今日も夜は、私たちを置いていく【後】
夜はひたすらな退屈を凌ぐのが苦しかった。
なぜだか目が冴えてしまって眠れない。
吸血鬼故なのか、僕の元からの性質なのか。
それでも、日を跨ぐ前までは食事の時間と割り切ってしまえばそう苦しいものでもない。
だけど、徐々に町から人がいなくなって、鳥も、犬も、猫もみんな眠りについてしまって。
月と星は、僕に構ってなんかくれない。
父さんと母さんは、僕がまだ”人だったころ”に事故で死んだ。
僕も、その事故で一度死んだはずだった。
”契約”。
幼いころに出会った、一人の年老いた、死にかけの吸血鬼。
その吸血鬼との”契約”。
僕はその”契約”のせいで、吸血鬼になり果ててしまった。
ヒトの姿をした化け物。
ヒトリぼっちの夜。
血を吸う以外の食事がいらなくたって、ちょっとやそっとじゃ死ななくなったって、多少睡眠をとらなくても生きていけるようになったって。
孤独な夜は、僕の力ではどうしようもなかった。
彼女と出会って、同じようにヒトリの夜に悩まされている人がいるんだって知ることができた。
彼女の悩みは深刻だった。
眠らなくても済むから、眠らないでもいいやって選択肢を僕なら取れる。
しかし、彼女は普通の人間で、睡眠を取らないといずれ身体を壊してしまう。
彼女は、僕を見て泣いていた。
ヒトリじゃなかったことへの安心感か、割れていたガラスを僕がつついてしまったのか。
彼女は、僕に血を吸ってもらうことを望んだ。
しかし、それはあまりにも彼女の身体への負担が大きく、僕としては勧めることのできない申し出だった。
だから、”契約”をすることにした。
僕は週に一度、安定した食糧を確保できて、彼女が眠れない夜は僕が話し相手になる。
彼女の涙は、なぜだか僕の胸を締め付ける。
この気持ち、この感覚。
まるでニンゲンじゃないか。
・・・
「きちゃいました」
玄関を開けると、ラフな格好で、どこか楽しそうなアルノ。
孤独じゃないのは、僕だって嬉しい。
「なんか飲む?」
「ホットミルク、貰ってもいいですか?」
「まってて」
コップ一杯の牛乳と、小さじいっぱいの砂糖をよく混ぜてレンジで一分温める。
僕は……今日はトマトジュースでいいかな。
冷蔵庫から一パック取り出して、ストローを突きさす。
「おまたせ~」
カップを手渡して、ベッドに座った彼女の隣に腰を下ろす。
「で、映画見るんだっけ」
「何本か、目星はつけてあります」
「映画好きなんだ」
「寝れないときは、大体映画見てます」
彼女の好きを知れるのが嬉しい。
それを共有してもらえるのが嬉しい。
わからない感情が、僕の中で暴れる。
「じゃあ、まずはホラーにしましょう。私もこれから見る映画はじめてなんですよ~」
「鬼だこの子」
「吸血鬼に言われたくないです」
彼女がワイヤレスのイヤホンを繋いで、スマホのアプリを開く。
たくさんの映画が並ぶ中、『お気に入り』のタブを開いて一本の映画が再生される。
「ベッド、乗っちゃっていいよ。壁に背中つけちゃった方が疲れないでしょ」
二人、膝を抱えて、肩が触れそうな距離で並んで。
「枕もとのぬいぐるみ、一つ借りてもいいですか?」
「いいよ……。なんか、恥ずかしいけど」
横になったスマホの左側を彼女が支え、右側を僕が支える。
彼女のいる方と反対側についたイヤホンから音声が流れる。
「そろそろはじまりますよ~」
今日、映画館で隣に座った時も思ったけど、映画を見る前のアルノは本当にいい顔をする。
未知の映画との出会いは、彼女にとって一つの幸せなんだろうな。
暗くなった部屋で、スマホの光を反射して輝く瞳。
瞬きをするたびに強調される長いまつげ、抱きかかえたぬいぐるみに埋めた口元、ハーフパンツから伸びる白い足。
息遣いも、仕草も、全部が僕の心をかき回すように刺激する。
「うわぁ......こわ......」
怖いシーンなんだ。
イヤホンから流れてくる音と、彼女の不安げな表情がその情報を伝える。
僕は、彼女に見惚れてしまったせいで、映画になんて集中できなくて、小さくため息をつく。
この後、感想聞かれたらどうしようかな。
適当言って誤魔化したら、怒るかな。
悲しむかな。
それとも、笑って許してくれたり、するのかな。
「怖かったですね」
どうやら、僕がしょうもないことを考えている間に映画は終わっていたらしく、満足した表情のアルノが手を組んで体を伸ばしていた。
