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「あのね 」

「あのね。」


そこまで。

そこまでしか、出せなかった。

私はずっと、自分の気持ちを言葉にして伝えることが苦手で。

喉元まで出かけた言葉を、飲み込んだ。


「アルノ、東京かぁ」
「うん……」

「俺も、こっちから応援してるから」
「ありがと……」

「アルノ、なんか……暗い?」

顔を覗き込まれて、夕焼けで染まった頬がばれそうになる。

私は慌てて、マフラーに顔を隠した。


「ううん、大丈夫」
「そっか。まあ、なにかあったら言ってよ。話聞くくらいしかできないからさ」

「ありがと」


結局、○○とはそれきり連絡を取っていない。

単に私の勇気が出なかったからなのか、はたまた別の要因からなのか。




==========




「曲が、できない……?」
「はい……」

雑踏と、喧騒。

それらを一切通さない事務所の一室。

外の世界から隔絶されているかのようなこの場所は、社長の眼前だからか、普段の倍以上息苦しく感じる。


「私は、その……話すことが、得意ではないので……。だから、気持ちを歌詞に乗せていたんですけど……。言葉が上手く、出てこなくて……」
「うーん、あるんだよねぇ、シンガーソングライターってさぁ」

「すみません……」
「歌うこと、嫌になったわけじゃないんでしょ?」

「あ……えっと……」
「まさか、それも嫌になったの」

「すみません……」
「はぁ……これからが売り時だってのによぉ……」


私に聞こえないように、小さな声で呟くが、生憎外の音が入ってこないこの場所では筒抜けだ。


「それで?どうしたいの」
「しばらく、おやすみを……」


部屋から出て、私はようやくちゃんとした呼吸ができるようになった気がして、大きく息を吸い込む。


「アルノちゃん」
「マネージャーさん……!」

「やっぱり、お休みするの?」
「はい……」

「そう……。地元、帰るのよね?」
「そうしようと、思います」

「ゆっくり休んできてね」
「ありがとうございます」

「お土産、待ってるからね」
「はい」

「よかった、笑ってくれた」
「あ……」

「ごめんね、足止めしちゃって。じゃあ、ゆっくり休んでね」



・・・



「なーなー、お前知ってる?」
「なにが?」

「最近人気のaruno、無期限活動休止だってよ」
「え…………」


宏樹ひろきの発した言葉を脳が処理しきれなかったのか、処理したうえで受け止めることができなかったのか、うどんを食べるために持っていた箸が右手からすり抜けて床に落ちる。


「あぁ、そっか。確か○○、arunoの曲好きだったもんな」
「あ、うん……。それ、いつ出た……?」

「そりゃ、ショックでかいよなぁ~。ちなみに、これ出たのつい五分前」


アルノが、無期限活動休止……?

