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今日も夜は、私たちを置いていく【前】

まんまるな月が夜の街を静かに見守り、まだ灯りが煌々と照らしている駅前は人々の喧騒に包まれる。


「次の電車乗れるかなぁ」


私は、そう速くもない足を回して、駅までの道のりを走る。


「はぁ……はぁ……。もうちょっと……」


駅まではもう少し、しかし、私の足は路地の入口で止まる。

こっちの方が近道かな……


「えぇい!行っちゃえ!」

学校で口酸っぱく言われていた。

路地の方は危険だって。

ちゃんとその忠告は聞いておくべきだった。


「あれぇ、お嬢ちゃん、こんなとこにきちゃダメじゃないかぁ」
「ちょ……!離してください……!」


お酒の匂い、たばこの匂い。

私は、小太りのおじさんに腕を掴まれた。

力強く掴まれた腕は、振りほどこうにも振りほどけない。


「ここじゃなんだしさ。……ね?」


ごつごつとした固い手が太ももに触れて、全身の毛が逆立つ。


「はなして……!」
「声、ちっちゃくて聞こえないナぁ」


怖い。

痛い。

じわっと目に涙が滲む。

嫌……

誰か……!


「ネ……?イコっか……?」

絡みつく様にそう言う男。


「いやです……」

私の声は震えて、恐怖で足にも力が入らない。

か細く、消え行ってしまいそうな私の声では、大通りを行き交う人まで届くはずもない。

私はただ、誰か助けに来てくれることを祈ることしかできない。


「嫌なら抵抗しないと~。でも、君はそんな素振り……」
「あの…..」

「ん?なんだい?」

男の手が緩む。

私たちの視線の先には、私と同じ高校の制服を着た男の子。

背が高く、細身で、長い髪で前髪が隠れそうな男の子。


「その子、嫌がってると思うんですけど……」
「そう見えちゃったかな」

「そうですね。そう見えました……」
「イヤだなぁ」


男の手は依然私の腕を強く掴んだまま。

男の子は小さくため息を吐くと、私たちの方にゆっくりと近づいてくる。


「なんだい?もしかして、君も混ざりたい……」
「離してくださいって、言ってるんです」


月明かりの下、彼の目が真っ赤に輝く。

息を漏らすのと同時に見えた歯は八重歯というには尖りすぎていて、どちらも、およそ人間のものとは思えない。

狼男……いや、あの特徴は、吸血鬼……?


