見出し画像

同棲することになったサキュバスは、キスをするのも恥ずかしい

真っ暗な部屋。

カーテンも閉め切って、月明りすらも差し込まない。

落ち着いた息づかいが一つ。

緊張して細かくなった息づかいが一つ。


「み、見ないでくださいね……」


向かい合った男女二人。

女性は服を着ているが、男性は下着一枚。


「ちゃんと目瞑ってるよ」
「そのままですからね……」


女性が大きく深呼吸をすると、目を瞑る男性にじりじりと体を近づける。

そしてそのまま、細腕を男の背中に回し、抱き着いた。



・・・



「目、開けてもいい?」
「どうぞ……」

目を開けると、対面。

床に敷いたマットレスの上に座る女の子をぼんやりと視界に捉え、頭が認識し始める。


「どう?ちょっとは回復した?」

人間の目は便利なもので、徐々にこの暗闇にも目が慣れてくる。

そうして暗順応を果たした俺の目は、一人の女の子をくっきりと映した。


「はい。あとは、なんとかできればと……」


この子は昔からの顔なじみってわけでもなければ、大学での知り合いってわけでもない。

昨日も別の香水の匂いが漂っていたはずの部屋なのに、今回はやけに初心な子。

その生い立ちは初心なんて呼べないものだろうけれど。


「でも、どうやって生きてくの」

おばあさんをよく助けていた小学校時代。

困りごとを引き受けまくった中学時代。

恋愛相談に乗り続けた高校時代。

終電を逃した、同じ大学の女子を泊め始めたのが今、大学時代。


「うぅ……」

俺の言葉に、女の子は力ない声を漏らして俯く。

この子との出会いはつい三時間前のこと。

有り体に言えば、行き倒れていたところをうちに連れ込んだのだ。



=========




「雨降るなんて聞いてねぇよ……!」


友人と飲んだ帰り、駅を出てから突然の雨に降られた俺は、パーカーのフードを被って無我夢中にアパートまでの道のりを走っていた。

途中、傘がないかコンビニによって探しても見たけれど、一足遅かったのかそれらしきものは見当たらなかった。

帰ったらすぐ風呂だな。

徐々に強くなる雨脚。

沁み込んでくる雨水は、俺の体温を奪う。

ぽつぽつと足元を照らす街灯。

暗闇の中、手掛かりになる明かりはそれだけ。

意識せずとも、その下に何か異物があれば視界の端が捉えてしまうだろう。

大雨だというのに。

夜も遅いというのに。


「君、大丈夫?」

街灯の下、真っ黒なローブのようなものを羽織って、カタカタと歯を鳴らしながら座り込む一人の女の子がいた。


「だ、だいじょうぶです……」


肩より上、フードから覗く短い髪。

猫のような目と、青紫の唇。

どこかで転んだのか、ローブには泥汚れもついていた。


「風邪ひいちゃうよ」
「い、行くとこ……ない……です……」


俺と同い年くらいか、一個二個下くらい。

この年頃だと、家出……だろうか。

震えも激しく、このまま放置したら本当に死んでしまうんじゃないか。


「一晩、うち泊まる?」

なんて、ナンパ見たいな文言で、見知らぬ女の子を家に誘う。

差し出した俺の手を、女の子はおずおずと握って立ち上がる。

氷のように冷たいその指先。

よろよろと後ろを歩くその子を気にしながらたどり着いて、アパートの鍵を開けた。


「シャワー先浴びて。着替えは……」


クローゼットのカラーボックス。

高校の頃のジャージの上下を取り出して、彼女に渡す。


「俺のはもう一着あるから気にしないで。脱いだのは……洗濯機に入れておいて。すぐ回しちゃうから」
「す、すみません……」


ジャージを受け取った女の子は、深く頭を下げて脱衣所に入っていった。

まだ震えが治まっておらず、呼吸も浅い。

放っておいたら本当に凍え死んでただろうな。


「へくしっ……!」


かくいう俺もだいぶ体は冷えて、顎はがくがくと細かく揺れる。

あの子が出たら、俺もさっさとシャワーを浴びよう。

そんで、すぐ寝よう。

すっかり日を跨いだ時計。

甘ったるい香水の匂いは、昨日から消え切らない。

その記憶は、机の下に転がったチューハイの空き缶が思い出させる。


「あ、あの……」

シャワーを浴び終えた彼女が、小さな声で俺を呼んだ。


「ドライヤーそこにあるから、髪乾かしてて。シャワーから出たら寝床の準備するから」

ベッドの下にあるドライヤーを指さし、俺も高校時代のジャージを抱えて脱衣所入った。

42℃のシャワーは、冷え切った体を溶かしていく。

一気に立った湯気は、乾燥にあえいでいた喉をじんわりと湿らせる。

残り少なくなったシャンプーと、潤沢なコンディショナー。

掛けてあったタオルを使い、ボディーソープを泡立てる。

浴室から出て、着慣れたジャージに着替えて部屋に戻ると、あの子は隅の方で膝を抱えて座っていた。


「えっと……名前は?」
「あ、アルノ……です……」

「じゃあ、アルノちゃんはベッド使って。俺はマットレス敷いて寝るから」


珍しい名前だな。

海外の子かな。

などと考えながら、クローゼットの上段。

昨日も使って、雑に押し込んでおいたマットレスを取り出して、そこに集めの毛布を放る。


