泡沫のような奇跡を 《前》
深い、水底まで沈んでいくような感覚を今でも覚えてる。
光も届かない。
音も届かない。
何もない。
誰もいない。
拭えないその感覚を抱いて、私は今日も目を覚ます。
上体を起こして、腕の力で椅子に座る。
それが、私の歩き方。
「朝ごはんまだ?」
リビングに顔を出すと、バターのいい香り。
「あら、今日の授業は……」
「もう夏休み!だからちょっと散歩でもしようかなって」
腕で車輪を回して食卓に着く。
「ついて行かなくて大丈夫?」
テーブルに置かれる、スクランブルエッグとトースト。
ホカホカと立つ湯気が一層食欲を掻き立てる。
「うん。そんな遠くまでは行かないつもりだから」
「なら……うん、大丈夫ね」
ちょっとだけ急いで朝ごはんを済ませ、野菜ジュースを一気に流し込む。
手早く着替えと歯磨きを済ませて。
「いってきます」
私は、レバーを前に倒して、海原を進む。
「ほんとに効果あるんだって」
「え~……俺はあんまり神様とか信じてないんだけど……」
一限だけの授業が終わり、俺は友人の洋平に連れられて神社に来ていた。
「なんたって、テストがギリギリ赤点じゃなかったのはここの神様のおかげだかんな」
「いや、それは別に神様のおかげじゃないんじゃ……それに、他の授業はダメだったって言ってたじゃん」
「それは言うなよ~。○○に教えてもらった教科は赤取りたくなかったんだって」
目の前に、大きな赤い鳥居。
普段、お参りとかとは無縁の俺でもこの辺で有名な神社だから存在くらいは知っている。
というか、多分人より詳しい可能性すらある。
大学のレポートで地域のことについて書く際、洋平がここの神社を題材にしたいなんて言い出した。
そして、一人じゃ終わんないと俺に泣きついてきた。
だから、伝承とか、どんなご利益があるのかとかは結構調べてみたつもりだ。
昔の話だが、ここの神社に『不治の病とも言われた病気を治してほしい』とお願いをし、それが見事叶ったなんて伝承が残っている。
所詮は昔話だし、そんな非日常的な、スピリチュアル?なことは一切信じない質の俺は、隣で必死に手を合わせてお願いしている洋平を尻目に、ぼんやりとしているだけだった。
「……よしっと。さ、帰るべ~」
「何お願いしたのさ」
「いや、それ言っちゃったら叶わないっていうじゃん!?」
「いや、変わんないって」
「それでも!」
頑なな洋平の言葉を聞き流しながら、スマホで時間を確認しようとすると。
「桜からだ……」
「なんだって?」
「私もテスト終わったので、どこかご飯食べに行きませんか……だって」
「あり!テスト終わりました〜ってバ先行けばサービスしてくれたりしないかな?」
「じゃあ、それでいいか」
『カフェ集合で』と返事を送り、スマホをポケットにしまう。
にしても、あの伝承は本当なのだろうか。
死んだ人が生き返るなんてこと、ありえない。
奇妙なところもある。
その伝承には誰が、誰の病気を治したかったのかが記されていないということ。
目を覚ました男が夢うつつの中で見たことが中心に描かれていたこと。
その伝承の中では、お願いをした人の存在がぽっかりと失われてしまっていたように伝えられていた。
しかし、男だけはかんざしを抱いて、彼女がここにいるんだと言っていたという。
それに、一説には人魚が祀られてるなんて話もある。
なにがなんだか、もうさっぱりだ。
「……?」
「どした?」
鳥居をくぐって帰ろうとした時、何か視線を感じたような気がして振り向く。
「いや……」
本堂と、二匹の狛犬。
別に、誰がいるわけでも、何がある訳でもない。
「なんでもない。早く行こう」
木々が茂る神社を後にして、太陽に照らされるアスファルトを踏みしめながら洋平を追いかけた。
「あ!せんぱーい!」
まだ目的地の前、こちらに手を振りながら近づいてくる女の子。
「おお、桜。カフェで待っててよかったのに。こっちまで来ちゃったらまた道戻ることになっちゃうよ」
「いいんです。先輩とお話できるので」
「いい後輩だねぇ。そんなに俺達と話したかったのか~」
洋平のその言葉に、桜はちょっとムスッとする。
「あ、洋平先輩もいたんですね。私は○○先輩にメッセージを送ったんですけど?」
「そりゃあ、○○がいるなら俺もいるでしょ」
「そーですか……ふふ」
「はい、今回は俺の勝ち~」
まあ、そのムスッとするのもいつものノリ。
「はやく行こう。俺、お腹空いちゃった」
公園を横切って、カフェに向かおうとした時。
ガシャンと大きな音がして、その直後に小さな子供たちが走って目の前を横切る。