「ば、バケ……!むぐっ……!」


彼は、男の口元を右手で掴み、左手で私の腕を掴んでいた腕を払った。


「ここで見たことは全部、酔っぱらっていたせいで見た夢だ。わかったらとっとと帰れ」


男が激しく頷くと、彼はその手を離した。

男は、一目散に大通りの方へと駆けていき、私たちは二人、取り残される。


「あ、あなたは……?」
「えっと……名前は、勘弁。君も全部忘れて、早く……っ!」


彼は話す途中でふらついたかと思うと、支えようと足を踏み出した私よりも早く倒れ込んでしまった。

私は慌てて、倒れ込んだ彼のことを抱きかかえる。


「大丈夫ですか!?」
「……たりない…………」

「たりない?」
「血が……足りない……」

血。

先ほどの見せた牙。

そして、赤い目。

吸血鬼……


「クソ……もうちょっとだけもつ予定だったんだけど……」
「ち、血を……飲めばいいの……?」

「ああ。血を飲めればいい」
「誰のでもいいの?」

「誰でもいい。さっきのクソジジイを呼び戻したっていい」
「それは……わたしのでもいいの……?」


腕の中の彼は、驚いたように目を見開いた。

真っ赤な瞳が、月に反射して輝く。


「本気……?多分、君は貧血で倒れるけど……」
「……そんな私を、見捨てる様な”人”じゃないって信じてるから」

「君、すごいな……」
「あのままだったら私、多分無事じゃなかったから……。一回貧血で倒れるくらい……どこ、噛むのがいいの?」

「噛み跡、見えない方がいいと思うから……」
「なら、肩とか?休日、外出ないし。制服なら隠れるし」

「君がいいなら……」


彼の同意を得て、私は半袖のシャツの袖を捲る。

彼のことを起こすと、露出した肩に顔を近づける。


「ちょっと、痛むよ……」

そう言うと、彼は鋭い牙を私の肩に突き立てる。

注射器を深くまで刺されたような痛み。

皮膚を突き破って、肉まで突き刺さっていく様な感覚。


「いたっ……!ううん、大丈夫……!」


正直涙が出そうなくらいの痛みだったが、痛がった私を心配して口を離そうとした彼を制止するために強がって見せた。


「ごぇん……」

私の肩に噛みついたまま、聞き取りづらい謝罪の言葉を口にする。

そして、次の瞬間、採血なんかとは比べ物にならないくらい、血が体内から抜けていく感覚が襲う。

その感覚と同時に喉を鳴らす彼を見ていると、本当に目の前の人は人間ではなく吸血鬼なんだと思わされる。


「っはぁ……!ありがとう、だいぶよくなった……って、吸いすぎたか……」


ぐわんと世界がゆがんで、気持ち悪さと倦怠感に苛まれる。


「あ、れ……?」
「安心して」

座っていたはずの私は、体を起こしていることすら敵わず、地面に倒れ込んでしまう。

そんな私を、彼がそっと抱きかかえ、立ちあがる。


「ちゃんと、介抱はするから……」

赤い瞳に見つめられ、彼のその言葉を聞きながら、私の意識は水底に沈んでいった。




・・・




目を覚まさない彼女を抱えて、僕は周囲を見渡す。

路地裏には誰もいない。

それを確認して、息を吐く。

そして、闇に隠れるように、彼女を抱えたまま駆け出す。

吸血鬼だから。

まだ、口の周りに血が付いているから。

とかが理由じゃない。

単に、僕みたいな男が彼女のような女子高生を、それも気絶しているような状態の子を抱えたままなんて、普通に考えて大問題に発展する。

もしそれが学校にバレたら……

その時は、僕の居場所は真の意味でなくなってしまう。

自分が、異端であるという自覚。

自分が、人間ではないという自覚。

全部全部わかってる。

僕は誰にも見つからず、古いアパートの前にたどり着く。

ポケットに入った鍵で玄関を開けて、彼女をベッドに寝かせる。