「そうだ。おなかすいてる?」
「いえ……」

「じゃあ、ご飯は明日の朝だな。詳しい話もその時聞くとして……今日は寝よう」

アルノと名乗った女の子をベッドに促して、俺はマットレスの上に横になった。


「じゃ、おやすみ」

そして、電気を消して、目を瞑る。

次第に意識はぼんやりとしてきて。



・・・



シャンプーの匂いがした。

暗闇の中、雨の音がした。

夢か、現か。


「ん……」

どことなく、何かが近づいているような気がしたというひどく曖昧な理由で、俺は目を開けた。


「ん……!?」

そして、目を開けて視界に入った光景を見て俺の意識は一気に覚醒した。

何かが近づいていると思ったのは、気のせいなんかじゃなくて現実そのもの。

シャンプーの匂いがしたのは、彼女の顔が俺の目の前にあったから。


「ご、ごご、ごめんなさい!」

驚いた俺を見て驚いたのか、慌てて彼女は俺から距離を取った。


「な、なに……してるの……?」

まるで、キスでもされるんじゃないかって距離に顔があった。


「えっと……その……」

動揺しながらも、俺は部屋の電気をつけた。

そして、俺はさらに信じられない光景を目にすることになった。


「あ、悪魔……?」

彼女の頭には、小さな角が生えていた。

コスプレかとも思ったが、だとしたらあまりにも自然すぎる。

カチューシャとか、装飾品とか、そんなんじゃ絶対にないと思えるリアリティがあった。


「君は、何者?」
「……………」


彼女はへたりこみ、俯いたままないも言わない。


「君は……人間……?」


俺の問いかけに、黙り込んだままの彼女はふるふると小さく首を横に振った。


「じゃあ、何者……?」
「…………………」

またしばらく沈黙が流れたのち、彼女は口を開く。


「さ……」
「さ?」

「サキュバス……なんです……」



==========



「だめだぁ……」

タイムリミットの十八歳を過ぎてもなお、私はいつまでも出来損ないだった。

男性を誘惑して、その精力を搾り取る悪魔、サキュバス。

私はそのサキュバスの一人なのだが、サキュバスとして肝心の能力が機能していなかった。

それは、男性を誘惑する力だ。

人間の世界では夢魔とも呼ばれる私たち。

その名の通り、いい夢を見させて精力を奪うのだが、私は夢を見させられない。

初歩の初歩もできない私は当然、まだ人間の男性に出会ったことなんてなかった。


「アルノさん、夢を見させることは出来ましたか?」
「いえ、まだで……」

「あなた、本当に出来損ないなのね」


ずっと言われてきた。

毎日のように言われてきた。

夜になって、毎日のように涙を流す日々がもう何日も続いていた。

もう、逃げてしまって思っていた。



・・・



本当に逃げたのは、出来心。

人間界とつながる扉がたまたま開いていて、サキュバスとして半人前どころか八分の一人前くらいだった私は人間界に一度も行ったことがなかった。

好奇心が、私の足を動かした。

吸い込まれるようにその扉の向こうに行った私は、転がり落ちるように人間界へと足を踏み入れた。

始めてみる人間界は、キラキラと輝いていた。


「これが、人間界……」

降り立ったのは、多分山。

木が鬱蒼と茂り、さわさわと風が肌を撫でる。

思っていたよりも寒い。

思っていたよりも眩しい。

思っていたよりも、綺麗な世界がそこには広がっていた。


「すごい……」


みんなは、こんな感動もうしないんだろうな。

なんて、また誰かと比較して、勝手に私は落ち込んだ。


「せっかくだったら、ちょっと楽しんじゃってもいいよね……?」


人間の街をどうしても一目見たくて、私は意を決して山を下りた。

しかし、ローブ一枚では耳を隠すのも尻尾を隠すのも限界かもしれない。

そう思った私は、散策をあきらめて元の場所に帰ろうとした。


「あれ……?扉がない……」

さっきまであったはずの、扉がきれいさっぱり消えていた。

閉められてしまったのか。

だとしたら、次開くまで私は戻れない。

その場に座り込んで、扉があくまで纏うかとも思ったけれど、待てど待てど扉は開かず気が付けば辺りはすっかり真っ暗になっていた。


「夜になっちゃったよぉ……」


どことなく不気味なその森。

獣の気配をひしひしと感じ、ここにいたら危険だと第六感が告げる。


「逃げないと……」

帰れないのなら、この森からすぐにでも離れるしかない。

今なら暗いし、ローブを纏っていれば夜の闇にまぎれることもできよう。


「はぁ……!はぁ……!いでっ!」


木の根に躓き、どしゃっと音がして私は地面に転がった。



==========


「帰ろうにも、帰れなくて……」
「待って、状況が飲み込み切れない」


サキュバスって、あのサキュバスだよな。

創作上に登場する悪魔で、かわいい女性の姿だとか。

……まあ、たしかにかわいいか。

って、そうじゃないだろ。


「それで、さっきは何をしようと……?」
「き、キス……を……」

雨の音にすらかき消されてしまいそうなほど小さな声で、頬をほんのり赤く染めながら、伏し目がちにそう言った。