アルノと離れ離れになった高校二年の冬。

そのころから、全く変わらないトークルーム。

こんなに重要なことも、教えてくれないのか。


「なんか、あったんかな」
「どう……だろう……」

「やべ、俺次の講義あるわ。んじゃ、また明日な」
「うん。じゃあ」

宏樹がカバンを背負って講義室に駆けていく。

床に落ちた箸を拾って、トレーの端に避けておいて、新しいのを一膳持ってくる。


「……ぬるい」

いつの間にか、うどんはすっかり冷めていた。




・・・




「何回見ても変わらない……」


家に帰って、自室のベッドに寝ころびながらネットニュースを開いては閉じてと繰り返していたけれど、何度見たって結果は変わらない。

アルノの無期限活動休止。

理由は特に明記されていない。

本人からのコメントもなく、事務所から今回のことを説明するつもりはないとだけ書かれている。


「アルノ……」

高校二年の冬。

三年ちょっと変化のないトークルーム。

【なにかあったの?】

メッセージボックスにその言葉を打ち込んで、送信ボタンを押す前に全部デリート。

こんなこと、今更聞けるほど、俺は厚かましくない。

……なんてのは言い訳だ。

正直なところ、返信が来なかった時が怖かったのだ。


「はぁ……情けね」

ため息が閉め切られれた部屋に充満したような気がして、換気もかねて部屋を出る。

水でも飲もうかと階段を降りると、リビングで母親が見ていたニュースの音が嫌でも耳に入ってくる。

『本日……シンガーソングライターの……』


「あら、○○。これ、アルノちゃんでしょ?」
「あぁ。そうだよ」

「活動休止って……何かあったの?○○、何も聞いてない?」
「聞いてない。連絡も……取ってないから」

「あら、そう?聞けたりしないの?」
「理由説明されてないんだし、そんなに詮索するのも迷惑だろ」

「そういわれるとそうね」

母さんにはそう言ったけど、気にならないわけがない。

あんなに歌うことが好きだったのに。

あんなに、楽しそうに歌っていたのに。


「でもなぁ……!」

メッセージを送る勇気なんてこれっぽっちもなくて、ベッドに寝転がっては立ち上がる、無意味な行動を何度も何度も繰り返した。

次第にそれをするのも疲れてしまい、仰向けに寝転がって動くのをやめた。


「アルノ……今どこで、何してんだろ……」


閉め切った部屋に呟きが生まれて、電気を消すと、月明かりにそれはかき消された。




・・・




「お母さん……」
「おかえり。車、停めてあるから」

「ありがとう」


電車を乗り継いで、久しぶりの地元。

高二の、あの日以来帰ってきていない地元。


「一人暮らし、大変だった?」
「大変だった」

「ご飯、ちゃんと食べてた?」
「ちゃんと……じゃ、ないかも」


駅の駐車場。

パステルカラーの軽自動車。

その助手席に乗り込むと、車が動き出す。


「懐かしいでしょう」
「うん」

窓の外を流れる田園風景も、赤や黄色に染まった楓の木も。

あぜ道を散歩する柴犬も、山も。

全部が懐かしくて、騒がしかった東京とは全然違う。

まるで、時間が止まったみたい。


「部屋、そのままにしてあるからね。あ、もちろん掃除もしてあるからね」
「ありがとう」

「そうだ、○○くんとは連絡とってるの?」
「………………」

「取ってないの?きっと、ニュース見て心配してると思うわよ?」
「……だよね」

やっぱり、何か送った方がいいのかな。

でも、今更何を送ればいいのか。

今更私が、何を送れるのか。


「……何があったのか、聞かない方がいい?」
「ううん」




==========




「アルノちゃん、新曲も好評ね!」
「ありがとうございます」

「お礼なんてしなくていいよ!私は、アルノちゃんのサポートしかできないから」
「それがいつも助かってるんです」


二週間前。

暦の上では秋なのに、残暑が東京を覆いつくしていた日。

うだる、残る暑さを切り切れない恋心と重ねて歌った歌をリリースした。

それがまあ、そこそこ評判がよく、サブスクでの調子もいいらしい。


「やっぱり、アルノちゃんの歌声って不思議よね~」
「そ、そうですかね……」

「絶対に特別よ!スッと心に染みこんでくるというか……そっと、寄り添ってくれるというか……。語彙力のない私じゃうまく表現できないんだけどさ、とにかく特別なの!」
「て、照れちゃいますぅ……」


マネージャーさんの熱量に押されて、私は思わず一歩引いてしまう。