子どもたちが来た方、音のした方を見てみると、
「痛ってて……」
倒れた女性。
傍らには横になっている車いす。
「先、行ってて。ちょっとトイレ!」
「おい……!」
俺は、見てみぬふりは出来なくて、
「大丈夫ですか?」
車いすを起こし、すぐに女性に駆け寄る。
「あ、すみません……」
「……肘、血が出てますよ」
女性が車いすに乗りなおす時、肘から出血しているのが見えた。
「ほんとだ……」
ここは公園。
周りを見渡してみると、やはり水道があった。
「傷口、洗っときましょう」
俺は女性の車いすを押して水道に向かう。
背後から見える女性の肩はだいぶ細く、押していても本当に人が乗っているのかどうかすらわからないほどに軽い。
「肘、失礼します」
鞄に入っていたティッシュを濡らして、肘の血をふき取る。
「絆創膏……ない……」
そこまではよかったが、傷口を覆い隠すものがない。
「すみません、ハンカチしかないんですけど……ないよりマシだと思うので」
ハンカチを傷口に結ぶ。
「ありがとうございます。でも、これはどうやって返せば……」
「返さなくて大丈夫ですよ」
「そう言うわけには……」
「じゃあ...…週明けくらいになったら県道沿いのカフェまで来てください。そこでアルバイトしてるので」
「わかりました……あの、お名前は?」
「潮○○です。では!」
あの二人をあまり待たせても悪いので、俺は急いでカフェまで向かった。
「ごめん、お待たせ」
「あ、こちらどうぞ」
荷物の置かれていない、桜の隣の席に座る
「なんか、あったん?」
「ちょっと、ね」
「どうせ○○はまた人助けでもしてたんだろ?」
「そんなんでもないですよ」
席に着くと、店長が水の代わりにコーヒーを出してくれる。
「てか、コーヒーですか?」
「テストお疲れってことで、最初の一杯は俺のおごりにしてやる」
「ありがとうござ……」
「ただし、何かもう一品注文しろよ~」
タダより怖いものは無いとはよく言ったものだ。
嵌められてしまってはもうそれに従うしかない。
俺は大人しくメニュー表を開く。
「で、夏休みどっか出かけようって桜と話してたんよ」
「そうなんです」
「海とかどうよって話になって」
「いいね、海」
そう言えば、最近行ってないな。
「○○ならそう言うと思ってたぜ~!あ、店長カレー二つ!」
「一つは俺の?」
「どうせカレーだろ」
「まあ」
じゃあ、もう見る必要はないな。
メニューを閉じて、端に片す。
「あれ、桜は何にするの?」
「私は……これとこれ、どっちにしようか悩んでて……」
指さされたメニューは、パンケーキとパフェ。
どっちも苺が使われているやつ。
「うーん……パフェとかいいんじゃない?」
「お、その心は?」
「パンケーキはよく俺が桜にまかないとして作らされてるから」
「作らされてるってなんですか!」
「ごめんごめん、そのおかげでパンケーキ焼くのはめっちゃ上手くなったから!」
「ならいいです」と、メニュー表に向き直り、注文を済ませる。
「で、日程なんだけど~」
「どうせまだ決めてないんだろ?」
「せいかーい。なんも決まってませーん」
「だと思った」
洋平の能天気さに呆れていると、注文した品が届く。
「ま、とりあえず腹ごしらえだな」
結局、この日は一切日程は決まらなかった。
大学は夏休みに入り、アルバイトや遊びに明け暮れる日々が始まる。
「なあ、あそこの席の子可愛かったな」
「何卓?」
「三卓」
「ああ、あの子たちか……まあ、確かに?」
「だよな~……あんなかわいい子が彼女ならな~」
「空いてるとは言っても、仕事はしてください」
さっきまではピークが来ており、てんやわんやの大盛況といった感じだった。
ただ、今はいわゆるアイドルタイム。
お客さんが減り、かなり暇な時間帯。
「俺、机拭いてくる」
布巾を持って、カウンターから出ようとした時。
「す、すみません……」
「いらっしゃいませ~」
カラカラとベルが鳴り、お客さんの来店を告げる。
そのお客さんは、車いすに乗った女性。
それに気が付いた桜が、いち早く接客に向かう。
「あの、潮さんって方いますか?」
「少々お待ちください」
桜がキッチンに不思議な顔をしながらやってくる。
「今、俺呼ばれてた?」
「はい、呼ばれてました」
誰だろう。
訪ねてくるなんて珍しいな。
「はい、どのようなご用件で……あ、あの時の!」
その女性には確かに見覚えが。
公園で出会った人だ。
「ハンカチ、返しにきました」
「ああ、わざわざありがとうございます」
「こちらどうぞ~」
洋平が、カウンターに促す。