「先輩はどうでした?」
「うん、おもしろかったよ」
「本当ですか?怖くてちゃんと見てないとかじゃないんですか〜?」
「どうかな〜」
「あ〜!絶対そうだ!」
よかった、バレてない。
「君に見惚れてて集中できなかったんだよ」なんて、口が裂けても言えないから。
「この後どうしましょう......。夜明けまではまだ時間ありますよね......」
「眠くないの?」
「眠くないって訳ではないですけど......。その......怖くて......」
「じゃあ......さ。一緒に、寝てみる......?」
夜のせい。
そう、自分に言い聞かせて彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
「一緒に……。い、一緒にですか……!?」
「ごめん……!忘れてくれていいから……!」
「…………」
アルノは、黙って俯いたまま。
頬が徐々に赤く染まっていく。
「ここなら、私も眠れますか......」
「保証はないけど。あ、もちろん、僕が隣でとかじゃないから安心して」
「いや......です」
「え......?」
「隣に、いてください......。一人は......いやです......」
伏せた目に溜まった涙が月明かりを反射して白く輝いた。
今にも溢れ落ちそうな涙に、彼女の夜に対する、孤独に対する恐怖を表しているようだった。
「わかった。ベッド狭いけど、我慢してね」
「はい......」
シングルベッドに並んで、寝転がる。
「隣にいてくださいね」
「いるよ」
「目、閉じますからね」
「うん」
熱帯夜が鬱陶しく絡みつき、窓から入り込む月明かりは一層輝きを強める。
深い呼吸の声が耳元をくすぐり、寝返りを打つことすら困難。
「すぅ......」
チラリと横を見ると、壁に背を向けてこちら側を向いたまま目を瞑った彼女の顔が目の前にくる。
本当に、心臓に悪い......
しばらく天井を見上げていると、彼女の呼吸は徐々に静かに、安定したものになっていき、浅くか深くか眠りにつけたのだと示す。
しかしその安定も束の間、悪夢にうなされているのか、表情はだんだんと険しいものになっていった。
「いやだ......」
ぽつりと、こぼれ落ちた彼女の声。
震える指と、滲んだままの涙。
枕の上に置かれた手を、僕はそっと握る。
「............!」
その手を、意識してか無意識か。
彼女が、かすかに握り返してきたのは気のせいではないと思いたい。
・・・
結局、僕自身は一睡もしないまま、朝日が昇っていくのを、部屋が段々と明るくなっていく様子で感じていた。
だけど、孤独ではなかった。
一人ではなかった。
未だ握られたままの手を解いて、僕は朝のコーヒーを準備するためにベッドを降りた。
きっと、彼女の眠りは浅かったのだろう。
僕のその動きで目を覚ましてしまった。
「おはよ……ございま……」
「まだ寝ぼけてる?」
「うゅ……」
寝起きで目も覚めてくて、頭も回っていないアルノ。
滑舌も回っておらず、ぼーっとした感じもまた可愛らしい。
「一回帰ろう。怪しまれないためにも」
「そうしますぅ......」
まだまだ寝ぼけ眼のアルノは、水道の冷たい水で顔を洗い、何度かぱちくりと瞬きをした末にようやく行動できるくらいには目を覚ました。
「朝も暑いですよね」
「そうねぇ。これから、結構厳しい季節になるねぇ」
「夏の日差しは厳しいんでしたっけ」
「日本の夏、暑くなりすぎなんだよ......」
太陽への、暑さへの愚痴を言い合っていると、歩き慣れた約二十分の道のりなんてすぐで、いつの間にやら彼女の家の前まで来てしまっていた。
「窓は開けたままにしてある?」
「してあると思います」
「じゃあ、ちょっと失礼」
誰にも見られていないことを確認して、彼女の背中と、膝の裏に腕を回す。
そして、グッと沈み込んでから、家の屋根に飛び乗る。
「じゃあね」
「はい、駅で会いましょう」
もう一度周囲をよく確認して、屋根から飛び降り、アパートまで小走りで戻る。
トマトジュースのパックにストローを突き刺し、一気に飲み干してから制服に着替える。
そう言えば、駅で会おうって言ってたっけ。
一緒に登下校。
ゆくゆくはデートも......?