「さっきも申し上げた通り私、落ちこぼれで……。それでも、ちょっとでも精力は貰っておかないと生きられないくて……。こっちに来て、かなり消耗しちゃって……」


そう言うアルノちゃんの目には、じんわりと涙が浮かんだ。


「せ、性交渉は、その……は、恥ずかしいので……。寝ているうちにキスで精力をいただこうとしたのですが……」

運悪く、俺が目を覚ましてしまったと。


「本当に、ごめんなさい」
「謝ることでもないよ。じゃあ、キスする?」

「……………….!?」


キスくらい、抵抗はない。

俺はそうだったのだが、アルノちゃんはそうではなかったらしい。

顔を真っ赤にして、手のひらを広げ、腕を伸ばして顔を逸らした。


「サキュバス……なんだよね?」
「そ、そうですけど……!私、男性と話すのあなたが初めてなので……」

「……サキュバスなんだよね?」
「そうですってば!」


サキュバスなら、もっとこう……ね。

にしてはこの子、初心過ぎないか……?


「じゃあ、どうする?」
「精力って、ごく少量にはなるですけど、触れるだけでもいただけるんですよ」

「手でもつなぐ?」
「それだと、かなり時間がかかってしまうんです……」

「そしたら、どうする?」
「ハグは、どうですか…….?」


落としどころとして提案されたハグ。

それでも、サキュバスの彼女はかなり恥ずかしいようで。


「服、脱いでください……。それと、電気、消してください……」



・・・



雨はすっかり上がり、湿ったアスファルトが朝日を吸い込む。

あまりに衝撃的な昨晩の出来事。

夢だったのではないかと思ったけれど、ベッドで寝息を立てるサキュバスさんが現実の出来事であったのだと教えてくれる。


「腹減った……」

マットレスはそのまま放っておいて、俺は暖簾に隔たれたキッチンに立った。

今日は休日だし、目玉焼きでも作っちゃうもんね。

熱したフライパンに、卵を二個。

アルノちゃんの分も割り落とす。

その間に、トースターに食パンを二枚入れてダイヤルを回す。

ジイジイと音が鳴り、中のライトが赤く灯る。

フライパンに敷いた油が跳ね、それを鎮めるために少量の水を流し入れてふたを閉める。


「おはようございます……」
「起こしちゃった?」

「いえ……」

まだ眠そうに、大きなあくびをして目をこすったアルノちゃんが何かを察したのかキッチンにやってきた。

大きくて、ダボっとしたジャージのせいか幼さが覗く。


「ご飯できるから、もうちょっと待ってて」
「なにか、お手伝いします」

「じゃあ、冷蔵庫の水、コップに二杯注いで持ってて」
「わかりました」

アルノちゃんは俺の指示に素直に従い、それを見届けて出来上がった目玉焼きとトーストをお皿に移して俺もその後ろに続いた。


「どうぞ」
「わぁ……!あ、あの、いただいてもいいんでしょうか……?」

「もちろん。拾ったんだから、面倒はちゃんと見ないと」
「ペットかなにかと間違えてませんか?」

「じゃあ、手を合わせて」

俺が両手を合わせると、アルノちゃんは少し困惑したように手を合わせた。


「いただきます」
「い、いただきます!これ、なんですか?」

「いただきますは、そうだな……このご飯ができるまでの全てに敬意を払った挨拶なんだ。日本の文化って言うのかな」
「文化……」

「食べ終わったら、ごちそうさまでしたって言うんだよ」
「勉強になります……!」

小鳥のさえずりが外から聞こえ、窓からは朝日が部屋を照らす。

こんなにのんびりとした朝があるのか。


「美味い?」
「はい、美味しいです……!」


そう言って、初めてアルノちゃんは俺に笑顔を見せてくれた。


「よかった」

美味しいご飯って言うのは、種族の壁を越えて人を幸せにするものなんだな。

それに、幸せって言うのは、伝播する物なんだ。


「では、ごちそうさまでした」

食べ終えた食器とマットレスを片付け終えてもまだ午前八時半。


「…………これから、どうするの?」


こんな早い時間に、この話を切り出すつもりはなかったのだけれど。

それでも、こればっかりは聞いておかなければならない。


「帰るの?」
「帰らないと、とは思ってます……」


さっきの笑顔が嘘かのように、アルノちゃんの顔は見る見るうちに曇っていった。


「帰りたくない?」
「………………はい」

それもそうだよな。

気持ちは、わかる。


「じゃあ、帰らなくてもいいんじゃね?」


アルノちゃんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で俺を見た。


「帰りたくないんでしょ?」
「でも、ご迷惑になってしまいます。その……ご友人が、よく家に出入りしてるんですよね?」

「な、なぜそれを……?」
「えと……その……男性っぽくない、甘い匂いがしていたので……」

「まあ、それも一つの理由だよ。親戚を居候させてるってことにすれば、その辺の煩わしいことも減るでしょ。だから、今後向こうに帰るにしても、こっちに残るとしても、今後のことが決まるまではうちにいていい」
「でも、それはあまりにあなたにメリットが……!」