「飲み物、何になさいますか?」
「あ、私、お財布持ってきてなくて……」
「僕からのおごりってことで。美味しければリピーターになってくれるかもですしね」
ちょっとだけ申し訳なさそうにしていたが、
「じゃあ、せっかくなら。......アイスココアをお願いします」
「かしこまりました」
「まあ、まかせとけって。お前はその人と話してていいよ」
どうせ今お客さんいないからか。
というのは一応言わないでおこう。
「そう言えば、お名前伺っても?」
「はい、菅原咲月です。咲月でダイジョブです。えと……一応、十八歳の高校生です」
「へえ……大学生かと思いました。大人っぽかったので」
「へへ、そうですか?」
そう言いながらはにかむ様子は、年相応のかわいらしさがある。
「お待たせしました。アイスココアになります」
優雅に運んできた洋平。
ああ、これは……
「ねえ、どうやって○○と知り合ったの?」
絶対に下心あるやつだ。
「えっと、先週公園で……」
「公園って、あそこの大きいとこ?」
「はい、そうです」
「というと……あれだ、○○がここ来るの遅れたときだ」
「アルバイト、遅刻しちゃったんですか!?」
まあ、確かにそうか。
今、バイトしてる事実。
ここに遅れたという洋平の紛らわしい発言。
咲月は申し訳なさそうな顔を浮かべる。
「ああ、違う違う。あの時はただここにご飯食べに来ただけだから」
「なら、よかったです……!」
「公園で、どうやって知り合ったのさ」
「ああ、えと……」
「車いすが倒れたのを助けてくださったんです。それに、肘をケガしてたのを手当てもしてくださって」
その話を聞いて、桜も洋平もにやにやとこちらを見ている。
「さすがですね、○○先輩らしいです」
「人助けしたって言いずらかったからあの時も今もなんかぼかしてたんだな」
「……別に、そんな大げさなことでも無かったから」
「いえ、○○さんに私は助けられましたよ?」
「ほら、さっちゃんも言ってるじゃんか。おい、照れるなよ~」
顔を背けた俺にしつこく絡んでくる洋平。
「○○先輩、顔真っ赤」
ガラガラのカフェに、笑い声がそよ風のように吹き渡る。
「あはは、楽しかった……そろそろ帰ります。ココア、ごちそうさまでした」
「送っていきますよ」
「でも、お店が……」
「いいよ、どうせこの時間は混むこと無いし、そろそろ俺らも上がりだし」
俺は急いで更衣室で制服から着替えた。
「では、また来ますね」
「じゃあ、後頼んだわ」
「はい」
「またのご来店をお待ちしてます」
二人に見送られながら、俺は咲月の車いすを押す。
「ここから遠いんですか?」
「いえ、そんなに遠くないです」
「近所だったんですね」
「あったことあるかもですね」
「高校は、どちらに?」
「通信です」
足が、不自由なので。
不躾なことを聞いてしまったなと、反省。
「ごめんなさい。配慮が足りなくて……」
「いいんです!気にしてないですから……次の橋を左で、川沿いを進んでもらえれば」
「わかりました」
「○○さんは今、大学生ですか?」
「大学二年です」
「一人暮らしですか?」
「はい、一人暮らしです」
「いいなぁ……」
咲月は、声のトーンを落とす。
「大学生なら、いっぱい色んなところに行けますね」
「そう......ですね。海に行こうかってあの二人と話してるところです」
「海……!」
「どうかしました?」
「いえ……あ、ここです」
川沿いの一軒家。
段差になりそうなところは大体スロープになっている。
「ありがとうございました」
咲月がお辞儀をして家に戻ろうとした時。
「あら、帰ってたの……そちらは?」
「お母さん、ただいま。こっちの人は、この前話した助けてくれた人。カフェの店員さんなんだよ」
「そうだったの、ありがとうございます……なにか、お礼を」
「いいんです、いいんです。お礼をしてもらいたくて助けたわけじゃありませんから……!では、失礼します」
「待って!」
呼び止められて、振り向く。
「また、カフェにお邪魔してもいいですか?」
突然の上目遣い。
その破壊力を上乗せするように、瞳を揺らす。
「うん、もちろん。待ってるよ」
変な感情を抱いてしまう前に、俺は足早にその場を後にした。
その日から一週間が経った。
咲月は、その間毎日カフェに顔をだしてくれた。
「いらっしゃい」
「いつものでお願いします……って、一回言ってみたかったんです」
「かしこまりました」
俺がココアを入れようとすると、
「三人、あがっていいぞ」
店の裏から店長が出て、そう言った。
「え、マジすか?」
「おう。給料はちゃんとつけとくから安心しとけ」