「もう、次の曲も考え中なんだよね?」
「一応は、です。まだ何にもできてないですけど」

「うんうん。自分のペース守れててえらい!」
「なんでも褒めるじゃないですか……!」

「あー!アルノちゃん笑った~!もう、かわいいなぁ!」


頭を撫でられて、ちょっとだけ髪の毛が乱れる。

でも、全然嫌なんかじゃなくて、むしろこんなに褒めてくれる人が近くにいることは素直に嬉しかった。


「今日はこの後何か予定あるの?あ、アルノ?」
「言い直さないでくださいよ」

「ごめんごめん」
「この後は、作詞の続きをしようかと」

「おー!楽しみ!この後ご飯でも……って思ったけど、私そろそろ仕事戻らないと」
「そうなんですね……。がんばってください……!」

「うん!アルノちゃんも、がんばって!」

ガッツポーズをしたマネージャーさんに、私も両手をぐっと握って応える。

マネージャーさん、いつもお仕事大変だろうに、私の前では全然そんな素振り見せない。

自惚れて言うと、私のためにっていうのもあるのかな。

マネージャーさんも頑張ってるんだし、私も楽曲制作頑張らないと。

私は、家に帰ってからさっそく作詞に取り掛かり始めた。


「今の感情……。最近の感情……」


私は、高校時代の軽音楽部で作詞をしていたころから変わらない。

口下手で、不愛想で。

誰かと話すことも、自分の気持ちを伝えることも苦手だった。

だから、気持ちも、思いも、全部歌詞に乗せる。

そうすることで、私は私を表現してきたから。

だから、今回も。


「うーん……」


だけど、そううまくは行かない。

いつだって、こうして苦しみながら生み出してきた。

だけど、今回のはなんだか違う。

靄、霧。

そんなものじゃない、暗闇。


「気分転換でもしよっかな……」


一時間、椅子に座っていても一文字も出て来やしない。

キーワードも、単語も、何にも出てこない。

そんな私はギターを持って、軽く、適当に歌でも歌うことにした。


「どうしよっかな……」


背もたれに背を預けて、適当なコードを弾いて。

aikoさんの花火にでもしようかな。

なんて思って、言葉を出そうとした時だった。


「ぁ……うぁ……」


溺れたように息が苦しくなって、言葉が喉に詰まって出てこない。

代わりに、冷や汗も脂汗も滲んで、暑くもないのに汗でシャツが張り付く。


「ぁ……ぇ……?」

ピックを持つ手は震えて、弦を押さえていた指に力は入らなくて。

怖くなって、私はギターを床に置いた。


「な……で……」


震えが止まらない。


「たす……け……」


喘ぐような呼吸の隙間。

こぼれ出るようにして出てきたのは懇願だった。


「〇……」


苦しくて、強く瞑った瞼の裏。

思い浮かんだ人影は。


「はぁ……はぁ……」

何とか酸素を肺に流し込んで、荒れた呼吸を整える。

椅子から立ち上がり、滴り落ちた汗は履いている靴下で拭って防音室を出る。

私の体に、突然何が起こったのか。

正体不明の息苦しさのは、いったい何だったのか。

何もわからないまま私は眠りにつき、翌日の朝を迎えた。

翌朝私は、このことをマネージャーさんに伝えるかどうか悩みながら事務所へと向かった。

そして、

「アルノちゃん、今日なんだか元気ないね?」

顔を合わせるなり、マネージャーさんは私のおでこに手を当ててそう言った。


「熱……とかじゃないみたいだけど。何かあった?」
「あ……えっと……」

「話したくないことなら無理に話すこともないからさ、体調悪いとかだったら、無理せず休んでね?」
「そ、その……。がっかり、させてしまうかもしれないんですけど……」

「うん」
「声が、出なくなってしまって……」

「…………!」
「ご、ごめんなさい……」

こうして、私は歌を歌えなくなった。

音楽を、心が拒むようになってしまった。




==========




「ほんとに、部屋そのままだ……」


月明かりを遮るようにカーテンの閉められた部屋。

ベッドも、クローゼットも、本棚も、勉強机も。

全部、そのまま。

まだ、こんなに苦しんで音楽に向き合っていなかった、純粋に歌うことが楽しかったあの頃の懐かしい記憶とともに、目新しい空気清浄機が目に入る。


「喉、おかしくしないように……なのかな」

家族の気遣いにチクリと心が痛む。

東京ならともかく、ここはそこまで空気が汚れているわけではないだろうに。

もしかしたら、私が部屋を汚くするから……?