「じゃあ、炊事洗濯は分担制にしよう。はい、この話おしまい」


ここでアルノちゃんを見捨てたら寝覚めが悪い。

それに、都度俺の部屋に転がり込んでくる大学のやつらにもちょうどうんざりしていたころだったし。


「あなたには、感謝してもしきれません……」
「そういや、俺の名前言ってなかったな。俺、美作みまさか○○。○○でいいよ。これからよろしく、アルノ」

「はい。私、がんばります!」


こうして、サキュバスとの共同生活が始まった。



・・・



「そんじゃ、まずは家事を覚えるか。向こうではやってたの?」
「全くしてません」

「そこまではっきり言われると清々しいね」


開き直ったのか、なんだかアルノの表情が全体的に明るくなったような気がする。

これから共同生活を送ることだし、そうなってくれた方がこちらとしても過ごしやすい。


「どうしよっかな~。炊飯器、使ってみるか」
「炊飯器?」

「そう、お米を炊くのに使うんだ。そこの、丸いフォルムのやつ」


冷蔵庫の隣、白い三段の棚。

その二段目に置いてある炊飯器。

アルノは少し膝を折って興味深そうにそれを見つめる。


「でっぱり押してみて」
「ここですか?わあっ……!」

意外と勢いよく開く炊飯器の蓋に驚いたアルノが間の抜けた声で驚く。

かわいらしい声に、俺は思わず笑いがこらえられなかった。


「わ、笑わないでくださいよぉ……!」
「いや、あまりにも抜けた声だったから……!」

「だって、こんな勢いよく開くと思わなかったんですもん!」


とりあえず、お米の研ぎ方や炊飯器の使い方は教え切って、次は洗濯物。


「一応聞いとくけど、アルノと俺の洗濯物は別でいいよな?」
「どうしてです?」

「え、いっしょに洗濯されるの嫌じゃないの?」
「私はなんとも思いませんけど」


キスはあんなに恥ずかしがるくせに、下着を一緒に洗われるのは平気なのか。


「いっしょに洗濯したら、俺が干すこともあるんだよ?」
「それが、どうかしましたか?」

サキュバスの貞操観念がわからん。

じゃあどうしてキスは恥ずかしいんだ。


「一緒でいいなら、水道代も節約できるしありがたいよ。じゃあ、洗濯機の使い方、教えるぞ」


その後も、掃除機やオーブントースター。

IHも一応使い方を教えたけれど、果たして料理は出来るのやら。


「とりあえず、洗濯機回してみるか。はい、洗剤もって~」

と、アルノに洗剤を手渡したところで、俺の部屋にはインターホンの音が鳴り響く。


「ん、誰だろ。なんか頼んだっけ……?」

アルノへのレクチャーの途中ではあったものの、俺はその場を離れて玄関を開ける。


「はーい」
「お届け物でーす。美作さんであってますかね?」

「そうですけど」
「ダンボール二箱になるんですけど、どうします?」

「えっと、じゃあここに置いちゃってください」
「かしこまりましたー」


配達員さんが入り口付近にダンボールを重ね、玄関が閉まる。

ダンボールに書かれた差出人は、祖父だった。


「じいちゃんから……わ、野菜大量……」


ダンボールを開けると、大量の野菜。

じいちゃんが育てたやつだ。

スーパーに売られてるのよりもでかい。


「手紙だ」

野菜のほか、手紙も一枚入っていた。

ご飯はちゃんと食べているか、病気にはなっていないか。

友達はいるか、彼女は出来たか。

どれも、俺の近況を心配するような言葉が並んでいた。


「しばらく野菜には困らな……」
「きゃあ!」

感傷に浸っていた時、脱衣所から悲鳴が聞こえて俺は慌ててその声のほうへと向かった。


「どうした!って、何があった……?」


脱衣所には泡が一面に広がり、アルノはそれに塗れていた。


「アルノ、洗剤どれくらい入れた?」
「六杯……」

「入れすぎだ」

すぐに洗濯機を止めて、泡がこれ以上広がるのを阻止。

幸い、被害は最小限に抑えられたと見える。


「一旦、片付けよう」

うちにあるハンドタオルというハンドタオルをかき集め、泡を掬っては風呂場に流しを繰り返す。

二人でやればそこまで重い作業でもなく、せいぜい三十分も経ったか経ってないかほどで綺麗に泡は無くなった。


「すみません……お手数をおかけしました……」
「落ち込みすぎだよ」


項垂れて、見るからに元気のないアルノの頭を、俺は優しくなでる。

細く繊細な髪が指を抜け、アルノは少々驚いた表情で顔を上げた。