こんな男のベッドでごめんね。

心の中で謝って、彼女が体調を崩さないように掛け布団を被せる。

僕は軽くシャワーを浴びて、冷蔵庫の中に入ったトマトジュースのパックにストローを突き立てて口に咥える。

流石にこの子の血を、僕が満足するまで吸ってしまったら命が危ないから、足りていなかった分はトマトジュースで補う。

なんとなく、鉄分を取れるからなのかわからないが、気休めくらいにはなる。

空になったパックをゴミ箱に捨て、シャワーを浴びて。

クッションを枕にして、床に寝ころぶ。

こうして夜に眠るのは吸血鬼としてどうなんだろうか。

余計なことを考えながら、僕は眠りについた。




・・・




朝の煩わしい日差しと、体の痛みで目が覚めた。

時刻は朝の六時。

久しぶりの目覚めの感覚。

まだ、ベッドに寝かせた彼女は目を覚ましていないようで、僕はそれを確認してから朝のシャワーを浴びる。

冷たい水を頭からかぶると、不思議と意識が研ぎ澄まされていく感覚がする。


「タオル……タオル……」

棚からタオルを取り出して、髪を拭く。

しばらく切っていない髪の毛は、タオルだけでは渇くはずもなく、未だ水滴が滴る。


「ん……」

空気を循環させようと、窓を開けに部屋に戻った時、眠っていた彼女が体を起こした。


「ここは……」
「僕の家。とりあえず、飲んで」

僕は彼女の質問に答えてから、ミネラルウォーターをコップに注いで彼女に渡す。


「いたっ……」


彼女が袖を捲って肩の傷を確認する。


「昨日の……夢じゃなかったんですね……」
「うん、夢じゃないよ。僕が吸血鬼っていうのも、嘘じゃない」

「びっくり……」
「そう言う割に、冷静に見えるね」

「吸血鬼!?……って言うよりも、ホントにいるんだって言う方が強いから。それに、そんなことよりも同じ学校にって言う方がびっくりだし」

ビックリしたのは、僕の方だった。

僕の正体を知って、驚かないことに驚いた。


「肝座ってるね」
「何年生?」

「三年、だけど」
「あ、ため口ですみませんでした」

「いや、いいよ。気にしない」
「よかった。あ、そうだ……」

彼女が何か言おうとした時、部屋に腹の虫が鳴く音が響いた。

僕ではない。

そうなると、その音の主は一人。


「ごめんなさい……。夜から何も食べてなくて……」
「僕も、気遣いができてなかった。食べもの……ないしな……。とりあえず、駅まで送るよ」

「でも、晴れてる」

窓の外には朝日が輝き、昨日の夜に少し雨が降ったのであろう水滴がその輝きを反射する。


「日光は比較的大丈夫。夏はきついけど」
「そうなんだ。じゃあ、お言葉に甘えよっかな」

「ちょっと待ってて」

僕は薄手のパーカーを羽織って陽の下に足を踏み出した。


「あっつ……」
「そりゃ、長袖は暑いと思ったよ」

「言ったでしょ。夏の日差しは苦手なんだ」
「なら、わざわざ送ってくれなくてもよかったのに」

「貧血で倒れられても困るから。てか、駅まででいい?」
「ううん。私の家、ここからそんなに遠くないから」

「そうなんだ」

歩いて大体二十分くらい。

日差しにうんざりしていると、【中西】と表札の出た一軒家の前で彼女の足が止まった。


「ここ」
「へぇ。じゃあ」

「うん」

ドライに別れて、今歩いたばっかりの道を歩く。

一人で歩く道は、さっきよりも長く感じられ、首筋を伝う汗が一層鬱陶しい。

でもまあ、名前も知らない彼女とまた出会う……なんてことはないだろう。

帰ったら、トマトジュースでも飲むか。




・・・




週が明けて、貧血もだいぶ良くなった。

彼は同じ学校だって言ってたし、会うこともあるのだろうかと思ったりもしていたけれど、今日一日はすれ違うことも無かった。