昨日の映画はデートと言えるのか。
向こうがどう思ってるかわからないけど、デートってことにしておこう。
日焼け止めを塗って、きちんと戸締りをしてから家を出る。
いつもは退屈な駅までの道のりも、なんだかちょっとだけ心が踊る。
駅に着いてホームを見渡してみても、彼女の姿は見当たらず、僕はベンチに座って待つことにした。
「ふぁぁ……」
あくび。
僕も、あくびなんてするんだな……
久しいその感覚に、まだまだ人間らしいところも残ってるじゃないかと、胸をなでおろす。
人間らしい部分といえば、彼女……アルノへの気持ちもそうだ。
幼いころに失った人間としての営み。
それを取り戻したくて学校に通うようになったけど、まさか恋……なんてするとは思わなかった。
「おはよーございますっ」
「おはよう。なんか、元気だね」
ぽやっとしていると、僕の視界に入り込むようにアルノがやってきた。
どことなく血色もいいように見える。
「よく眠れたので、身体軽いです」
「それはよかった」
「その……ご迷惑じゃなければ、今後もお願いしてもいい……ですか……」
「もちろん。僕も夜は暇だからね」
「ありがとうござ……。でも、それだと先輩は私が寝てる間、結局暇なのでは……」
「そこはまあ、アルノの寝顔見てればいいし」
「ちょ……!さ、さすがに恥ずかしいです……」
アルノをからかうのは正直面白い。
これも、『好きな女の子にいたずらしたくなっちゃう男の子』みたいなものなのかな。
なんて、ひとしきりアルノで遊んでからやってきた電車に乗り込んだ。
・・・
「先輩、帰りましょう」
放課後は図書館が集合場所。
もう二週間もこの生活を続けていればこれに違和感を覚えることもなくなる。
それに、放課後の図書館はあんまり人もいないから、周りの目を必要以上に気にすることもないのだ。
「今日はどうしようか」
「おすすめの映画、ありますよ」
「じゃあ、それで」
いつものように、帰路を歩きながら今晩の相談をしていると、アルノが突然深く息を吸って、ゆっくりとそれを吐き出した。
「あと、もう一つお伝えしたいことがあるんですけど」
「なに?」
「これなんですけど……」
アルノがおずおずと差し出してきた二枚のチケット。
映画も小説も不朽の名作といわれ、僕ですら映画を見たことのある作品のミュージカルのチケット。
「明後日から夏休みじゃないですか。そこで、ミュージカル……よろしければ一緒にどうでしょうかっていうお誘いです」
「いいね、楽しみ。僕、その映画見たことあってさ」
「私も見ました!いい作品ですよね、生きるとは、愛するとはどんなことなのか。その答えは多分見つからないんですけど、あの作品には考えさせられます。私、思わず泣いちゃいましたもん」
相当好きな作品なんだろうな。
この作品のことについて話している時のアルノは、普段映画について語っている時に比べて何割か増しで目が輝いている。
「そしたら、今日の夜はこの作品の映画版改めて見返しましょう」
「いいね。僕も見たの、五年前とかだから、あの頃とはまた違った見え方がして面白いかも」
「かもですね!」
「……っ!」
「どうかしました?」
「な、なんでもない」
心の奥のほうがくすぐったい。
人間みたいに、恋なんかして。
アルノは、僕のことなんか都合のいい吸血鬼くらいにしか思っていないだろうに。
・・・
迎えた夏休み二日目は、うだるほどの暑さと、僕の命日は今日なんじゃないかって思うほどの日差しが照り付ける快晴。
お昼ごろ、僕は私服に着替えてアルノを迎えに行っていた。
しかし……
「ごめんね~」
「いえいえ」
「多分、もうちょっとで出てくると思うんだけどね」
アルノは、どうやら準備に大変時間がかかっているらしい。
僕はアルノのお母さんのご厚意で家の中で待たせてもらうことになったが、さすがにずけずけと上がり込むのはあまりよろしくないだろうと思ったので、玄関にいることにした。
五分。