「誰だって、失敗くらいするさ。俺だってしょっちゅう洗濯機のスイッチ押し忘れたり、炊飯器の中に米残ってるの忘れたりするから」
「でも、○○さんにご迷惑を……」

「いいじゃん、迷惑かけても。そのくらい、家事の失敗なんてのは日常の一コマに過ぎないんだからさ」


家事を失敗したくらいで死ぬわけじゃないし、洗濯を完璧にこなせたからって世界が救えるわけでもない。

失敗したっていいじゃない。

「天気いいし、散歩でも行くか!」
「○○さん……。はい、行きましょう!」


眩むようなその笑顔。

喉の奥が、キュウっと絞まるような。

そんな感覚を飲み込んだ。



・・・



朝起きて。

すやすやと寝息を聞いて、目を覚ます。

サキュバスを拾って、一週間が経った。

うちにずっと人がいるって言うのは慣れたものだったし、自分のベッドに自分以外の人が眠っているのも人にも寄るけれど抵抗はない。

本当に、気が付けば一週間経っていたって感じだ。

朝は二人寝ぼけながらご飯を食べて、昼間は俺が大学とかバイトに行っちゃうから一緒に過ごしてはいないけれど、夜になって家に帰れば「おかえり」って迎えてくれる人がいる。

結婚生活ってこんな感じなのかな……なんて、思ったりもする。


「映画でも見る?」


家事を終えた夜九時。

課題は残っているけれど、一旦何かに逃げたい気分。


「見たいです!」


声をかけると、ベッドに寝転がっていたアルノは元気よく返事をして、床に座る俺の隣に腰を下ろした。


「何見る?」
「サメで」

「また!?まあいいけどさ」

アルノはなぜか、サメが好きだ。

あと、ゾンビ。

良くも悪くも、振り切ったものだからだろうか。

よくわからん。


「んじゃ、はじめ……」

リモコンの再生ボタンを押そうとした時。

テーブルの上に置いてあったスマホが着信が来たことを告げる。


「ごめん、ちょっと待ってて」


アルノに断って、一度ベランダに出る。

電話の主は祖父だった。


「もしもし、じいちゃん?」
『○○か』


低くて、ずっしりと届くような声。

不愛想だけど、どこか愛情を感じる。

そんな声。


「どうしたの、急に」
『元気にやってるのかと、気になってな』

「元気にやってるよ。そうだ、野菜ありがとう」

俺は、中学の頃から祖父母の家に住んでいた。

両親は俺を愛していなかった。

だから、実家から逃げるように下宿先として祖父母の家を選んだ。


『ご飯、食べてるか?』
「食べてるよ」

『友達はいるのか?』
「いるよ」

『彼女は、できたか?』


この間、野菜と一緒にダンボールに入っていた手紙。

そこに書いてあったのと同じことをじいちゃんは聞いてきた。


「彼女は……できてないけど」
『焦って作るものでもないからな。この人の人生を、自分の手で幸せにしてやりたい。そんな人と、出会うんだぞ』

「わかった。てか、なんで急に電話?」
『…………少し、お前のことが気になってな』


そう言って、「切るぞ」とかも言わないまま電話は切れた。

不思議な人だ。

本当に。


「ごめん。お待たせ」
「どなただったんですか?」

「じいちゃんだった」
「○○さんのお爺さんですか。どんな方なんですか?」

「不思議な人だよ。俺は、じいちゃんがいなかったら多分野垂れ死にしてただろうし」
「それはどうしてか、聞いても……?」

「いいけど、おもしろい話ではないよ?」


小さいころ。

小学校に上がったくらいだったか、両親の間には喧嘩が絶えなくなった。


「きっかけはなんだったんだろうな。多分、父さんがトイレットペーパーを替え忘れたとか、そんなだったと思うんだ」


些細なことで喧嘩して。

母さんは家事で忙しかったろうし、父さんも仕事で疲れていた。

二人とも、余裕がない時期だったんだと思う。

最初の喧嘩は、そんなくだらないことだったんだろうけど、それがどんどんとエスカレートしていった。


「人ってさ、余裕がなくなると相手を許せなくなるんだ」


きっと、普段から不満は溜まっていたんだと思う。

ある日。

あれは確か、小学校四年生のころ。

両親が、離婚した。


「不倫してたんだよ。それも、お互い。父さんはそれなりにいい会社に勤めているし、母さんはまあ綺麗な方だった気がする。そんなだったから、お互い相手には困らなかったんだろうなぁ」