「…………絶対そうだ。ん」


ポケットに入れていたスマホが震え、メッセージの到着を知らせる。

メッセージの送り主はマネージャーさん。

【無事に帰れた?久しぶりの地元だし、何かあったら教えてね!】

あの人も、底抜けに優しい。

マネージャーが朝雲あさぐもさんじゃなかったら、私はもっと早く壊れてしまっていたかもしれない。

そのくらい、私は朝雲さんに支えられている。

【無事、帰れました】
【おー!よかったよかった!こっちでも何かあったら逐一報告するからね!】

【待ってます】
【じゃあさっそく~】

そうして送られてきた、ねこじゃらしで遊ぶネコの画像。

確か、朝雲さんの飼い猫のミカン。

【私は今、ミカンちゃんと遊んでま~す!】
【かわいいです…!】

【アルノちゃんは今何してるの?】
【久しぶりの自分の部屋でゴロゴロしてます】

【いいね~!その時間が一番楽しいまであるもんね!】
【改めて、休養のこと、ありがとうございます】

【もう、そんなかしこまらないの!!!じゃあ、電車移動で疲れてると思うから、ゆっくり休むんだよ~!おやすみ!】
【ありがとうございます!おやすみなさい】


朝雲さんへの感謝を胸に抱いて、スマホを枕元に置いた。



・・・



アルノの活動休止のニュースから一晩明けて、なおも俺の頭からはその衝撃が抜けきらない。

そろそろ出ないと一限に間に合わないのに、何も手につかない。


「早くしないと間に合わないわよ!」
「いまでる」

部屋のドアの向こうから飛んでくる母の声。

それを一蹴して、俺は車庫の隅に停めてあった自転車に乗り込み、家を出た。

年も越して、雪こそ積もってはいないが、冷え込む空気はさすがに冬。

四駅先にある、地元の私立大学。

定期券をケチって自転車での通学も、もうそろそろ二年になる。

坂の多い道は、上り坂こそきついけれど、いざ下りになってしまえば風を切って突き進む感覚が気持ちいい。

しかし、そんな気持ちよさも一過性。

一限の憂鬱さに比べれば些細なもの。

どうして必修が一限にあるのか。

三限じゃダメだったのか。

文句は尽きないが、これを取れなければ卒業が危ぶまれるのなら仕方がないと割り切らざるを得ない。

そんな、くだらないことを考えながら一駅目の直前にある坂を上っていた時だった。


「…………!」

道を歩く、一人の女性。

目の端に映ったその女性に、得も言われぬ既視感を感じて、俺は思わず自転車を止めて振り返った。

俺が見紛うはずもない。

だって、俺の心の中にはずっと。

ずっと、彼女がいたから。


「アルノ……?」

しかし、彼女がこんなところにいるはずがないのだ。

活動休止を発表した、シンガーソングライター。

そうはいっても、昨日の今日で彼女がこんなところに。


「○○……!」

俺の声に振り返った女の子。

短い髪をなびかせて、手袋も、マフラーもつけずに冬の朝を歩いていた女の子は、まぎれもなく俺がこの三年間、片時も忘れたことのなかった中西アルノその人だった。

俺はUターンをして、自転車を下らせ、彼女の前で停止する。


「なんで、アルノが……?」
「しばらく、こっちに帰ってきてるんだ」

「活動、休止したから……?」
「やっぱ、○○も知ってるよね……」


後ろめたそうに、視線をそらしたアルノ。

何度も何度も、ニュースを見て確認こそしていたけれど、本人の口から改めて聞かされるとそれらとは全く違う重みがのしかかってくる。


「…………」
「…………」

そして、俺たちの間には早々に沈黙が訪れる。

昔ならこの間も気まずくなかったのだが、さすがに事情と空いた年数を考えると多少の居心地の悪さというのも感じてしまう。


「え、えっとさ、こっちにはどんくらいいるの?」


詰まりながら、取り繕うように口から出た言葉は、俺自身の防衛のため。

この間に耐えられなかった、弱い俺のため。


「特に、決めてないよ。私がまた、音楽をやろうと思えたら帰るつもり」
「そ、そっか……」

「○○は、まだ音楽続けてる?」
「う、うん。大学で、軽音サークル入って、続けてる」

「何の楽器やってるの?」
「ギター」

「○○、ギター上手だったもんね」
「アルノに褒められてもな……」

「なんでよ」
「ギターは、たまたま兄貴のやつが家にあっただけだし」

話すたびに立ち上る白い息に目を奪われる。

それこそが、目の前にアルノが存在しているという何よりの証明だったから。


「ライブハウス、久々に行ってみようかな……」
「店長さん、心配してると思うよ。アルノのこと、応援してたから」

「だよね。今度行かなきゃ」
「そうしな」

「もちろん、〇〇も一緒に行ってくれるよね?」
「俺も……?」

「あ、そっか、ごめん。なんで私が活動休止したのか、言ってなかったよね」
「うん。聞いてない」

「怖いよ、目が。……でも、私のせいだもんね」

このままアルノの話を聞いていたら、一限は確実に間に合わない。

でも、一限の出席と、アルノの話を天秤にかけた時。

あるいは、かけるまでもなく、俺の選択は決まり切っていた。


「どこで、話そっか」
「どこでもいいよ」

「じゃあ……マック、行く?」
「駅前の?」

「そう」
「そしたら、後ろ乗りなよ」


アルノを自転車の後ろに乗せて、ペダルを強く踏み込む。

腹に回した手がきつく締まって、押し付けられた頭が背中を圧迫して。


「なんか、前もこんなのあったな」
「私がライブに遅れそうだった時ね。高校一年生の頃だったっけ」

「アルノの自転車がパンクしたんだよな、確か」
「あ、思い出した。私が道路に落ちてた釘踏んだんだ」