いや、十分くらい待ってバタバタと階段を下りる足音が聞こえたかと思えば、ワンピースに身を包み、髪も編み込んだアルノがようやく姿を見せた。
「遅れました……!」
「気にしてないよ。行こう」
「先輩の私服、初めて見たかもです」
「僕も、アルノの私服初めて見たよ。僕たちが会うときって大体制服か部屋着だもんね」
思えば、前一緒に映画を見に行った時は学校帰りにホラー映画を見に行った時だったから、お互い制服のままだった。
それに、毎日会っていても、どこかに出かけるなんてことは僕たちはなかった。
お互い、インドアだからかな。
「新鮮だ」
「新鮮です」
「似合ってて、かわいいよ」
「せ、先輩はずるいです……」
アルノは、耳まで赤くしてうつむいた。
僕でもわかる。
夏の日差しのせいでもなく、熱があるからでもない。
照れているんだってことは。
でも、もう一つわかることがある。
それは、僕も同じだということ。
今日の日差しは、一段と暑いな。
最寄りから、乗り換え含めて三十分。
大きな街からは少し外れたところにある立派な劇場。
「着きましたね」
「初めて来た」
「まあ、任せてくださいよ」
得意げな顔のアルノ。
僕は、自信満々にどや顔をしているアルノにとりあえず全て委ねることにしてみた。
「席は……あ、この辺ですね」
「真ん中で、前すぎず後ろすぎずで見やすそう」
席は思ったよりもふかふかで、快適なミュージカルライフを送れそうな椅子。
並んで座った時、ふわりとさわやかな香りが僕の鼻孔をくすぐった。
幕が上がれば、カーテンコールまでの時間は一瞬に感じられた。
しかし、一瞬のようで、主人公と同じだけの月日を体感したかのようにも感じた。
それほどまでに、圧倒され、感動し、胸を打たれた。
「やっぱ、いいですね」
「うん。感動した」
退場が始まって、劇場の出口が見えてからようやく僕らは口を開いた。
まだ、あの作品の世界に浸かっていたい。
口を開いてしまったら、僕らは現実に引き戻されてしまう。
きっと、アルノもそう思っていたのだろう。
劇場を出たころには、もうすでに空はオレンジに染まっていて、夜が近づいているんだということをカラスが知らせていた。
「この後、どうしようか」
「どうしましょう。暑いですし、時間も中途半端ですし」
「うちで何か食べる?」
「いいんですか?」
「どうせ、夜はうちにくるんでしょ」
再び、最寄りまで三十分。
夕焼けに彩られる電車内は、意外にも空いていて、僕らの乗っている車両には僕らを除けば三人しかいない。
隣に座って、肩も触れそうな距離なのに、僕らの間には会話はなかった。
だけど、それがいいと思えた。
電車が走る音。
隣に座ったアルノのあくび。
駅に停まる度に開くドアから入り込んでくるセミの鳴き声。
結局、最寄りの駅に着くまでに僕らは一言も発さず、ようやく口を開いたのは僕の家の前に来てからだった。
「すみません、四十分ほど待っててもらえますか?」
「一旦家に帰るってこと?」
「はい。取りに帰りたいものがあるので」
「いいよ。部屋冷やして待ってる」
アルノは礼をしてから小走りで家の方向へ駆けていった。
その背中が見えなくなるまで見送って、部屋に戻った僕はエアコンの電源を入れる。
蒸し暑くなっていた部屋に、一気に冷気が送り込まれ、寒暖差からか僕は一度くしゃみをしてしまった。
アルノが来るまでにはちょうどいい温度にしておかねば。
僕がエアコンと悪戦苦闘していると、いつの間にやら時間は経っていたようで、インターホンの音が部屋に響く。
「いらっしゃい……って、えらい荷物多いね」
玄関を開けた先に立っていたアルノは、ワンピースから動きやすそうなTシャツとハーフパンツに着替え、リュックサックを背負っていた。
「実は……お泊りの許可を得てきたんです……!」
「と、泊まり……!?」
「ご迷惑でしたか……?」
「いや、迷惑じゃないけど……。よくお母さん許してくれたね」
「黒崎先輩なら大丈夫だろうって、ママも言ってくれました」
なら……
いや、いいのか?