改めて話してみても、お互いどうしようもない人間だ。


「俺は父さんのほうに引き取られたよ。でもまあ、ひどいもんだった」


新しい母親は、俺のことを愛してはいなかった。

というか、見てすらいなかった。

父さんも、俺を邪魔者として扱うようになった。


「殴られもしたし、怒鳴られもした。あんな家を早く飛び出したくて、中学に上がるのを機にじいちゃんのところに転がり込んだんだ」


事情を話すと、じいちゃんもばあちゃんも俺のことを快く受け入れてくれた。

ばあちゃんは仏のように優しい人で、じいちゃんは厳格な人だった。

叱られたことも、褒められたこともあった。


「○○さん、壮絶な過去をお持ちだったんですね」
「俺より過去が壮絶な人なんて、きっと山ほどいるだろうし、逃げられる場所があっただけマシだよ。さ、つまんない話はこのくらいにして映画見よう」


じいちゃんは、俺が大学進学を機に一人暮らしを始めてからたびたび連絡をくれていた。

でもそれは、野菜を送ってくれた時の手紙だったり、メッセージアプリが主。

電話で、なんてめずらしかった。



・・・



三日後。

じいちゃんが亡くなったと、珍しく父さんから来たメッセージで知らされた。



・・・



三日間、○○さんは地元に帰っていた。

留守の間、一人で退屈な時間を過ごしていた。

静かな時間が流れていた。

掃除、洗濯、コンビニでご飯を買ったり、なんとなくテレビをつけて動画サイトを漁ってみたり。

何かをしている時間もぼーっと考え事をしてしまっていた。

○○さんは、大丈夫だろうか。

つい最近、おじいさんの話をしてくれた。

おじいさんのことを話す○○さんの目は、”こどもの目”だった。


「ただいま~」

私の心配をよそに、帰ってきた○○さんは存外元気だった。


「ごめんね、急に空けちゃって」
「いえ。私は大丈夫なんですけど、その……」

「俺は、大丈夫だよ」

あなたなら、そういうと思っていた。

二週間ほど一緒に過ごしている私でも分かる。

○○さんは、強い人。

だからこそ、心配なんだ。


「今日は、ゆっくり休んでください。ごはんは……私が作りますので」
「ほんとに?じゃあ、ちょっとだけ寝ていいかな。ベッド、借りていい?」

「そんなの、私に断らないでくださいよ」
「ありがとう」

○○さんはベッドに寝転がると、すぐに目を瞑って眠りに落ちた。

シャワーを浴びたりするかなとも思っていたけれど、すぐに眠ってしまった。


「お味噌汁と、うーん……」

意気込んだのはいいけれど、何を作ればいいのやら。

私に作れるもんなんて限られていて、お湯に味噌と出汁を溶かすのがメインのお味噌汁と、目玉焼き、あとはウインナーを焼くくらい。

まるで朝ご飯のような献立になってしまうがしかたない。

どこかで○○さんに料理を習わなければ。

…………どこかで?

どこで。

いつまで私はここにいるつもりなんだろう。

いつまで私は○○さんの厚意に甘えるんだろう。


「今は○○さんのためにちゃんとご飯つくらないと……」




・・・



「○○さん、ごはんできましたよ」


テーブルに一人分のご飯を用意し終え、私は○○さんを起こすために声をかけた。

しかし、○○さんは中々目を覚まさない。


「○○さん?」

真っ黒な髪の毛。

長いまつげ。

いつもはしっかりしてる人だから大人っぽく見えるけれど、寝顔はどこか幼い。


「お、起きないと、悪戯しますよ」


なんて。

本当に起きないな、○○さん。

私はそっと、○○さんの頭を撫でてみる。


「ん……」

あ、反応した。

それでも、○○さんは目を覚まさない。

だったら、ご飯は温め直せばいいや。

私がベッドの傍らから立ち上がった時。


「ん……ごはん、できた?」
「は、はい!」

「なんか、した?」
「し、してませんよ~」

「ほんとかなぁ?」


私の心臓はバクバクと音を立てる。

もしかして、バレた……?


「まあ、いいや。いただきます」


よかった。

バレてないっぽい。

○○さんは、お味噌汁を一口啜ると、お椀を置いてうつむいた。


「あの、もしかして美味しくなかったですか……?」
「しょっぱいな……」

「す、すみま……」


出掛かっていた私の言葉は、寸前で消えた。

顔を上げた○○さん。

その瞳には、大きな涙が滲んでいた。


「味噌……入れすぎだな……!」


ぽろぽろと、滲んだ涙は雫になって零れ落ちる。

○○さんは食べる手を止めない。


「ごちそうさまでした。ごめんな、なんか涙出ちゃった。困らせたよな」


恥ずかしそうにする○○さんを見て、私は何を思ったかそっと抱きしめてしまっていた。


「アルノ……?」
「私も、どうしてこんなことをしているのかわからないです。でも……こうするのが、今は正しいと思うんです」


理屈とかじゃない。

直観?本能?