「あざーす!」
店長の粋な計らいで、俺達は先に上がらせてもらうことにした。
ただし、ここでご飯を食べていくことを条件に。
「そうそう、それで海行く件なんだけどさ」
テーブルについて、洋平が話し出す。
「咲月ちゃんもどうよ」
「え、いいんですか……!」
驚いた顔を浮かべる咲月。
「うん。行きたそうにしてたって、○○先輩から聞いて」
咲月がこちらを見る。
ゆらゆらと、瞳は潤んでいる。
「間違いだったら、ごめん。でも、この前話した時に海って単語に反応してたからさ……」
「あ……その……嬉しくて……」
次第に声は震え、頬に涙が伝う。
「よかった~断られたらどうしようかと思ったよ」
おどけて笑う洋平。
こういう時の洋平の気遣いは、変に暗い空気にならなくて助かる。
「じゃあ、一週間後……水曜日とかどうですか?」
桜の提案。
行くと決めるまでは中々長いけど、決まればとんとん拍子なのは俺達のいいところ。
「うん。俺らもバイト休みだし……咲月はどう?」
「行きます!行けます!」
咲月は鼻をすすり、袖で涙を拭って食い気味に洋平に返答。
「なら、決定!」
カレンダーに、しっかりと予定を記す。
「咲月ちゃん、俺達とも連絡先交換しとこ」
「はい!」
ニコニコと、嬉しそうな咲月。
なんだか、こちらまで心が温かくなる。
「○○さんも」
「うん、はい」
俺はQRコードを差し出す。
それは、どうやら咲月も同じだったみたいで。
「かぶっちゃいましたね」
「だね」
二人で顔を見合わせて笑った。
『こんばんは』
その日の夜、さっそく咲月からメッセージが来た。
『あの、海以外にもお出かけしたいところあるんです』
『どこ行きたいの?』
『いいんですか!?』
『もちろん、俺に出来ることなら』
それから、間があって。
『動物園、行ってみたいです』
『うん、いいよ』
『水族館も行ってみたいです!』
『もちろんいいよ』
『それから、お買い物も行きたいです!』
『いいね』
『その、できれば、二人で』
その一言に驚きを隠せず、俺は一度スマホを置いた。
二人で……
二人でか……
『変な意味じゃないです!今度海にお出かけする予行練習をしたくて!』
『だよね!じゃあ、いつにしよっか』
そう、だよな。
別に、そう言う意味じゃないよな。
ビックリした……
心臓がどきどきと音を立てて震える。
ワンルームの俺の部屋なら、隅から隅まで響いているんじゃないかと思えるほどに大きな音を立てる。
ただ、残念な気持ちが無いこともない。
そう言う意味であってくれてもよかったのに。
『では、海に行く前の日曜はどうですか?』
カレンダーを確認。
バイトは……ない。
『いいよ、その日にしよう』
『楽しみにしてます!』
鼓動は、多少なりとも収まってきた。
だけど、それとは別に体がむず痒い。
ここから日曜日まで、いつもと変わりなくカフェに来てくれた咲月に対して、いつも通りには振舞えず、少しよそよそしくなってしまった。
「では、よろしくお願いします」
日曜日。
俺は、咲月の家まで迎えに行く。
「はい、遅くはならないようにするので」
最近はずっと、俺がカフェに来た咲月のことを家まで送っていくことが多かったからだろうか。
信頼関係が気付けてきていると思う。
というか、信頼していない相手に一人娘を預けはしないだろう。
「行こ!」
どこか楽しそうな咲月。
声色はいつもよりも高め。
「今日はどこ行く?」
「水族館!……に行きたいです」
「うん、じゃあそうしよっか」
ルートを調べ、なんとなく頭に叩き込む。
「行けそう?」
「うん。電車とか使ってこっか」
咲月の車いすを押して駅に。
今日は暑いには暑いが、風が吹いていて心地いい。
「うーん!」
咲月が体を伸ばす。
「今日は比較的過ごしやすくてよかったね」
「ほんとに!今日楽しみすぎてあんまり寝れなかったから、天気が良くてホッとしたよ~」
駅について、いよいよ移動……
「ねえ、切符買わないの?」
「え、ICカードにチャージされてるから……」
「そうなの!?」
知らなかった…と、おろおろとしだす。
「カード、作ろっか」
「作る作る!」
券売機から発行されたカードを、興味深そうに眺めている咲月。
「で、それをかざせばいいよ」
ピッと音が鳴り、改札が開く。
「すごい!」と、言わんばかりにこちらを振り返る。
「いつから電車乗ってなかったのさ......」
俺の問いかけに、咲月は悩む素振りを見せる。
「んー......中学卒業前に車いす生活になったから......」
あぁ。
また俺はデリカシーの無いことを......