「まあ、とりあえずあがって」
「お邪魔します」
リュックサックを下ろして、アルノは立ったままどこにも座らない。
いつもなら、いの一番にベッドか椅子に座るのに。
「座らないの?」
「お、お風呂入ってないから、汚いのではと思いまして……」
「気にしなくてもいいのに」
「いえ、気にしますよ……!」
風呂か……
一人暮らしだと、湯を溜める習慣がないし、最近は浴槽の掃除もろくにしていないから今から溜めても湯がきたない。
「うちだとシャワーだけになっちゃうんだよなぁ」
「私はそれでも全然大丈夫ですよ」
「いや、それは申し訳ない。……そうだ、近くの銭湯行こう」
日も沈み始め、暑い暑いとは言ってもまだマシになってきた時間帯。
近くにはあったものの、毎日シャワーで済ませてしまっていたから一度も行ったことのない銭湯があったことを思い出した。
一度行ってみるにはいい機会だ。
手早く準備を済ませて家を出て五分。
昔ながらと言った佇まいの銭湯。
「上がったらあそこの畳のスペースで」
「わかりました」
暖簾をくぐり、脱衣所で服を脱いでいざ扉を開けると、湯気が立ち込める中に大きな湯舟が待ち構えていた。
お客さんは疎らで、壁には富士山の絵。
いい雰囲気だ。
僕は湯気と雰囲気に包まれたまま一度体を洗って、お湯に体を沈める。
「しみる~……」
随分と久しぶりに浸かったお風呂は、想像を上回るもので、絶対に次も来ようと決心させるほどだった。
しかし、吸血鬼ゆえか、もともとの僕のポテンシャルなのか、長い間浸かってはいられず、すぐに頭がぽけっとしてきたせいで上がらざるを得なかった。
若干のぼせ気味で、扇風機の風に当たると、徐々に風で体が冷やされて、まだいけるかもなんて気になってくる。
「ふぅ……いいお湯でした」
「お、あがった」
僕が扇風機に当たっていると、火照って頬をピンクに染めたアルノが僕の隣で並んだ。
首を振った扇風機は、僕らに交互に風を当てる。
「たまんないですね。この時期のお風呂からの扇風機の流れは」
「そーだねぇ」
「だいぶ蕩けちゃってますね」
「なんか、久しぶりに眠れそう」
仮眠はちょくちょくとっているものの、ちゃんとした睡眠は三週間くらいしていない。
だから、当然といえば当然なのだが、お風呂に入って気分がよくなっている僕は急激な睡魔に襲われていた。
「帰りますよ」
「うん」
意識もだんだんとぼーっとしてきて、アパートに着くころには半分寝ている状態。
僕は耐え切れずベッドに倒れこんだ。
「先輩も寝るんですね」
「そりゃ寝るよ。吸血鬼とはいえ、休息は取らないとだから」
「じゃあ、私ももう寝ようかな……」
いつものように、シングルベッドに並んで二人。
狭いけれど、それがいい。
僕は久方ぶりの睡魔に身をゆだねた。
==========
気が付くと、僕の眼前には火の海が広がっていた。
確か、地震が来て、建物が崩れて。
周囲には倒れこんだ大人たち。
瓦礫は血で染まって赤黒くなり、僕の洋服も真っ赤に染まっていた。
なんで、僕は生きている?