ラチェット音が朝の静かな空気に溶け込む。

息を吸い込む度、肺に突き刺さる冬暁。


「あのさ、○○は……さ……」
「こっから段差多いから、しゃべると舌噛むぞ」

「ごめん」


こうやって、謝らせてしまった自分がどうしようもなく情けなくて。

惨めで、大馬鹿で。

一層、ペダルを踏みこむ足に力を入れた。


「ごめん、乗せてくれてありがと」
「いいよ、別に。アルノ、重くなかったし。もっとちゃんと食べたほうがいいよ」

「じゃあ、セットにしようかな」


朝のマックはほとんど店内に人はおらず、どこに座ったって良かったのだが、意識してか無意識か、俺たちは端っこのテーブル席に陣を構えた。


「うーん……どこから話す?まず、○○の話から聞きたいけど、私は」
「俺は別に、普通だよ。アルノが東京行ってからすぐ、二曲目とかでもう世間から注目浴び始めてさ。アルノの曲は全部聞いてたし、今も通学中とかに聞いてる。アルノらしいなと思いながら」

「ありがと……」
「話し戻すと、高校ではそのまま吹部続けて、大学も地元の私立で。今は、さっきも話したように軽音サークル入って、あのライブハウスでもちょこちょこライブしてるよ」

「よかった。○○が、音楽続けててくれて。それと……羨ましい」
「なにが」

「一人でやる音楽って、寂しいんだよ……」


そう言って、アルノは目を伏せた。


「別に……!」

ひとりじゃない。

なんて、三年間丸々連絡も取っていなかった俺が言えたことではなく、泣く泣く言葉は飲み込んだ。


「てか、○○は授業とかじゃなかったの?」
「え、まあ、授業ではあったけど。いいよ、過ぎたことだし」

「ほんとに大丈夫……?」
「あと三回、欠席できるからな」

「じゃ、大丈夫か」
「で、ライブハウスの話なんだけど。今日の夜、行ってみない?」

「今日……か……」
「用事あった?」

「ううん。なんにもないよ。私がこっち帰ってきてるの、みんな知らないだろうし。ただ、心の準備がね……」
「大丈夫。俺も、いるから……」


俺の言葉を聞いて、アルノはちょっと驚いた顔をした後、何やら口元を押さえて笑い出した。


「な、なんで笑うんだよ……」
「だって、頼もしいと思ったらどんどん言葉が尻すぼみになるから……!」

「だ、だからって、笑う事ないだろ……。恥ずかしかったんだよ、こんなセリフ……」
「あはは!確かに、○○には似合わないね~!」

「くっそぅ……。でも、アルノの笑顔が見られてよかったよ」
「確かに、久しぶりにこんなに笑ったかも。ライブハウス、何時から開いてたっけ」

「午後の四時だけど、店長に挨拶とかするならその三十分前には着いていたいかな」
「そしたら、駅前十五時集合にしよ」

「了解。俺、そろそろ行くわ。さすがに二限も飛ぶのはアレだし」
「ちゃんと授業には出ないとダメだぞ、大学生」

「へいへい」

すっかり日も昇り、まさに澄青ちょうせい

透き通った空気が体に染みこんでくるようだった。


「じゃあ、またあとで」
「うん。またあとでね」

「またあとで」なんて言葉もすっかり懐かしいな。

そんな、あとでが存在する現実を噛みしめながら、俺は大学に向けて自転車を漕ぎ始めた。



・・・



約束の時間になって、駅前の噴水広場。

今の季節は動いていない、この町随一の観光名所。


「お待たせ~」
「時間ぴったし」

「計算どーり」
「ならいいけど……って、恰好それでいいん?」


長めの黒いコートと、学生の頃から変わらないマフラー。


「何が?」
「いや、仮にもアルノは有名人なわけで」

「え~、バレないバレない」
「いやいや、ダメでしょうが。ちょっと待ってろ」


アルノならこうなるのも想定できた。

だから、授業が終わってから飯も食わないで一度家に帰り、帽子とマスクを持ってきておいた。


「これと、これ。しときな」
「わざわざ持ってきたの?」

「感謝してほしいけど」
「ま、ありがたく使わせてもらいますよ」

俺のサイズの帽子とマスク。

アルノにはちょっとだけ大きくて、頭を揺らすたびに徐々にずれていく帽子は、子どもがお父さんのやつを勝手に使っているみたい。


「中入ったらとっていい?」
「人来るまでな」

「まあいいや」


駅前の路地。

そこの中の建物の、地下一階。

一見、入るのに勇気が必要そうなこの場所が俺たちの憩いの場。

鉄の扉を開いて奥に進むと、閉め切られた店内にも関わらず煙草を加えた、無精ひげの渋いおじさんが一人。


「失礼します」
「ん、○○か。まだ開店じゃ……おい、その子、もしかして……」

「お久しぶりです、店長さん」
「もしかして、アルノちゃんか……?」

アルノが帽子とマスク、マフラーを外すと、店長は慌てて煙草を消した。

きっと、驚きのあまり、煙草なんて吸ってる場合じゃないと感じたのだろう。


「活動休止のニュース見たと思ったけど、こっち帰ってきてたのか……」
「突然のご挨拶になってしまって、すみません」

「いや、そんなのいいんだ。ニュース見た時はびっくりしたもんだけど、なんだ、元気じゃないの」
「おかげさまで、体調は万全です」

「……てことは、メンタルの方ね」
「すぐ、わかるんですね」

「まあな。俺も昔は悩んだもんよ」
「店長さんもですか……?」

店長は、昔を懐かしむように微笑んで、思い出を振り返るように天を仰いだ。


「アルノちゃんは特に、生みだす苦しみってのもあるだろうからな」
「それは……」

「繕う事なんてねぇよ。俺の知り合いでも、苦しんでたやつなんて何人も見てきたからな。創作者ってのは、なんでか病みやすいんだよなぁ……。そんな時は、パーっと遊びに行き」
「遊びに……ですか」