「しかも、それ以前はバスケやってたんで!外出してる暇なかったんです!」
以前、咲月は明るい。
そんな姿に、俺は考えを改めさせられる。
きっと、申し訳ないと思うことがダメなんだ。
「じゃあ、今日は目一杯楽しもう!」
「はい!楽しみです!」
乗り込む際にはスロープを用意してもらって電車に乗り込む。
変わって行く景色に、咲月は目を輝かせる。
カードを眺めていた時もそうだし、今もそう。
なんだか、子供の散歩に付き合っているみたいな、そんな気持ちになってくる。
「こっちの方に来るのははじめて?」
「うん......はじめて......」
「こんど海に行くのもこっちの方だよ」
電車のクセ強めなアナウンスが鳴り、そろそろ下車する駅。
「咲月、そろそろ降りるよ」
「あ、うん」
流れていった風景に、名残惜しそうにしながら電車を降りる。
ここまで来たら、水族館まではもう少し。
「もうすぐ?」
「うん、もうすぐ」
建物が見えてきた。
チケットの購入を済ませて、いざ海の中の世界へ。
「水族館......はじめて......」
咲月のそのつぶやきは、仄暗い海底王国の中に吸い込まれていく。
大きな水槽が、俺たちを出迎える。
群れをなす魚たち。
雄々しく泳ぐジンベイザメ。
差し込む光が、より一層神秘的に魅せる。
「すっげ......」
隣で言葉を失う咲月。
それに釣られてか、俺もその雄大な大水槽に魅入られていた。
ぼーっと水槽を眺めていると、咲月がシャツの裾を引っ張っているのに気が付いた。
「次……次、行きましょ!」
「そうだね」
大水槽の不思議な引力から抜け出して、俺達が向かったのは熱帯魚エリア。
先ほどとは打って変わって、細い円柱型のアクアリウムがランダムに配置されており、薄暗さの中の緑色の照明も相まってか、ジャングルを彷彿とさせる。
ここでも咲月は興味深そうに水槽を覗き込んでいた。
「クリオネ見たの初めてなんです」
クリオネは、ゆらゆらと優雅に、不気味に水槽の中を泳ぐ。
「自然にこういう生き物がいるってことですもんね」
「だね」
「なんだか、ここは幻想的……違う世界に来たみたい」
「じゃあ、次の場所はもっとびっくりするんじゃない?」
「気になります!」
車いすを押して、エリアを移動。
ジャングルを抜けたその先は。
「わぁ……すごい……」
海のトンネル。
上を見上げればエイが羽ばたき、横を見ればアジの群れがカーテンを作る。
「海の中にいるみたい……」
咲月は、ぽっかりと口を開き、その光景にあっけにとられていた。
ゆったりと泳いでいたり、急いでいたり。
周りを泳ぐ魚たちは、誰も彼も皆自由。
「いいなぁ……」
ぽろりと、咲月がそんな言葉を零した。
それにすぐに気が付いたのか、手で口を隠してこちらを見た。
「あの、今の聞きました?」
はっきりと聞こえた。
多分、心からの言葉。
だけど俺は、
「なんのこと?」
「なら、よかったです」
聞こえていないふりをした。
「あの、すごい......ですね」
咲月はもう一度、俺たちを覆う水のドームを見渡す。
「世界には、こんな場所もあるんですね......」
「きっと、俺たちが知らないだけで、世界にはすごい場所がいっぱいあるんだよ」
「いつか、いろんな場所に行ってみたいな......」
「うん。一緒に行こう」
咲月からの返答はない。
「咲月......?」
気になって見てみると、頬を赤く染めて俯いていた。
「どうした?熱?」
先ほどまでとは明らかに様子が違う。
具合でも悪いのかな。
「あ、えと、そう言うわけじゃなくて!」
「そっか、ならよかった」
「あー......そろそろ、イルカショー始まるんじゃないですか?」
咲月がパンフレットのショーのページを指差す。
「本当だ。じゃあ移動しようか」
「あれ、今日は〇〇先輩お休みですか?」
「ん?ああ」
「ふーん......」
眉尻が下がり、唇を尖らせる桜。
見るからに《残念》って感じだ。
「珍しいですよね、〇〇先輩が日曜日にお休みなんて」