お父さんは?
お母さんは?
「お父さん……お母さん……」
火の海を、一人さまよう。
吸い込む空気が肺を焼く。
熱気で目が乾いて痛い。
どうして僕は、こんな状態で生きている?
血を流して倒れている人がたくさんいた。
そんな人たちを見るたび、僕の中で何かが抑えきれなくなっていた。
【■■しそう】
そんな言葉がよぎった時、僕は悟ってしまった。
思い出してしまった。
僕は、潰されたはずだ。
そして僕は、もう人間じゃないんだ。
たった一人、救急隊の人に救助されて。
親戚が、僕を引き取ってくれた。
優しくしてくれた。
だけど、僕の心には深い、深い穴が開いてしまっていて。
周りはみんな人間なのに、僕だけが違う。
誰にも言えない。
誰もわかってくれない。
理解できるはずもない。
僕は、誰も頼れない。
ヒトリボッチ。
誰か、僕を助けてよ。
一人に、しないでよ。
==========
「ん……」
眠りにつくのが早かったからか、私は深夜に目を覚ましてしまった。
早朝の鳩の鳴き声も聞こえないし、外は真っ暗だし。
スマホで時間を確認してみると、まだ深夜の三時だった。
「水飲も……」
先輩を起こさないよう、そーっと上体を起こす。
「うぅ……」
先輩のうめき声のようなものが聞こえて、私は思わず肩が跳ねる。
「なんだ……。いや」
起きてはいなかった。
でも、額には脂汗、眉間にはしわ。
うなされてる。
「すみません、失礼しま……」
先輩をまたいで、キッチンに行こうとした時だった。
「先輩……?」
力強く、胴体を締め付けられる。
否、これは抱き着かれている。
「どうか、したんですか?」
起こしてしまったのか、悪夢に魘されて起きてしまったのか。
「一人に、しないでくれ……」
初めて聞いた、先輩の弱音は、夜の闇に消えて行ってしまいそうなほど細く、小さい、霞のような声だった。
「先輩……?嫌な夢でも、見たんですか?」
「昔の、夢……。一人ぼっちになる夢を見た……」
「先輩……」
「一人の夜は、辛いんだ……」
夜は孤独だと感じるのは私だけではないのだ。
私なんかよりもずっと、先輩は孤独と戦ってきたんだと思う。
人間じゃない、誰にも言えない。
たった一人、夜の街を徘徊して、血を求めて、温もりを求めて。
「ごめん……。忘れてくれ……」
先輩の腕が解かれる。
私は、咄嗟に振り返り、先輩のことを抱きしめていた。
「先輩はもう、一人じゃないです。私もがいます。夜は私たちを置いていくけど、私は先輩を置いてはいかないです。もう、一人ぼっちじゃない。二人ぼっちなんです」
私はずっと、先輩に寄り添わせてしまっていると思っていた。
だけど、私も先輩の孤独に寄り添えるのかもしれない。
孤独な夜を、二人で分け合えるのかもしれない。
・・・
目が覚めたころには、朝日が昇っていた。
「おはようございます」
「おはよう……」
昨日の夜、なんかあったっけ?