それでも、二人でいるこの空間で、○○さんを”一人”にしてはいけないと思った。


「大丈夫です。私は、○○さんがご実家でどんなことを経験したかわかりません。誰と、どんなことをお話ししたかも聞きません。それでも……私だけは、ずっと○○さんの味方です」


我ながら、恥ずかしいことをしていると思う。

変な汗をかき始めた私の背中に、○○さんは手をまわす。


「ちょっとだけ、こうしてていいかな?」
「お好きなだけ、どうぞ」

「ありがとう…….」

テーブルにあるスイッチを手繰り寄せて、私は部屋の電気を消した。

暗いアパートの一室、頭の後ろ、耳の横。

子供のような泣き声が響いた。



・・・



「すぅ……すぅ……」

泣き疲れたのか、○○さんは私に抱き着きながら眠ってしまった。

正直なことを言うと、このまま朝を迎えてしまってもいいのだが、さすがにそれは○○さんが寝違えたり風邪をひいたりしかねない。


「よっ……!意外と、重い……」

細身なのに、体重結構あるなぁ。

少し苦戦したけど、私は○○さんをベッドに寝かせて掛け布団をかける。


「ふふ、さっきより、子供みたい」


泣いた後だからかな?

泣き疲れて眠ってしまった、子供みたいな○○さん。

ほんのちょっとでも、私がこの人の心の支えになれていたらいいな。



・・・



気が付けば、朝だった。


「おはよう、はやいね。珍しく」
「おはようございます。珍しくは余計です。それに、全然早くありません」

俺が目を覚ましたころには、もうすでに太陽は頂点まで登ろうとしていて。

お腹がぐぅと音を立てて、もうそんな時間か。

なんて、二人して笑った。


「ご飯どうしましょう」
「作るのめんどいなぁ……。てか、なんかあったかな」


軽くなった体でベッドから降り、冷蔵庫の中身を確認する。

なんもない。

すっからかんの冷蔵庫。


「顔洗ったら買い物行ってくる」
「私も行きます!」

「んじゃ、準備して」

季節は冬も近づいているが、今日の天気は晴れ。

ぽかぽか、のんびりとした太陽が照らしていた。


「なんか、こういう休日も悪くないなぁ~」
「でも○○さん、今日は大学サボってるんですよね?」

「アルノも言うようになったね。まあ、その背徳感もたまらんのよ」

まるで時間がゆっくり流れているかのようだった。

二人で今日の晩御飯は何にしようか、なんて話しながらスーパーで買い物をするのは、はたから見たら夫婦か同棲中のカップルに見えるのだろうか。

てか、今の状態もほぼ同棲なんじゃ……とか思ったり。


「お肉!どうですか!」
「いいね~。がっつり行っちゃうか」

「やった~!」


喜ぶアルノと、レジを通ったステーキ肉。

前よりも無邪気になったというか、子供っぽいというか。

…………ふと、昨日のことを思い出して俺は恥ずかしくなってしまった。

俺、どうやって寝た?

最後に記憶に残ってるのは……

あぁ、アルノに抱き着きながらガキみたいに泣きじゃくった記憶……

もしかして、俺そのまま寝た?


