園だってあるだろ」
「気が早いよ。まだまだ試合はあるんでしょ」
なんだよ。
まだ、一回勝っただけじゃんか。
なのに、なんで、こんなにも涙が出そうなんだよ。
「なあ」
「なに?」
「えと……ぁ……その……」
この期に及んで、俺はまだ恋心を引きずっている。
こんなの言ったって、鎖にしかならない。
枷にしか、ならない。
そんなのは、誰よりも俺が一番わかっている。
「……こんなの、今更言っても遅いんだけどさ」
今、頬を伝うのは汗じゃない。
みっともなく声は震え、視界は滲む。
「おれ、アルノのことが……好きだ……」
眩しい空。
戻れない時を駆ける。
「わたしも、○○が好き……!」
澄み切った、夏だ。
・・・
八月に入って、夏休み中の貴重なオフの日。
てか、明日から学校で、今日がその夏休みの最終日。
今年も俺たちは準決勝で涙を吞み、甲子園にはあと二歩ほど届かなかった。
二年連続で準決勝敗退ともなれば、監督もかなり悔しかったようで、去年よりもオフの少ない夏休みを過ごしていた。
「ひまだ……」
練習がないと、何していいかわからない。
自主練習をしたっていいけれど、世の中にはオーバーワークという言葉もあるわけで、それを危惧して一応甲子園を見ながら”積極的休養”を取っているわけだ。
「寝てもいいな……」
惰眠をむさぼるなんてのも、しばらくやってなかったし、魅力的ではある。
俺はソファのそばに置いてあったぬいぐるみを抱き寄せて、寝転がる。
上の階の掃除機の音も中々聞かないから新鮮な感じだ。
ただ、兄貴の部屋を掃除してるなんて珍しいな。
もうベッドと本棚くらいしか残してないのに。
「まあいいや。寝よ……」
瞼を閉じてふと、明後日がアルノの引っ越しの日だったなと思い出す。
そして、あのみっともない告白も、思い出す。
お互いの気持ちがわかったうえで、結論までは言い切らなかった。
まあ、端的に言えば俺は離ればなれのその関係に耐えられない意気地なしだったのだ。
だから、あんな卑怯なことをした。
ならばせめて、別れの日くらいは笑顔で見送らなければと思って入る所存。
泣かないようにだけ気を付けたいな。
まあ、無理か。
そんなことを想いながら、惰眠の沼に沈もうとした時だった。
滅多にならないインターホンが家の中を響き渡る。
「○○ー。ちょっと出られないから出てちょうだい!」
「あーい」
めんどうだな、とは思いながらも、反抗する意味もないので俺はおとなしく玄関を開けた。
宅配便とか、そんなもんだろう。
「…………ん?」
「おはよ。寝てた?」
インターホンを鳴らしたのはアルノ。
まあ、それ自体は別に不思議なことでもなんでもないのだが、異様なのはその後ろに積み上げられた段ボール。
「なに、その荷物。引っ越すの明後日だよな」
「え、今日だよ」
「うそ、でも母さんは……」
「あら、アルノちゃん!準備できたのね!」
「…………?」
「お邪魔します。それから、お世話になります」
状況が飲み込めない。
何が起こってんだ。
「ちょっと、そこ立ってると荷物運べないんだけど」
「いや、何言ってんの?」
「今日から一年半、お世話になりますってこと」
「サプライズ、成功ね。ちょうどうちには遊び惚けたままで帰ってこないバカ息子の部屋が空いてるじゃない?」
「だから、一年半。大学進学したら一人暮らしするからっていうのを条件に○○の家に居候させてもらうことになったの。ほら、段ボール運ぶの手伝ってよ」
「わっかんねぇけど、わかった」
今はいない兄貴の部屋にアルノの持ってきた段ボールを運び込む。
珍しく兄貴の部屋を掃除してたのってこのためだったのかと、十数分前の自分の疑問に答えが出た。
「しかしびっくりだな……。いや、うちの親のことを考えればアルノを受け入れるくらい不思議なことでもないのか……」
「嫌だった?」
「いや、別に」
「そりゃそうだよね。幼馴染……改め彼女と一つ屋根の下暮らせるんだから」
「彼女……?」
「あの日、告白してくれたじゃん。私は『私も好き』って言葉でオッケー出したつもりだったのに。○○は……違ったんだね……」
「やめろ、めんどくさいことすんの。俺はてっきり、お互いの気持ちも知れたことだし、これで次の新しい恋に進めるねってことだと思ったんだよ。アルノがうちに住むことになるなんて知らなかったから」
「じゃあ、私が○○の家に転がり込むことになったから、晴れて正式に恋人同士だね」
ややこしいことになったが、別に不満はなかった。
「ああ、そういうことだな」
「じゃあ、彼氏になった〇〇には荷解きを手伝ってもらいます。端に寄せてある段ボールは下着とか入ってるから見ないように」
「はいはい」
まだ、ちゃんと状況を飲み込めたわけでもないけれど、まあいいかで済ますことにした。
「○○が手伝ってくれたおかげで早く終わったね~」
「感謝しろ」
「ありがと。でさ、聞きたいことあったんだけど」
「なんだよ」
「○○はさ、私のどこをすきになったの?」
「…………は!?」
唐突に投げられた165km/hのストレート。
俺はあまりにも厳しい球に思わず声が裏返ってしまう。
「いや……まあ……。ドジでポンコツなとこも可愛いし、笑顔はそりゃあもちろん。それに、ずっと俺を元気づけてくれるし、勇気づけてくれるし」
『すごい!○○くん、足速いね!』
「アルノは覚えてないかもしれないけど、俺の足の速さ、最初に褒めてくれたのってアルノなんだよ」
「ふ、ふ~ん……」
「おい、ふざけんな。聞いておいてそっちが照れてんじゃねーよ」
「だって、そんなまっすぐな目で言われたら……」
「アルノは?俺のどこを好きになったんだよ」
「それはね~」
今度はアルノがまっすぐ俺の目を見て、想い出を懐かしむように、子供の用に、微笑んだ。
「よこがお」
………fin
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