……なんてとぼけかたもできない位に鮮明に残った記憶。
多少は寝ぼけていたとはいえ、悪夢ついでに何をしているんだ。
年下の女の子に、あんなことを言うなんて。
「その……ごめん……」
「私、うれしかったです。ずっと、先輩にばかり負担を強いていたんじゃないかって思っていたんです」
「それは違うんだ。僕は、アルノに寄り添う振りをして、僕の心の孤独を埋めていたんだ」
「似た者同士……かもですね」
「そうかもね」
朝日に照らされながら、アルノは笑った。
その笑顔に、僕の心は救われるんだ。
「これからも、二人ぼっちの夜を過ごしましょう」
お互いの腹の内を知れたからか、僕らの関係は以前よりも深いものになったような気がする。
毎晩を共に過ごし、幾度もの夜を見送って、二人きりの部屋で肩寄せ合う。
互いが、互いのいない夜なんて信じられないと思えるほどに僕らの心の距離は近づき、いつしか夜に孤独を感じなくなっていた。
・・・
夏休みも中盤を過ぎ、そろそろ二学期の影が濃くなり始めた八月の中旬。
部屋でゴロゴロしていると、アルノから電話がかかってくる。
「もしもし」
「もしもし、アルノです」
「どうかした?」
「花火大会、一緒に行きませんか?」
「花火大会いいね。いつ?」
「今日です」
「…………今日!?」
今は昼の一時。
今日開催される花火大会の予定をその日に伝えるやつがいるか。
「もしかして、忙しかったりしますか?」
「いや、暇だけど……」
「じゃあ、一緒に行きましょう!」
気心が知れてか、アルノに段々遠慮がなくなってきたような気がするのは絶対に気のせいじゃない。
「わかったよ……。何時にどこ集合?」
「五時ごろに先輩の家に行きます」
「待ってる」
電話を切って、四時間後に心を躍らせる。
急に声かけてきやがってと、さっきまで思っていたはずなのに、いざ予定が組まれてしまえば楽しみになるし、多少無理なことでも許してしまう。
これも、惚れた弱みってやつなんだろうな。
とかなんとかくだらないことを考えながら、どんな服装で行こうか考える。
考えるとは言っても、服のレパートリーに富んでいるわけではないから、すぐに決まってしまい僕は暇を持て余してまだ読み終わっていない本を開いた。
つい没頭してしまったのか、一瞬で時間は過ぎていき、いつの間にか約束の時間になっていた。
「こんばんは」
「あれ、浴衣とか着ないんだね」
「期待してました?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ごめんなさい」
「いや、僕が勝手に期待してただけだから」
花火大会の会場は、近くの川沿い。
屋台がずらりと並び、老若男女が集まり活気を見せる。
「すげー人」
「はぐれちゃいそう」
「手、繋いどこうか」
「そうですね」
意味があるのかないのか。
ふんわりと、柔らかく握られた手。
かろうじて触れている手を通じて体温が伝わる。
「先輩の手、冷たいです」
「吸血鬼だからね」
屋台には目もくれず、僕らは一直線に絶好のポジションを取るために土手沿いに向かった。
それが幸いしたのか、最前列とまではいかなかったけれど、それなりに見えやすい位置を確保することに成功した。
雲一つない夜の空を、並んで見上げる。
光と、音。
風に乗って運ばれる煙の匂い。
幾重にも重なり合う光の花が、儚く、瞬く間に消えていく。
大人も子供も関係なく目を輝かせて、夜空に絵を描くように広がっていく花火を眺めていた。
触れているだけに等しかった手。
その手が確かに、強く、固く握られた。
「夜って、こんなにきれいになるんですね」
世界が、万華鏡みたいに彩られ、僕は思わず言葉を失う。
こんなにもきれいなのか。
夜は、こんな顔も見せるのか。
最後の一発が打ち上げられ、夜空に輝く金色の花が地上を一瞬明るく照らし出した。
静寂の後、余韻に浸る人々のざわめきが聞こえ始めた。
「私、今日のことは一生忘れないです」
「僕も、忘れない」
「……帰りましょうか」
まだ、空気が震えているような気がする。
まだ、煙の匂いが残っている。