「アルノ~。帰ろ~」
「ちょっと待ってて」

同じクラスの美空に声を掛けられてハッとした私は、慌てて課題として配られたプリントを鞄に詰め込む。

「今日はなんか元気だったね~」
「週末、よく眠れたんだよね。まあ、寝たというよりかは気絶してた感じだったけど……」

「そうなんだ」


最近、中々眠れない日々に悩まされてた。

理由も定かでないし、どうすればいいかもわからない。

毎日、朝日が昇るまで映画を見たり、本を読んだり。

空が白んでいくのを見るたび、夜に置いて行かれたような気分になっていた。

しかし、彼に血を吸われて、その疲れのせいなのかどうかは定かではないが、昨日一昨日とよく眠れる日々が続いた。


「ねえねえ、アルノ知ってる?」
「なにを?」

「三年生に、イケメンの先輩がいるって話」
「へぇ」

美空はこの手の話題が好きだ。

カッコいい男子、かわいい女子。

この学校の有名人の話は大体美空から聞いて知識をつける。


「私、今日のお昼その人に助けられちゃって~!『机、角危ないから……』だって~!キャー!」
「それはそれはって、どんな状況なのよ」


美空の話す状況に謎は残るが、昼休みに図書室に行っていたから多分その先輩に助けられたって言うのはその時なんだろう。


「どんな人か気になる?」
「どんな人?」

「えっとね~。髪は長めで、目は鋭くて~」
「ふんふん」

「肌すっごい白くて、背も高くて~。あ!ちらっと見えた八重歯がセクシーだったな~」
「それ、なんて言う先輩!?」


自分でも驚くほど、声が大きくなってしまった。

美空はもちろん、私以上に驚いている。

でも、そうなるのも当然のこと。

特徴があまりにもあの夜に私を助けてくれた彼と同じだったから。


「びっくりした~。えっと、確か黒崎先輩だったっけ」
「その先輩、図書室に行けば会えるかな?」

「やけに積極的だね。何かあった?」
「まあ、いろいろ……」

「ふ~ん……。あの先輩、よく図書室にいるらしいよ。行くなら私も着いてっちゃお~」

美空と並んで、別棟にある図書室を覗きに行ってみる。

そっと図書室に入って、中を見渡すと、


「あ……」

黒い髪と、真っ白な肌。

見覚えのある背格好の男子が窓から遠い席に座って本を読んでいた。


「ね、カッコいいでしょ?話しかけに行っちゃおっか」
「でも、読書の邪魔しちゃ悪いし……」

彼が本当にこの学校にいるというのも確認したし、もう帰ってもいいかな。

なんて思っていると、同じ姿勢をずっとしていたせいか、本に栞を挟んで身体を伸ばした黒崎先輩と目が合った。


「あ……」
「ど、ドモデス……」

「こっち気づいたみたい……!カッコいい~……!」


こっちの気なんて知らず、美空は私の隣で静かにはしゃいでいる。

そんな私たちを見てか、気まずそうに視線を逸らした黒崎先輩はちょっと考えた後、私たちの方に向けて手招きをした。


「ねえ、もしかして呼ばれてる……!?」
「うん……そうだと思う……」

「行こ行こ!」


ホント、こっちの気も知らないで……

美空はうっきうきで、私は彼の正体がバレたりしないか冷や冷やしながら彼の向かいの席に座る。


「あの……!お昼ぶりですね……!」
「お昼……。あぁ、足滑らせて机に頭ぶつけそうになってた子」

「わ、忘れてください……」


美空が恥ずかしそうに俯くのを見て、黒崎先輩は笑っている。

優しい人だけど、結構意地が悪いのかもしれない。


「ごめんごめん。名前、聞いてもいいかな?」
「は、はい……!一ノ瀬美空です……!」

「美空ね。君は?」
「……中西アルノです」

「美空に、アルノ。覚えとくよ」


なんか、あの時よりもだいぶ明るい。

吸血鬼モードじゃないから?

それとも、カモフラージュのため?