「なあ、アルノ」
「なんですか?」

スーパーを出て、アルノに聞いてみることにした。


「一つ聞きたいんだけど、俺昨日……どうやって寝た?」
「忘れちゃったんですね……」

「わかった。その反応でもうわかった」

やっぱそうだったか。

そっかぁ。

そっかぁ……

今度、何かお詫びでもさせていただかないとな。


「もう一個聞いていい?」
「なんでしょう」

「今度土日、行きたいところとかない?」
「そうですね……。遊園地とか、行ってみたいかもです」

「遊園地ね。わかった」
「私からもいいですか?」

「いいよ」
「……向こうで、何かあったんですか?」

「簡単に言えば、やっぱり居場所がなくてさ」



==========



夜の住宅街は、孤独だった。

あそこにもう、居場所はなかった。

じいちゃんが亡くなって、ばあちゃんは父さんと暮らすことになったらしい。

俺の帰る場所は、逃げだしたころとはちょっとばかり変わってしまったあの家になった。

帰る場所、なんてのは体の話に過ぎず、俺の本当に帰る場所なんてのは無くなってしまった。

「つかれたな…………」

アパートのドアを開けると、静かに天井を見上げるアルノがいた。


「ただいま~」

声色は明るく。

口角は高く。

装って。


「ごめんね、急に空けちゃって」
「いえ。私は大丈夫なんですけど、その……」

「俺は、大丈夫だよ」


この子のほうが大変なんだ。

俺が弱さなんて見せるわけにはいかない。

「今日は、ゆっくり休んでください。ごはんは……私が作りますので」
「ほんとに?じゃあ、ちょっとだけ寝ていいかな。ベッド、借りていい?」


あーあ、ダメだったか。

疲れとか、見えちゃったかなぁ。

「そんなの、私に断らないでくださいよ」
「ありがとう」


俺は、着替えもせず、シャワーも浴びず、そのままベッドに寝転がった。

そして、寝転がってしまえばどっと眠気がやってきて、向こうで全然眠れなかったしわ寄せを感じながら俺の意識はすっと沈んだ。



・・・



懐かしい、幼いころの思い出の中にある温もりを感じた。

頭を撫でられるような感覚を感じた。


「ん……」

ぼんやりと意識が現実に戻ってくると、ベッドの傍らにはアルノが立っていた。


「ごはん、できた?」
「は、はい!」

「なんか、した?」
「し、してませんよ~」

「ほんとかなぁ?」

分かりやすく動揺しているアルノ。

この子、前科あるしなぁ。

「まあ、いいや」

テーブルに並んだお味噌汁、目玉焼き、あとはウインナーに白ご飯。

ホカホカと湯気が立ち、まるで朝ごはんの献立のようではあるが俺の腹はグゥと待ちきれない合図を送る。


「いただきます」


手を合わせて、しっかり『いただきます』をしてからお椀を持ち上げる。

味噌汁に一口、口をつけると、味噌と出汁の風味が口いっぱいに広がったのだが……しょっぱい。

きっと、味噌を入れすぎたんだろう。

だけど、俺のために作ってくれたんだ。

俺の、ために……

じんわりと熱が体に広がって、ツンと鼻の奥が痛む。

そして、じんわりと視界が滲んで、涙が頬を伝う。


「あの、もしかして美味しくなかったですか……?」
「しょっぱいな……」

「す、すみま……」
「味噌……入れすぎだな……!」

もう、涙は止まらなかった。




・・・



「いや~、我ながらうまく焼けてしまったな」
「○○さん、天才です」


今夜は贅沢にステーキ。

噛むと、口いっぱいにじゅわぁと肉汁があふれる。


「あの、まだ最後まで聞いてないんですけど」
「聞かないんじゃなかったの?」

「あんなところで切られたら気になるじゃないですか」
「笑うなよ。……誰かに、大丈夫って言ってほしかった。一人じゃないって、ここに居ていいって、言ってほしかったんだ」


少しの沈黙があって、


「ふふ」

アルノは、口を押えて控えめに笑った。


「笑うなって言ったのに……」
「すみません。でも、一緒なんですね」

「そう変わらないよ」


カーテンの隙間から月が覗く。

今日は、満月だったか。

月がえらく眩しく見えた。


「アルノは、これからどうするの?」
「私ですか……?」


寝る前の、ちょっとしたリラックスの時間。

お互い、パジャマとジャージに着替えて、床に座って寄り添いあう夜。


「うん。これから、どうすんのかなぁって。向こう帰ったりするの?」
「それが、何も決めてなくて……」

「じゃあ、しばらくうちに居てくれるんだ」
「いて、いいんですか……?」

「いいもなにも、居てくれないと困る」
「しょうがないですね……」

「急に偉そうだな」
「ふふ、すみません」

夜は深くなる。

月は徐々に小さくなる。

星はぱちぱちと弾ける。


「なあ、前できなかったこと、してみない?」
「前…………、き、ききき、キスですか!?」

「動揺しすぎ」


改めて、この子は本当にサキュバスなのか?

キスだけで動揺しすぎだろう。

…………いや、するか。

俺だって、自分で提案しておいてこんなにも心臓がドキドキと鳴っている。


「いや、ごめん。ちょっと早かった」
「いえ……!ちょっと待ってくださいね」


アルノが大きく息を吸い、それを時間をかけて吐き出す。

この部屋の空気全て吸い上げられてしまったのではないだろうか。

若干、空気が薄い。


「電気!消していいですか……」
「いいよ」

カーテンも閉め切られ、電気も消され。

辛うじて差し込んでいた月明りも、遮られてしまっては意味をなさない。


「目、瞑ってください」
「それはイヤだね」

「いじわる」
「いやいや、どうせこの状態でも見えないって」

「わ、私は見えるんです……!」
「すげぇ。サキュバスすげぇ」


この暗い中でも俺の顔見えるんだ。

俺なんてもう何も見えないのに。

若干羨ましいな。

俺もそんくらい視力よくなりたい。


「褒めても何にもでないですよ」
「ほんとに~?」

「ほんとです」
「ほんとっぽいなぁ」


さっさとすればいいんだろうけど、だらだら話してしまう。


「もしかして、○○さんも緊張してますか?」
「……してるよ」

「一緒ですね」


沈黙。

暗闇。

甘い匂い。


「じゃあ」
「うん」


なんて、行儀よく合図なんて送っちゃって。

そっと、唇が触れた。


「………………」

何かが、ごっそりと持っていかれたような気がしたけれど、それ以上に俺は満たされていた。


「…………しちゃいましたね」
「しちゃったな」

「もう、逃げられませんからね」
「そっちこそ」


再び沈黙。

そして次は合図もなく、どちらともなく、唇を重ねた。




………fin

いいなと思ったら応援しよう!