「そうだな。まあ、たまには休むのも大切だよ、あいつは」
「じゃあ、今日は先輩と二人ですか……」
「はいそこ、露骨に落ち込まない」
まあ、たまにはいいじゃないかと桜をたしなめて仕事に取り掛かる。
しかし、○○がいないと少し寂しい気持ちは俺も同じ。
そんな俺達の気持ちを汲み取ってか否か、店はだんだんと混み始めた。
「最前は取れなかったですね」
「着替えも雨具もないからちょうどよかったかも」
「たしかに、濡れたらダメでした」
ワッと歓声が起きて、プールの上を人が滑る。
「人が水の上を!」
「足元見てごらん」
そのまま流れるようにステージへと着地した飼育員さんの合図で、水面からイルカが水飛沫をあげて飛び出す。
まるで、そこにも水があるかのように空を泳ぐイルカたち。
「楽しそう……」
飛沫が陽光に反射して、キラキラと輝く宙を見つめる咲月は、両の手を体の前でぎゅっと握っている。
最後に十頭ほどのイルカが宙を舞い、客席に水かけのサービスを行ってショーは終了。
「楽しかったね」
「はい。圧倒されました」
日は傾き始めようかという時間。
「ショップ寄ってこっか」
「ですね」
ぬいぐるみやお菓子、文房具にキーホルダー。
見て回るだけでも楽しいような場所。
「これ、可愛いな……」
熱帯魚が持ち手の部分にデザインされたボールペン。
価格も手ごろだし、記念にもなる。
なによりアルバイトで使えるから実用性も抜群。
これに決めた。
俺がレジに向かおうとすると、
「あ、あの……」
咲月がかなり控えめに声をかけてきた。
「どうかした?」
咲月はピンクと水色、それぞれ色の違うイルカのキーホルダーを持っていた。
「お揃いで買いませんか……!」
顔を軽く伏せて、目をギュッと瞑って、水色の方を俺に差し出す。
愛らしいその姿。
別に、俺としても断る理由なんて無い。
「いいね、思い出にもなるし」
俺は咲月が持っているピンクの方も受け取る。
「え、払ってもらうのはさすがに申し訳ないですよ!」
「いいのいいの。これは……今日、めっちゃ楽しかったからそのお礼」
「いいんですか……!」
「もちろん。じゃあ、出たところで待ってて」
「わかりました!」
お揃いのキーホルダーか……
なんか、付き合ってるみたいだ……
…………。
はぁ……
顔、あっつ。
会計を終えて、ショップの前で小さく横に揺れている咲月の元に向かう。
近づいてみると、小さく鼻歌を歌っているみたいだった。
「なに歌ってたの?」
「聞いてたんですか!?言ってくださいよ!」
「ご機嫌だったから邪魔しちゃいけないと思って」
「別にいいですよ!」
「ごめんごめん。キーホルダー、俺が水色でいいんだっけ?」
「はい!」
俺は咲月にキーホルダーを渡す。
ステンドグラスのような模様が、光を反射してとてもきれいだ。
「さっそく付けちゃおっかな」
俺は掛けているショルダーバッグのファスナーの引手に付ける。
「いいですね!私も……」
咲月も膝の上に置いていたバッグの持ち手にくくるようにしてキーホルダーを付ける。
「どうでしょう!」
「いいね、お揃い」
見せ合った二匹のイルカが、こつんとぶつかり、ハートを作ったように見えたのはきっと気のせいだろう。
帰りの電車は、驚くほど静か。
夕日が車窓から差し込み、がらりとした列車の中に二人きり。
まるで、荒廃した世界に私たちしかいないみたい。
今日は楽しかったな……
ジンベイザメってあんなに大きかったんだ。
エイって、あんなに優雅に泳ぐんだ。
アジも、小さい魚だと思ってたけど群れになるとあんなにも迫力もあるって初めて知った。
イルカはかわいかったなぁ。
息ぴったりのショーは見ててすっごい楽しかった。
また見に行きたいな。
『一緒に行こう』
○○さん、そう言ってたっけ。
あれ、結局どういう意味だったのかな。
一緒に。
一緒にかぁ……
そうなったら、いいな。
○○さんの鞄で輝く水色のイルカ。
お揃い……
お揃いって、なんだか……
いやいや、まだ早いよ!