「あの、黒崎先輩……!」
「なに?」

「黒崎先輩って……」


そこまで言いかけて、美空のスマホが震える。


「すみません、ちょっとメッセージが……あ!今日はママにおつかいお願いされてたの忘れてた……!」
「大丈夫?」

「すみません……。私、お先に失礼します。またお話ししましょうね!」
「うん。また」


大慌てで図書室を出た美空を見送って、黒崎先輩がため息を一つ吐く。


「はぁ……。なに、あの子。太陽みたい」
「わかります……。美空は元気で、眩しいんです……」

「……ため口でいいのに。学校で会うのは、初めてだね」
「そう、かも。黒崎先輩って言うんですね」

「黒崎○○。名乗らせっぱなしだったから、あの子にも教えていいよ」
「わかった。今日は、大丈夫なの?」

「…………?ああ、しばらくは大丈夫かな。昨日の夜も一人、酔っ払いから大量に血吸ってきた」

自慢げに言う彼だけど、その酔っ払いの人は大丈夫だったのだろうか。

多分、命に別状があるほどは吸わないだろうけど、その人はしばらく寝込むだろうな……


「それと、学校だと明るいんだね」
「人の輪に溶け込むために、多少明るく振る舞ってるよ」

「意外かも」
「人の営みっていうのに、憧れがあるんだ」


その概念は、純粋な人間の私には無い概念だった。

彼が吸血鬼だからこそのものだろう。


「でも、酔っ払いの血は不味いんだ。アルコールの味がする」
「やっぱり、人によって血の味とかあるんだね」

「あるよ。若い子は美味しい」
「それって……」

「うん。君の血は美味しかった。死にそうだったのも相まって」


そう言われても、こちらとしてはいまいちピンとは来ない。

ただ、割と不摂生を繰り返している私の血が美味しかったのは意外だ。


「君も、遅くならないうちに早く帰りなよ。この間みたいなことがあるかもしれないから」
「黒崎先輩が送っていってくれてもいいんですよ?」

「そうきたか……」

ちょっと、先輩を揶揄ってみるつもりで言ってみたのだが、先輩は読みかけの本をバッグの中にしまって、席から立ち上がった。


「じゃあ、帰ろう」
「冗談のつもりだったんですけど……」

「家の方向いっしょだし、そんな手間じゃないよ」


これは身から出た錆。

先輩を揶揄ってやろうなんて思ってしまった自分の負けだ。


「わかりました。お世話になります」
「堅いって。傍から見れば、ただの先輩後輩なんだから」


先輩はそう言っていたが、学校を出るまでに多くの生徒とすれ違うことでこの人と一緒に帰ることの問題点が浮き彫りになった。


「く、黒崎先輩……!今度のお休みお暇ですか……!」
「黒崎先輩!これ、よかったら読んでください……!」
「黒崎くん。夏休みって空いてるかな?……」


学年問わず、黒崎先輩は女子生徒にめちゃめちゃ声を掛けられる。

ラブレターだったり、遊びの誘いだったり、ただ声を掛けてきては黒崎先輩を見るなり駆け出してしまう子だったり。

その様相は多種多様だったが、私の方に明確な敵意を向けていたのは共通していた。


「モテるんですね、黒崎先輩」
「どうなんだろ……」

無自覚かよこの人。

他の男子が見たら怒るだろうなぁ。


「でも、全部断ってましたね」
「バレるリスクがあるからね」

「私のこと助けるときは結構ちゃんと正体晒してましたよね」
「あれはまあ……不可抗力というか、仕方なかったというか……。それに、君なら何となく大丈夫かなって」

「…………半分はウソですね」
「……なんでわかった?正直に言うと、特に考えもなく動いたよ。人を助けるためだから」

「それは本当っぽいですね」
「へへ、見直したか」

自慢げな黒崎先輩。

この人はとことん善に寄った人なんだろう。

電車に揺られて、道を歩いて、先輩と共に時間を過ごす中で、先輩が醸し出す空気がそう感じさせる。


「今日も、送ってもらっちゃいました」
「気にしなくていいって。家、すぐそこだし。じゃあ、ちゃんと寝るんだぞ~」

そう言って、先輩は自分の家の方へと歩いて行った。

ちゃんと寝るんだぞ。


「その言いつけ、守れるかなぁ……」

一抹の不安を抱えながら、私は玄関をくぐり、階段を昇った。




・・・




ほんの少し、欠けた月が空に輝く。

時刻は……何時だろう。

真っ暗な部屋の唯一の光源。

自室の小さなテレビから流れている映画。

これを見るのは何度目だったっけ。

今日もまた、眠れない日がやってきた。

目を閉じる、眠れない。