「一人じゃアレなら、誰でも連れまわせばいいんだよ。幸い、連れまわせそうなのそこにいるじゃねぇの」
「店長、もしかしてそれ、俺のことっすか……」

「んなもん聞かなくてもわかるだろ。この様子だと、アルノちゃんがこっち帰ってきてる、お前くらいしか知らないだろ」
「そ、そうですけど……」

「じゃあもうお前が遊びに連れてくしかないだろ」
「い、いやいや、アルノにも普通の友達とか……!」


言葉を遮るように、アルノが俺の左手小指をそっと握る。

突然の出来事に、俺の中の時間が止まり、頭が真っ白になる。


「ア、アルノ……!?」
「〇〇しか……いないから……。私が今頼れるの……○○、だけだから……」


俺、だけ。

そんな特別感。

一瞬、”嬉しい”なんて思ってしまった俺が情けない。

こんな、アルノの弱みに付け込むような真似をして、嬉しいだなんて。


「わかったよ」


手を解いて、俺はさっきまで掴まれていた小指をアルノの小指に絡める。


「約束する。アルノの気が済むまで、俺がアルノに付き合うよ」
「約束、だからね。明日、さっそく付き合ってもらうからね」

「明日!?まあ、別にいいけどさ……」
「決まりだからね!家まで迎えにいくからね!」

「二人とも、楽しそうなところ悪いけど、そろそろ一組目が来る時間だ」
「あ、すみません。一回、移動しよう」

「うん」

再び、アルノは帽子とマスクを着けて、人目につかないように駅前を離れた。

幸い完璧な変装のおかげか、人だかりではバレることもなく、気が付けば懐かしの通学路。

夕焼けに映えて、懐古の情が溢れ出す。


「ここ、なつかし~」
「よく通って帰ったよな」

「あそこの公園もなつかしいね」
「小学校低学年の時、あの木から落ちた記憶あるわ」

「私も覚えてるよ。あの頃の○○はほんとドジだったよね~」
「それ、アルノにだけは言われたくないんだけど」

「どういういみ!」
「まんま。メディアに映ってるときも、歌ってる時も。そんな一面を全く感じさせないんだけどな」

美少女シンガーソングライター。

そんな触れ込みのアルノは、そのビジュアルもあってかファンからはクールビューティーなんて思われている節がある。


「実際はそんなこと……」
「ねーねー、久しぶりにブランコとかどうよ」

「いつ以来だよ、ブランコなんて」
「それこそ……保育園くらい?」


今更、子供じゃあるまいし。

なんて、思ったのは正直に言えばある。

「私に付き合うんでしょ。ほら、隣に座った座った」


でも、すでにブランコに座ったアルノに手招きをされて、空いていた隣に俺も座った。


「アルノ、ブランコなんて漕げんの?」
「私のこと、なめすぎですけど」

十数年ぶりのブランコは、今の自分が想像しているよりも楽しくて。

二人して、時間を忘れて漕ぎ続けた。


「どのくらい漕いでた?」
「三十分は漕いでたな」

そのせいで、すっかり空は暗くなり、星と月がぼんやりと輝いていた。


「そろそろ帰ろうかな」
「俺も、今日の授業の課題やらんと」

「大学生してるね」
「まあ、大学生だからな」

「大学生かぁ……ちょっと、羨ましいかも」
「羨ましい……」

「ごめんね、変なこと言っちゃった。忘れて。それと、うち……」
「もう、すぐそこだから……ってか?」

「なんでわかったの」
「いや、わかるだろ……」


実際、この公園からアルノの家までは歩いても五分かそこら。

だからと言って、


「送るよ」

暗くなった道を、一人で帰らせる理由にはならないのだ。




・・・



「ん……まぶし……」


翌朝、スマホの通知で目が覚める。

昨晩閉め忘れたカーテン。

窓から差し込む日差しは、もうすでに朝ではないよとだけ教えてくれる。


「アルノか……」

三年ぶりに動いたトークルーム。

【昨日はありがと】
【ほんとは昨日のうちに送りたかったんだけど、寝ちゃった】

本当に三年も会話していなかったのか不思議になるほど自然なメッセージに、俺は少し迷いながら返信をした。

【お礼なんていいよ。それより、今日はどうするの?】
【そうそう、それが言いたかったの。今日は行きたいところあるから、昨日と同じ時間に同じ場所きて】

午後三時に駅前の噴水と……

ついでにスマホで今の時間を確認すると、


「え、もうこんな時間!?」


午後二時。

俺は慌ててベッドから飛び降りて、シャワーを浴びるために、着替えをもって階段を駆け下りた。


「お、お待たせ……」
「どうしたの、そんなに息切らして」


命からがら駅までたどり着いたのが集合時間の一分前。

マスクで隠れていない目元を見ただけでも、膝に手を付いた俺のことをアルノが笑っているのがわかる。


「いや、さっきメッセでやり取りしてる時間に起きてさ……」
「自転車は?」

「…………あ」
「もう、○○だって私のこと言えないよ」


なんとか準備を終えて、遅刻してはならないとだけ考えていたせいで、最寄り駅まで自転車という選択肢が頭から抜け落ちてしまっていた。


「まあ、いいや。今日は行きたいところがあるんだよね」
「そういや、それまだ聞いてない」

「言ってないもん」
「で、どこなの?」

「まあまあ。とりあえず電車乗るよ」
「……?」


俺は、言われるがままアルノについていき、電車に乗り込んだ。

夕方の電車は、この後のラッシュに備えてなのか、とても静か。

これが、嵐の前の静けさってやつか。


「降りるよ」

アルノの指示があったのは、俺の大学とは真逆に三駅。

俺たちの高校の最寄り駅。


「高校行くの?」
「んーん」

「じゃあ、どこ?」
「もう、忘れたの?高校の近く、私たちがよく帰りに寄ったところ」


ちょっと拗ね気味のアルノの向こう。

見えてきたのは、くすんだ赤の鳥居。


「ああ、たしかによく来た」


古い、広い神社。

人もいないし、日陰にもなるし、秋になったら木々が色づいてきれいだし。

部活の後とか、テスト期間の暇なときとか。

俺たちは、よくここに来ていた。


「思い出しはしたけど、なんでここ?」
「それじゃ思い出せてないよ。ここには……いた」


アルノが指さした神社の賽銭箱の上。

茶色いトラねこが寝そべっていた。


「久しぶりだな~」

アルノが寄って行っても、全く逃げるそぶりを見せない。

それどころか、首元を撫でられて喉を鳴らしている。


「そいつ、もしかして」
「そうだよ。私と両想いの茶トラだよ」

「まだ生きてたのか……」


そういえば、思い出した。

高一の夏、だったか。

この神社で並んでアイスを食べていた時に、よろよろと歩いているこの茶トラを見つけて、アルノが水をくれたことがあった。

それ以来、この茶トラはアルノに懐いたんだったっけか。


「今日はね、この子に会いに来たの。こんな風に、昔の『何者でもないやつだった自分』をなぞりたかったのかもね」

この猫に出会ったころのアルノは、曲も書いていなかったし、何ならドラムとボーカルのどっちに専念するべきか迷っていた。