大通りの、駅とは反対側。
幾分か人混みもマシになって、もうはぐれる心配もなさそうだと、手が解かれる。
「人、少なくなりましたね」
「大半は駅のほう行ったんじゃないかな」
「だから……」
祭囃子も聞こえなくなって、大通りには行き交う車のヘッドライトと、街灯の光がぽつぽつ。
「そういえば、初めて先輩に出会ったのもこんな夜の日でしたね」
「あの時は駅前の路地裏だったけどね」
「懐かしいな……」と、ぽつりと呟いたアルノ。
交差点での信号待ちをしていると、僕らの雰囲気を貫くような声が対岸から聞こえた。
「おーい!アルノ~!その横は……先輩!?」
その声の主は美空。
友人と花火を見た帰りなのだろうか。
浴衣姿で一人、こちらに向かって手を振っている。
「一緒に行かなかったんだね」
「……断ったんです。別で行きたい人がいるからって……」
恥ずかしそうに俯いたアルノ。
それを詳しく聞き出す間もなく、信号が青に変わる。
先を歩くアルノが小走りで横断歩道を渡り、僕はその三歩後ろ。
彼女の小さな背中を、視界の真ん中にとらえる。
細い肩、真っ白な腕、靡いた髪。
抱きしめたいと思うほどに愛おしいその背中。
「先輩もはやく来てくださいよ~」
赤信号で停まった車のヘッドライトが、まるで彼女を照らす舞台照明のよう。
振り返り、こちらに手招きをする彼女は妖精のよう。
「ごめん、すぐいく」
抑えきれないほど、苦しいほどに、僕の中で彼女への想いが募っていく。
「アルノ、一緒に行きたい人って黒崎先輩だったの!?」
「ごめんね、黙ってて」
「全然いいよ!アルノ、先輩に会ってから変わったもんね」
「そ、そう……かな……」
「変わったよ!どこがって言われるとだけど……元気になった、かな?全部、黒崎先輩のおかげですね」
「そう……?」
「そうですよ~。二人して似たような反応するんですから。……では、私は早く帰らなければなので!またね~、アルノ!」
美空は、嵐のように去っていった。
思えばあの子は、前もそうだったな。
「先輩、今日もお邪魔していいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、一度帰りますね。汗、かいちゃってるので」
「送るよ」
住宅街が近くなるにつれて、明かりも人も少なくなる。
風の音と、虫の鳴き声が辛うじて激しくなった僕の鼓動を隠してくれる。
「では、着替えてから行きますね」
彼女の家の前。
ぼんやりとした月と、白い街灯の明かり。
「アルノ」
自分でも、突拍子もないなってわかってる。
それでも、これ以上この気持ちに蓋をすることは、僕にはできなかった。
「は、はい……!」
「僕、アルノのことが好きだ」
アルノは、三秒くらい固まって、脳みそが情報を処理し終えたのか徐々に頬を赤く染める。
「これからもずっと、二人ぼっちの夜を過ごしてほしいんだ」
目に涙をためて、抱えきれなくなって、頬を伝う。
「先輩」
彼女の声が、僕の心をくすぐった。
・・・
インターホンが鳴り、玄関を開けると、着替えを済ませたアルノがいつものように立っていた。
「先輩の彼女が来ましたよ~……って、恥ずかしいですね」
「それ、こっちも恥ずかしい」
「じゃあ、控えます……」
夜は長い。
夜は、いつも僕たちを置いていく。
「先輩、今日は血吸います?」
「いいの?疲れてるでしょ?」
「いいんです。そのためにお風呂入ってきたので……!」
「じゃあお言葉に甘えて。肩、出して」
「その……今日は肩じゃなくて……」
アルノが、指で自分の首筋に触れる。
「隠せないように、噛み跡つけてください」
「大胆なこというね……」
「嫌です?」
これがこの子の本性なのか、夜がそうさせるのか。
「失礼して……」
柔肌に牙を突き刺し、口いっぱいに鉄の匂い。
口を離すと、くっきり歯形が彼女の首筋に残っていた。
「消えるまで時間かかるよ……」
「それでいいんです」
いじらしく笑ったアルノと、痛々しく残った噛み跡。
今日の夜は、どのようにして僕らを置いていくのだろう。
………fin