私はぶんぶんと頭を振ってそんな雑念を取り払って、私は○○さんの方を見る。
知り合って間もない私の我儘を聞いてくれて、こんなかわいいプレゼントまで貰っちゃった。
「ありがとう、○○さん」
ガタンガタンと、小気味よく揺れながら電車は進む。
○○さんは、気持ちよさそうに寝息を立てている。
私は、降車駅に着くまでその寝顔をじっと見つめていた。
「ふぅ……」
シャワーを浴び終え、髪を乾かしてからベッドに寝ころぶ。
楽しかったなぁ。
水族館の余韻が収まらないまま、テレビをぼんやりと見つめていた。
その画面には、何も映っていない。
映っていないはずなのに、今日の光景がそこには鮮明に映し出されているみたいだった。
咲月、楽しそうで本当によかった。
大きな水槽に圧倒される顔。
トンネルをくぐるときのワクワクしたような表情。
イルカが飛ぶたびに拍手をしていたところとか。
楽しんでくれたんだろうと思わせてくれたから、こちらとしても嬉しいものだ。
鞄に揺れるキーホルダーを一目見て、俺は眠りについた。
「お、きたきた」
そして迎えた水曜。
咲月と一緒に駅に着くと、浮かれた様子の二人はもうすでに集合していた。
「桜はともかく、洋平は早いな。遅刻するもんだと思ってたわ」
「ふっふっふ。楽しみなことには全力なんだよ俺は」
「はいはい。電車は……」
「あっちですよね!」
自信満々に正解の改札を指さす咲月。
「おお!咲月ちゃんもそんなに楽しみだったか!」
「もちろんです!」
変に波長のあってしまった二人を連れて俺達は電車に乗り込む。
街を抜けて、電車は海岸線を進む。
見えてきた風景に咲月と洋平は目を輝かせていた。
「二人、にぎやかですね」
そんな二人を見ていると、桜が声をかけてくる。
「桜は、いつも通りに見えるけど」
「そうですか?私も楽しみで夜は寝れなかったくらいなんですよ」
「そっか」
「先輩はどうですか?」
「ん~……どうだと思う?」
「いじわるですね」
そんなこんなで、そろそろ降りる時間。
「そろそろ降りるよ、二人とも」
「はーい」とそろった返事が返ってきて、とうとう海へと到着。
「じゃあ、ちょっと着替えてくるわ」
洋平と桜は更衣室に向かう。
「あれ、○○さんは行かないんですか?」
「実は俺、泳げないんだよ……」
大きく見開かれた目が、驚きを隠しきれていないのを表している。
「そうだったんですね」
「意外だった?」
「運動できそうに見えたので……」
「いや、球技は出来るよ!泳げないだけで!」
俺は恥ずかしくなって、弁解の口調は早く、声は大きくなる。
「……なあ、先に潮風浴びに行かない?」
「行きたいです!」
まだ着替えている二人を待たず、俺達は二人でコンクリートの岸辺まで行ってみることにした。
「海、なんかワクワクしますね……!水族館とは違う感じです」
ふわりと風が吹いて、
潮の匂いが鼻孔をくすぐる。
海の匂い。
自然の匂い。
「わぁ……広い……!」
目を潤ませて、咲月は広い海を眺めていた。
「私、昔はずっとバスケに熱中してたんです。だから、海も、水族館も行ったこと無かったんです」
ここら一帯の空気をすべて吸い上げようかというほどに、咲月は深く深く息を吸った。
「なんか、涙出てきます……」
咲月の頬には、一筋の涙が伝っていた。
「それはよか……」
「あー!○○が咲月ちゃん泣かせてる!」
そんなムードも何も知ったことではない、バカに大きな声が聞こえてきた。
「違うって!泣かせてないって!咲月からも言ってくれよ」
咲月は小指でそっと涙を拭うと、
「○○さんに、泣かされちゃいました」
いたずらに笑ってそう言った。
「楽しそうですね~」
「だね」