眠れない理由を考える、目が冴える、眠れない。

ベッドの脇に置かれた睡眠導入剤は、口にしなくなってからどれだけ経っただろう。

今日こそ寝てやるんだと手には取れど、襲い来る悪夢のことを想像してそれを遠ざけてしまう毎日。

あの時は、寝たというよりも気絶に近かったな……

あの人は吸血鬼だし、今行っても起きてるかな。

さすがに、迷惑だよね。

それでも私は、ちょっとでも体を疲れさせようと思い、静かに外に出る。

夏の夜は、私が想像しているよりも蒸していて、歩き始めてそう時間は立っていないのに汗が滲むような感覚がした。

月と星が輝く夜の空。

駅前からは離れた住宅街でも、街灯のせいで星が見えるのはギリギリだ。

当てもなく、私は夜風のようにさまよう。

ふと過る、このまま……


「いや、だめだ……」


長い長い夜。

夜だけが、私に寄り添ってくれる。

でも、今日も君は、私を置いてどこかに行ってしまうんだ。

空に浮かぶ星は、私の気持ちなんて知らないでキラキラと瞬く。

私を、置いていかないでよ。


「あれ、何してんの」


声がして振り向くと、真っ黒なパーカーを羽織って、トマトジュースを口にしている黒崎先輩がいた。


「こんな時間に出歩いたら危ないよ。早く帰った方が……って、何で泣いてんの!?」


先輩の姿を見て、なぜか私の頬には涙が伝う。

それを見た先輩は、わかりやすく慌てていた。


「僕に出くわしちまったからって、泣かなくたっていいじゃんかよ……」
「違うんです……」

「…………なんか、あった?」


何があったって訳じゃない。

誰かと喧嘩したとか、失恋したとか、そんな派手なものは何もない。

ただ、眠れないだけ。


「なにも……」
「何もない、は無いでしょ。……うちくる?とか、ナンパしてるみたいで言いたくなかったけど」


先輩の言葉に私は自然と首を縦に動かしていた。


「おっけー」

先輩は、ゆるく了承した。

そして、家までの道のりを、先輩は黙って歩いていた。

きっと、困らせてしまった。

迷惑をかけてしまった。

償いはしないと。


「ベッドでも椅子でもいいから、座ってて」

部屋に入り、先輩に促されて一つぽつんとあった椅子に腰を下ろした。

しばらくして戻ってきた先輩の手には、コップが二つ握られていた。


「ミルク、ホットとアイスどっちがいい?」
「……ホットで」

先輩に渡された、まだ湯気の立つコップ。

一口飲み込むと、ほっとするような温かさに包まれる。


「どう、少し落ち着いた?」
「ごめんなさい……」

「謝んなくていいよ。僕は夜行性だし。それに、人肌恋しい夜なんて、だれでもあるでしょ」
「…………私、眠れないんです」

「吸血鬼ってこと?」
「ち、違います……!」


真面目な顔で、唐突にボケては自分で笑う。

夜行性だから、夜になると元気なんだ、やっぱ。


「睡眠障害……なんです。お医者さんから貰った薬もあるんですけど、悪夢を見るのが怖くて、遠ざけちゃってて……」
「それで、結局普通には寝られなくてのループってことね」

「はい……。本当は、黒崎先輩に迷惑かけるつもりなんてなかったんですけど……」
「気にすることなんてないって。夜行性だって言ってるでしょ」

「ごめんなさい……」

次第に体はエアコンの風で冷えて、指も震えてくる。


「あ、あの……!私の血、吸ってもらってもいいですか」
「…………!それは本気?」

「あの時は、眠れたんです!だから、今回も……。それに、先輩も血を吸うのはメリットが……」
「僕はありがたいけど、噛み跡も残るし、痛いし、僕はあんまりオススメしないけどなぁ」

「それでも……。それでもお願いしたいんです……」


夜は、私を置いていく。

夜は、真の意味で寄り添ってはくれない。

結局、いつか月は沈んで、朝が来る。


「わかった。血を吸う量は調整するし、頻度も週に一回」
「他の日は……」

「話し相手……遊び相手?くらいにはなるよ。夜、目が冴える割には暇なんだよ」
「そう……ですね……」

「だから、いつでも遊びにおいでよ。あ、変なことはしないから、安心して」
「そこは信用してますよ」


黒崎先輩の雰囲気に当てられてか、心がちょっとだけ軽くなった気がする。

不思議な人だ。


「そうだ、俺のお気に入りポイントに連れてって上げるよ。目、瞑って」
「わ、わかりました……」


私は先輩に言われた通り、固く目を瞑る。

すると、体が宙に浮く感覚。

これ、抱えられてる……?