あの頃”は”、アルノの言う通りまさしく『何者でもなかった』のかもしれない。

だけど、そんなことを思っていたのが自分だけだということを、アルノは昔と変わらず知る由もない。

正確には、『特別な自分に気が付いていないやつ』だったから。

本当に何者でもないやつっていうのは、身近に『特別なやつ』が出てくるまで、自分もどこか『特別なやつ』なんじゃないかって信じながら生きているんだから。


「かわいいなぁ、茶トラ」

思えば、ごろごろと喉を鳴らすねこのことをアルノはずっと、意識してかせずか”茶トラ”と呼び続けている。

俺が思うに無意識なのだと思う。

俺の考えすぎで、単に名前を考えるのが面倒だったという可能性はあるけれど。

そうなのだけれど、自分のペット達には個性的な名前を付けるアルノのことだから、このねこのことを”茶トラ”と呼び続けるのには、きちんとした理由があるのだろう。

そしてそれは、このねこがペットではないという理由が大きいのではないかと考える。

自分のペットならば、ある程度の未来は予見できる。

普段と様子が違うのがわかる。

例えば、ご飯全然食べなくなっちゃったなとか、同じ場所から中々動かないなとか。

しかし、このねこはどこまで行っても野良猫。

どれだけ相思相愛だろうと野良猫なのだ。

別れがいつ来るかもわからない。

だからこそ、その別れが来たときに自分の心を守り切れるように、アルノは”茶トラ”と呼び続けるのではないか。


「あ、行っちゃった……」

いつの間にか、茶トラはどこかに行ってしまったようで、アルノは肩を落として賽銭箱に寄りかかっていた。


「まだ全然時間あるけど、このあとどうする?」
「決めてないの?」

「決めてないよ」
「じゃあ……どうすっか……」

「う~ん……もういっそのこと高校行っちゃう?」
「ダメだろ。まだ生徒もいるし」

「だよねぇ。じゃあ、もうちょっとここでゆっくりしてよ。ほら、座って」


賽銭箱へと至る三段の階段。

その三段目に腰を下ろしたアルノが、自分の隣を軽くたたく。


「寒いんだけど」

少しだけ頬を膨らませたアルノ。

俺はおずおずと促された場所に座った。


「高校の時もさ、こうやって座って、肉まんとか食べてたよね」
「だな。あと、アルノが鼻歌歌ってた」

「なつかしっ。肉まんが美味しかったからかな」
「自分でも覚えてないの?」

「覚えてないよ、さすがに」
「まあ、そっか」


アルノの「肉まん買ってくればよかったな……」というつぶやきは木枯らしに運ばれて、枯れ葉が舞う。


「そうだ、写真撮ろ、写真」
「写真?」

「マネージャーさんに送らないと。私は元気ですよ~って」
「そのために、写真?」

「そうだよ。○○が写真苦手なのは知ってるけどさ。ほら、寄って」


アルノの構えるスマホのインカメ。

画角に映るように、出来るだけアルノに寄る。

肩が触れ、季節外れの金木犀の匂いが鼻孔をくすぐる。


「よし、撮れた」
「それは……よかった」

「……?」
「なんだよ」

「いや、何でも~。じゃ、やることもやったし帰ろ」
「もういいのか?」

「うん。また連絡するから」
「次は行きたいところ決めてからにしてくれ」

「え~。それはわかんないな~」

アルノを家まで送って、一人になった帰り道。

徒歩六分。

まだ、金木犀は咲いている。



・・・



【今日は高校時代によく通ってた神社に行ってきました】
【なになに!隣の子、彼氏!?】


「か、彼氏に……見えちゃうんだ……。でも、そうだよね……」


お風呂も入って、ご飯も食べて。

歯も磨いたし、スキンケアも済ませた。

あとは寝るだけだけど、ちょっとだけ夜更かしもしたい、そんな時間。

私は朝雲さんへの連絡を最優先にした。

【彼氏じゃないです…!幼馴染です!】
【いい子そうだね~!】

【すっごく優しいんですよ】
【うんうん。一目見ただけでもそんな感じしたよ!】

○○、昨日も思ったけどやっぱり変わらないな……

どんなわがままも受け入れてくれて、私がしたいって言ったこと全部付き合ってくれそうなほどやさしい。

そんな、○○の優しさに、私はずっと甘えっぱなしだ。


「○○……」

飲み込んだ言葉があった。

神社で二人、イヤホンを分け合って音楽を聞いたこともあった。

肉まんを半分こしたこともあった。

○○のギターに乗せて歌ったこともあった、トランペットを吹いている○○の横顔をただただ見つめていたこともあった。

並んで歩いた住宅街、私が転んだあぜ道、中々来ない電車、誰も乗っていないバス、大雨の後の河川敷。

どの思い出にも○○がいて、どの思い出でも私は迷惑をかけていて。

『あのね。』

私は、そこから先の言葉を紡げないままでいる。

【ちなみに私はお休みだったから、一日映画見て過ごしてたよ~。アルノちゃんからオススメしてもらったやついっぱい見ちゃった!】

朝雲さん、オススメした映画見てくれたんだ……!

嬉しくて、胸のあたりがぽかぽかする。

【また、映画オススメしてもいいですか!】
【もちろん!たくさん教えてよ!なんなら、今からでも!】

【今からですか?】
【電話してもいい?】

【はい、大丈夫です】

私が返信してから一秒も経たず、着信音が部屋に響く。

「もしもし」
「もしもし、おつかれさま」

「お疲れ様です」
「…….あのね、アルノちゃん」

「はい……」
「映画のことは建前でさ、本当は別の用件で……電話、したかったんだ」


通話口の向こうにいる朝雲さんは、適切な言葉を探しているように、詰まりながら話している。

そんな朝雲さんに、私は自然と背筋が伸びる。


「別の用件って、なんですか……?」
「私、アルノちゃんに謝らなきゃいけないなって、思って」

「あ、朝雲さんが私にですか……!?そんなこと、何もないですよ……!」
「ううん、あるよ。アルノちゃんを、無理やりこっちの世界に引っ張ってきたの、私だし……。あそこでスカウトなんてしなければ、今頃アルノちゃんがこんなに苦しむことも……なかったのに……」


高校二年の冬。

私が所属していた軽音部の、ガールズバンド『clione』のライブが馴染みのライブハウスで行われた。

ライブは大盛況だったし、私たち自身もライブの出来に満足して、いっぱいの胸でライブハウスを出た時に私は朝雲さんにスカウトされた。

その時のことはよく覚えている。

いきなりの話で驚いたことも、自分の歌をいろんな人に届けたいって思ったことも、地元を離れることになるかもしれないという不安も。

そして、朝雲さんの頬に、泪の後が残っていたことも。


「だからさ、本当は私、ずっとアルノちゃんに謝りたかったんだ」
「朝雲さん……」

「ごめんね、アルノちゃん」
「あ、謝らないで、ください……。朝雲さんのお誘いに乗らなかったら、今の私がこうして苦しむこともなかったかも……しれません。で、でも!朝雲さんのお誘いに乗ったからこそ……」