俺達は、岸辺から海で遊ぶ二人を眺めていた。
「多分、そろそろ二人がお腹空いたって帰ってくるくらいの時間だ」
「わかるんですか」
「洋平が言いそうなことは大体わかるよ」
「付き合い長いんですね」
「うん。めっちゃ長い」
洋平がこちらに来るまで、後十分ほど。
咲月はじっと、何かを言いたげに海を見つめていた。
「気になる?」
「え、何がですか?」
「海」
俺のその言葉に、咲月はちょっと悩んで。
「気になります」
「じゃあ、行ってみよう。サンダル、脱いで」
咲月は言われるがままにサンダルを脱ぐ。
「水には濡れないようにするから……さっ!」
俺は、咲月の背中と膝の裏に腕を通して咲月を抱え上げる。
「え、ちょっと、○○さん!周りの人すごい見てますよ!」
「でも、車いすに乗ったままじゃ砂浜は進みづらいでしょ」
「そうですけど……お、お姫様抱っこは……」
「安心して。俺もめっちゃ恥ずかしい」
二人して顔を赤くしながら波打ち際まで歩いて行く。
寄せ返す波が俺の足に当たる。
結構冷たい。
海藻も足に絡んできた。
「触ってみる?」
こくこくと咲月がうなずく。
俺は膝を折って、咲月が水に触れやすい高さに合わせる。
咲月が恐る恐る海に触れようとした時。
引いた波が勢いを増してこちらに襲い掛かる。
海水が跳ねて、俺達にかかる。
「うわっ!」
「わあっ!」
お互い、顔を見合わせる。
「ぷっ……」
「ふっ……」
「あっはは!」
「かかったじゃないですか!」
互いの濡れた姿に、思わず笑いがこみあげてきた。
「しょっぱかったです」
「うん。海だからね」
満足した俺達は再び岸辺に腰掛ける。
「あの向こうに、この前見た世界が広がってるんですね」
『世界』というのは、おそらく水族館のこと。
「そうだね。ずっと、ずっと向こうだと思うけどね」
「世界って、広いですね」
「だね」
時計を見る。
そろそろだ。
「○○~腹減った~!」
砂浜を走って、洋平がこっちに向かってくる。
「ほらね」
「ビックリです」
「海の家でなんか買ってくるか」
「私、焼きそば食べたいです」
洋平の後ろからついてきた桜からのリクエスト。
「咲月は?」
「かき氷がいいです!」
「俺は~」
「お前はついてこい。甘えんな」
「厳し!」
二人に荷物番を任せて、俺と洋平は昼食の買い出しに向かった。
まだ、砂の感触が手に残っている。
じゃりっとしてて、それでいて水にぬれてさらさらもしている。
それに、やっぱりしょっぱかった。
海は、しょっぱかった。
「ねえ、咲月ちゃん」
パーカーを上に羽織って、桜さんがさっきまで○○さんが使っていた椅子に座る。
「咲月ちゃんって、○○先輩のこと好きなの?」
「…………え!?」
カッと顔が熱くなる。
「あ、え、えと……」
あまりに突然のことで、答えがしどろもどろになってしまう。
「私はね、○○先輩のことが好き」
そんな私とは違って、桜さんはさらりとそんなことを言って退けた。
「私は、○○先輩と付き合って、結婚して。三十年後も幸せって言わせる自信があるんだ」
そんな先のことまで。
私は、考えたこと無い。
「咲月ちゃんは、○○先輩のこと好き?自分と付き合って、あの人が幸せになれると思う?」
「私は……」
私は、そんなこと考えたこと無かった。
○○さんのこと、私はどう思ってるのかな。
答えは多分決まってる。
好き。
なんだと、思う。
だけど、桜さんみたいな自信なんて無い。
私が......私なんかが○○さんのことを好きって言ってもいいのかな。
風に吹かれて、ピンクのイルカが寂しげに揺れた。
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