「いいって言うまで目開けちゃダメだよ」


肌に触れる空気がぬるくなって、徐々に風も強くなってきた気がする。

今、私は何をされているのだろう。


「目、開けていいよ」


意外にもすぐに許可は下りて、私は恐る恐る目を開ける。

見渡すと地面はなく、先輩は私を抱えたまま宙に浮いていた。


「こ、これ……!落ちたりしませんよね!?」
「しないしない。昼は血吸わないと無理だけど、夜なら飛べるんだよね。長々は無理だけど」

「でも……」

意外にも、街はまだ起きていて、ポツポツと見える民家から漏れた光や街灯が地上を星空の様に仕立て上げている。


「きれい……」
「どう?眠れない夜も、ちょっとは悪くないんじゃない?」

「はい……。ちょっとだけ……」
「じゃあ、急降下するから耐えてね」

「え」

何を言ったかと思えば、先輩は自由落下をし始める。

まるでジェットコースターに乗っているかのように重力が掛かり、私は恐怖で目を閉じた。


「ふわっと」

自由落下を楽しんでいた様子の先輩は、着地の時だけ不思議な力で重力を無視して落下の衝撃を和らげた。


「楽しかった?」
「怖かったです……」

「次は慣れてるから平気だね」
「次からはもっとお手柔らかにお願いします……」


やっぱ、優しくない。

今日の日中に抱いた感想は訂正させていただく。


「そうだ。今日は血、貰っていい?」
「どうぞ」

先輩の部屋に戻って、私はまた肩を差し出す。


「失礼するね」

先輩の牙が突き刺さり、また痛みが走る。

体から血が抜けていく感覚。

倦怠感が襲い、力が入らなくなる。


「ごちそうさま。それと、おやすみ」


じんわり、視界がぼやけていく。

ああ、眠れる。

夢は、見ないといいな。

私は、夜を置いて旅に出る。




・・・




私が翌朝目を覚ました場所は、自分の部屋のベッドの上だった。

黒崎先輩が運んでくれたのだろう。

それにしても……


「体が軽い……」

よく、眠れた。

夜がどんな顔をして過ぎ去っていったのか、なにもわからないまま朝日と目を合わせた。

学校の準備をして、いつものように駅に向かう。

睡眠時間はおそらく四時間にも満たないのかもしれないけれど、気絶ではなく睡眠をとれたことが、ほんの少しの余裕に繋がっているのだろうか。

まだ痛む肩にそっと手を添える。


「まだ痛む?」
「ひゃあ!」

ホームで電車を待つ時間。

一人で思考を巡らせていると、背後から肩を叩かれるという脅かしに会って情けない声が口から零れてしまう。


「驚かせるつもりじゃなかったんだけど……」
「じゃあ、後ろから急に声かけないでくださいよ」

「いや、さっき呼んだんだよ?」
「全然気が付かなかった……」

「昨晩はよく眠れましたか?」
「おかげさまで、快眠でした」

「それはよかった」

先輩はそのまま、私の隣に立ったまま。

なにやら鼻歌交じりでスマホをいじっている。


「あの、もしかしてこのまま一緒に学校行く感じですかね……」
「だって、行く場所一緒なのに別々で行動する意味なくない?」


とぼけているのか、ふざけているのか、本気で言っているのか。

つかみどころのない人故、その判断が非常に難しい。

ただ、ここは先輩を信じて本気で言っているに一票投じよう。

電車で並んで吊革につかまっていても特に話すこと無いし、並んで歩いていてもお互い前を向いているだけ。

それなのに、周りの女子からの視線は昨日の帰り同様鋭いものが多く、中には小声で「なんなのアイツ……」なんて言っているのも私の耳に届いている。

それなのに、先輩は全く聞こえていないかのように間抜けなあくびをしていた。


「じゃあ、私こっちなので」


先輩と別れてもなお、視線は痛い。

ちくしょう、あの人と一緒に登校なんてするんじゃなかった。

注目をヘタに浴びて、ひそひそと噂されるのも面倒だけど、なによりも


「ア・ル・ノー!」


美空は直接、とんでもない熱量を持って突撃してくるだろうから、それが面倒だった。


「今の、黒崎先輩だよね!?アルノいた~……って思ったら、隣に黒崎先輩いてびっくりだよ!どんな関係?急に仲良くない?」
「うぅ……こうなると思ったんだよ……。先輩とは最寄りの駅が一緒で、登校中に駅でたまたまあっただけ。それ以上でも、以下でもないから」

「付き合ってたりとかは……」
「な、ないない!そういうのじゃないから!」

覆わず声が大きくなってしまった私に、美空は何やらニヤニヤとしている。


「その慌てよう、本当かなぁ~?」
「本当だってば!」


変な誤解を持たれるのも嫌なので、強めに否定しておいたけど、どこまで信じてくれたのやら。


「今日も黒崎先輩、図書室にいるかな?」
「いるんじゃない?」

「じゃあ、一緒に会いに行こ!」
「なんで私まで……」

「え~?まんざらでもないくせに~」
「語弊があるんですけど!?」


美空の宣言通り、放課後になるなり美空は私の腕を掴んで、図書室まで強引に引っ張っていった。


「先輩、いるかな」


うきうきの、跳ねる様な声で図書室の扉を開けたけど、昨日いた席にも、他のところにも、先輩の姿は無かった。


「いない……」
「帰っちゃったかな」

「ざんねん……。じゃあ、私帰るね……」


肩を落とした美空は、どんよりとした空気をまとったまま帰っていった。

そんなに先輩に会いたかったのかな。

私も、そのまま帰ってもよかったけれど、何か小説でもと思って、本棚を物色することにした。

そのあとは、一人で映画でも見に行こうかな。

相変わらず、図書室はエアコンで冷えていて、一度入ってしまったら出るのに苦労しそう。

そんなこと、わかっていてもその魔力からは逃れられない。

それが悪魔の誘いであるとは気が付かないものである。


「今日は一人?」
「きゃ……!」

大きな声が出そうになって、私は慌てて口をふさぐ。

私に声を掛けてきたのはもちろん黒崎先輩。

今度は絶対、突然声かけてきた……!