初めて、シンガーソングライターとして行ったライブの日のことを、私は鮮明に覚えている。

大きなハコってわけでも、お客さんが何万人もいたわけじゃない。

だからこそ、一人一人の表情がよく見えた。

私の歌で、笑顔になってくれる人がいた。

私の歌で、涙を流してくれる人がいた。

私の歌が、支えになってるってファンレターも貰ったし、たくさんの声援も貰った。


「私は、かけがえのないものをいただいたんです」
「アルノちゃん……。ありがとう、そう言ってくれて」

「いえ、お礼を言うのはこちらのほうです。いつもありがとうございます、朝雲さん」

一瞬、沈黙が流れて、再び朝雲さんが言葉を発する。


「ごめんね~!暗くなっちゃった!せっかくアルノちゃんがゆっくりできてる時だっていうのに」
「いえいえ!」

「で、もう一つ用件があるんだよね~」
「な、なんでしょう……!」

「あの写真で写ってた幼馴染くんのこと!」
「○○ですか……!」

「○○くんって言うんだ~!アルノちゃん、かわいいもんね~!」
「だ、だから、そういうのじゃなくてですね……!」

「またまた~!お姉さんに聞かせてみ?アルノちゃんの恋愛事情!」


朝雲さんのテンションが分かりやすく上がっている。

これは、今夜は寝られないかもしれない。



==========




たった一人、自室のベッドの上。

大雨、閉め切られた部屋は押しつぶされてしまいそうなほどの湿気に支配されている。


「あ……」


音楽アプリに配信されていたとある曲。

歌っているのは、aruno。


「アルノの……最初の曲……?」


ワイヤレスイヤホンを付けて、再生して、目を閉じる。

なだれ込んでくる音。

乱される心。

つい数か月前までは隣を歩いていたはずなのに、いつの間にか遠くへ行ってしまった幼馴染の声。


「くそ……」

無意識に、涙がこぼれる。

感動とか、そんなきれいなものじゃない。

妬み、嫉み、絶望。

俺は、醜い人間だ。

幼馴染の成功を心の底から喜ぶことも、幼馴染がいばらの道を歩むことを選んだって純粋な気持ちで応援することもできない。


「くそ……。くそ……!」


握った拳を振り上げ、振り下ろしてマットレスを叩く。

くぐもった音が部屋に響いて、蔓延した湿気を刺激する。

全部、全部嫌だ。

何も持たない自分も、想い人の成功を願えない自分も、それらを自覚しているのにも関わらずこうしてただただベッドに寝転がって涙を流すだけの自分も。

全部、全部大嫌いだ。




==========




「今日はどこ行くん?」
「星を見に行きたい」


週末、日が落ちてからアルノに集合をかけられて、慌てて家を出た。

髪もセットしないで、服も適当に見繕ったもの。

俺は全然準備不足。

それなのに、集合をかけた本人はきっちりコートも防寒具もフル装備で、玄関の前に立って待っていた。


「星?」
「そう、星。冬の空って、星がきれいに見えるじゃん」

「そうだけどさ。場所がないよ、場所が」
「そうなんだよねぇ」

「……調べるから、ちょっと待ってて」


星。

高いところか、開けた場所。

ちょっと離れたところに展望台。

電車で行っても駅から遠いし、近くにバス停とかもなさそう。


「自転車なら……」
「見つかった?」

「見つかったよ。チャリで二十分かかんないくらい」
「自転車で二十分かぁ……」

「一旦うち帰って、チャリ回収するか」
「いいの?」

「いいよ。どうせ明日も暇だし」
「じゃあ、おねがい」


一度俺はアルノと並んで家に帰って、車庫から自転車を引っ張り出してくる。


「この間ぶりだ」
「しっかり捕まってろよ。上り坂あるから」

「はーい」

回された腕がきつく締まるのが準備完了の合図。

それを受けて、俺は自転車を走らせる。

冬の夜、風を切って。

息を吸い込む度、内から体が凍ってしまうのではないかと思うほど冷たい空気が入り込んでくる。


「さむいね!」
「冬だからな!しかも夜だしな!」

「人、誰もいないね!」
「こんな時間にこんなとこ通ってる人なんていないだろ、普通!」


上ったり下ったりの道で、風を切る音がノイズになるからか、お互いの声も大きくなる。


「あとどのくらい?」
「五分!」


手が悴んで、もはや痛いくらいになったころ。

ようやく目的地の展望台に到着した。


「わぁ……!上見て、上」

展望台の柵に手をかけていたアルノが空を見上げ、指をさす。

その指に釣られて、俺も天を仰ぐ。

光源は、自転車のライトのみ。

街灯も、住宅街の明かりも何もない、真っ暗な展望台。


「すっげぇ……」

俺の目に映ったのは、雄大に広がる星空と、憎たらしく輝く満月。

息をのむほどきれいで、どこまでも続いているんじゃないかってくらいの暗闇で。


「想像以上だね」
「想像以上だ」

「私はね、この景色を○○に見せたかったんだよ」
「うそつき」

「うそ」

吸い込まれてしまいそうなほどの星空に、思わず息を忘れてしまい、慌てて呼吸を再開した。


「○○」
「なに?」

「○○ってさ」


アルノが振り向く。

ぼんやりと、満月がアルノを照らす。


「私のこと、嫌いだよね」
「…………は?」

何を言っているのかわからず、間抜けな声と、頭にはてなが五つほど。


「あ、ごめん、言い方すごい悪かったかも。嫌いとかじゃなくて……えっとね……言いたくても言えてないこと、いっぱいあるよねって言いたかったの」
「それがどうしたら『嫌いだよね』になんだよ」

「綾だよ、綾」
「……まあ、あるよ。それはもう、たくさん」

「やっぱり、そうだよね。昨日、朝雲さんと話してて思ったんだ。私、○○のこと、深くまで知らないなって」
「そんなの、俺も同じだよ。アルノのこと、深くは知らない」

「だから、教えてよ。○○のこと」
「いいよ。あそこのベンチにでも座ろう。その代わり……その……マジでみっともないぞ」

「気にしないよ」


柵からちょっと離れた木製の、二人掛けのベンチ。

並んで座って、俺は大きく息を吐く。


「大前提、俺はアルノのことは嫌いじゃない」
「なんだ、よかった」

「俺が嫌いなのは、俺自身だよ」


遠くに行ってしまったアルノを、自分とは根本から違う人種なのだと突き放し。

そのくせして彼女の歌を聞いて涙を流し。

どっちつかず、ふらふらと海を漂うクラゲのような自分が嫌いだ。


「一方的に、ほんと、勝手にアルノのことを自分とは違うって決めつけてさ。俺の弱い心を、アルノのせいにして。そのくせ馬鹿みたいに意地張って……。何かしたいのに、何にもしない。俺は、そんな人間だよ」
「○○はさ、私の曲たくさん聞いてくれたんでしょ?」

「聞いたよ。それはもう、耳にタコができるくらいには」
「じゃあ、そんなヘビーユーザーさんの○○に質問」

「なんでもきいてよ」
「私の曲、好き?」

「…………………………きらいだよ」
「なんだ、よかった」




・・・




「私の曲、好き?」
「…………………………」


永遠にも思えるような沈黙が訪れた。

私も、自分が嫌い。

自分の気持ちをうまく言葉にできない自分が嫌い。

いつも、○○に頼り切ってしまう自分が嫌い。

だから、私の作る曲には私がいない。

大好きな音楽に、私はいない。

正確には、”私”なんだけど。


「嫌いだよ」


だから、○○の口からその言葉を聞けて、私は心底安心した。

私の音楽は、私の好きで出来てる。

だから、私の好きが嫌いな○○に『嫌いだ』って言って貰えてよかった。


「お、俺の話は終わり……!ア、アルノは……何か、無いのかよ」
「あるよ。いーっぱいある」

○○に、話せていないことばっかり。

私は私が嫌い。

私の音楽は、私の好きで出来てる。

だから、まずはあの日の『あのね。』の続きから。

この世界で一番、その先を伝えたい○○に、聴いてほしい。

「あのね、」


私の、『好き』の話を。




………fin

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