「昨日一緒だった一ノ瀬さんは?」
「み、美空なら先帰っちゃいましたよ。先輩がいなかったから」

「あ~……じゃあ、悪いことしたかな」
「どこか行ってたんですか?」

「ちょっと職員室にね。大学の推薦の話で」
「推薦、もらえるんですね」

「そうなのよ。だから、私生活は気を付けないと」


先輩は、本棚から同じ作家さんの小説を三冊ほど取り出して、カウンターを通す。

私も一冊、運命の出会いを探していたのだが、どうにも背後に先輩の気配を感じ続けていた。


「あの、先輩はもう選び終わったんじゃないんですか?」
「選んだけど」

「じゃあなんで、まだ私の後ろに立ってるんですか?」
「なんでって……置いてかないでしょ」


ああ、この人はもう、登下校を一緒にするのが当たり前だと思ってるんだ。


「私、この後映画見に行こうと思ってるんです」
「いいね、映画。どんなの見に行くの」

「最近世間で話題になってるホラー映画にしようかと……」
「ホラーかぁ……」


あれ……?

この人、もしかして吸血鬼のくせにホラー映画苦手?


「先輩、もしかしてホラー映画苦手なんですか?」
「そ、そんなわけないだろ……!?」

「ですよね~。じゃあ、一緒に見に行きます?」
「え……」

「だって、怖くないんですもんね」

自分でもいじわるなことをしているという自覚はあるけれど、その一方で先輩のことを揶揄うことに楽しさを覚えてしまっている自分がいるというのも否めない。


「あ、あぁいいよ。行ったろうじゃん!」
「じゃあ、行きましょう」

私は本を選ぶことなんか忘れて、映画館に向けて意気揚々と歩き始めた。

先輩はまあ……しきりに深呼吸をしていた。

映画館の私の定位置は決まっている。

一番後ろの、右端。

今日は二席。

ポップコーンも、飲み物も持たずに体一つで映画に向き合う。


「はぁ……ついてくなんて言わなきゃよかったかなぁ……」


先輩のそんなつぶやきは聞こえないふりをして、いざホラーの世界へ。

ただ、私もホラー映画をよく見るっていうだけで、ホラー映画が怖くないなんてことはない。

ちゃんとビックリするシーンでは声が出ちゃうし、目を逸らしてしまいたくもなる。

普段の私とは対照的に、黒崎先輩は終始無言だった。

無言ではあったけど、顔を背けたり、体が跳ねたり、先輩の反応が気になってしまって、映画に集中しきれなかったというのが本音だ。

ただ、そんな先輩も映画の終盤では驚き疲れてしまったのか、げんなりとしてしまい、反応が薄くなってしまったのは残念だ。

「はぁ……疲れた……」


映画館を出て、一番最初に先輩が発したのは大きなため息だった。


「えー、先輩、もしかして怖かったんですかー?」
「……怖かった。実はホラー苦手なんだよ……」

「実は、気づいてたんですよ。先輩、ホラー苦手なんだろうなって」
「だからあんな煽るようなこと……」

「でも、びっくりしてる先輩、ちょっとかわいかったです」
「バカにしてるな~。でも、普段自分から見ないからこそのおもしろさはあったかな」

街灯に照らされる先輩の顔は意外にも晴れやかで、そんな顔で面白かったと言ってもらえて、私の好きを共有できた気がして、なんだか嬉しかった。


「今日も、話し相手になってもらえますか?」
「もちろん」

「一緒に、映画見て貰えますか?」
「またホラー?」

「それは……その時に決めましょう」


夜が怖かった。

夜は、私を置いていくから。

先輩がいれば、私は夜に寄り添ってもらわなくても生きていけるのかも。

なんてね。

結局、先輩に寄り添ってもらっていることには変わりないのに。





………後編に続く


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