すきだよ しぬほど
「はぁ……」
休日の昼下がり。
行きつけのカフェ。
真冬のカフェには暖房がついており、一人暮らしの貧乏大学生には数少ない電気を節約しながらも快適に過ごせる数少ない場所。
お客さんは読書をしていたり、友達を談笑していたりと様々。
私はというと、期末のレポート課題がなかなか終わらず頭を悩ませていた。
「あの、すみません……」
「はい、お伺いします」
通りかかった、いつも見かける同い年くらいの男性アルバイトさんを呼び止め、メニューを開く。
「えっと…..」
やってしまった。
メニューを開いてから店員さんを呼び止めればいいものを、私は何の考えもなしに……
「あっ……えと…..」
ちらりと視線を上げると、店員さんは不思議そうな顔をしたのち、顔をそらして小さくあくびをした。
そんな行動に、私の胸はちくりと痛む。
「や、やっぱり……」
やっぱりいいですと言いかけて、私の喉はその言葉に蓋をした。
呼び止めておいて、やっぱいいですなんて、お仕事をしているのに大迷惑だろう。
ここは呼び止めてしまった私に非があるのだから、注文を何としても決めなと……
「あの、お客様」
「は、はい……!」
絶対、注文の遅い害悪客だと思われた……!
そんな不安から、私の目はメニュー表を滑っていく。
「お客様、もしかして乃木大の心理学科ですか?」
「は、はい……?」
「あ、間違っていたらすみません。僕が取っている授業で使っている教科書と同じだったもので」
「その……はい……。あってます」
「やっぱり!よかったぁ、間違っていたらどうしようかと思いました~。いつも、ここの席で難しそうな顔をしてパソコンと向き合っているのを拝見しておりまして」
私がメニュー表から顔を上げると、店員さんはまるで昼下がりの木漏れ日のような柔らか笑顔を浮かべていた。
しかし、ずっとこのカフェに通って課題をしているのがばれていた恥ずかしさで私は再び視線をそらした。
「もしかして、精神生理学のレポートですか?」
「そうです」
「大変ですよね~。僕も、まだ終わってないんです」
「片桐さんもですか……」
「そうだんですよ~……あれ、どうして僕の名前を?」
「胸の名札に書いてあるので……」
私がそう言って指をさした名札を確認した片桐さんは、二秒ほどの沈黙ののち、恥ずかしそうにはにかむ。
「忘れてました……!お恥ずかしい……。えっと、片桐○○です。心理学科の二年です」
「私も、二年です!あ……。中西アルノです…….」
思わず声が大きくなってしまい、私はあわてて口を紡ぎ、遅れて自己紹介を済ませた。
「同い年だったんですね。そしたら、どこかの授業であってるかもですね」
「かもです。あの、お仕事のほうは大丈夫なんですか?」
「そうでした……!ご注文、お決まりですか?」
「それがまだで……」
「そしたら、僕のおすすめをサービスさせていただきます。マスターにはうまく言っておくので」
「そんな……!いつも、悪いですよ……!」
「いいんですよ。このカフェは、そういったお客様へのサービス精神でできてるので。では、少々お待ちください」
そう言って、片桐さんはテーブルの上の空いたグラスを持ってカウンターへと戻って行ってしまった。
注文が遅い私を待ってもらった上に、気を使っておしゃべりもしてくれて、それだけに留まらず一杯サービスしてもらうなんて……
私は、ほんとにダメな奴だ……
「お客様、お待たせいたしました」
私が自己嫌悪に陥っていると、カップの乗ったトレイをもって片桐さんが声をかけてくれる。
「こちら、サービスのラベンダーティーでございます」
「あ、ありがとうございます……」
片桐さんのおすすめはどうやらラベンダーティーだったみたい。
きっと温かいであろうラベンダーティーは、うっすら湯気を立たせている。
「結構長い時間、レポートと戦ってますから。ラベンダーティーってリラックス効果があるんですよ」
「でも、やっぱりサービスなんて……」
「ほんとに気にしなくていいんですよ。マスターも、『お前見たいなやつならともかく、女の子になら喜んでサービスするよ』って言ってくれてるので」
おそらくマスターさんの真似なのであろう渋い声の物まねをしてそういうと、思っていたよりも似ていたのか自分で笑って「ごゆっくり」と去っていった。
「…………いただきます」
いまだ、ちょっぴり残る罪悪感を抱えたまま私は湯気の立つカップに口をつける。
一口啜ると、甘さが口いっぱいに広がり、ちょうどいい温かさが体の芯まで届いていく。
これはたしかにリラックス効果もあるだろうな。
私は、カウンターでグラスを洗いながら笑顔でほかのお客さんとお話をする片桐さんに、気が付かれもしないだろうけれどお辞儀をして、再びパソコンに向かい合った。
・・・
耳障りなアラーム音がワンルームの部屋に鳴り響く。
二度目のスヌーズで目を覚まして、カーテンを開いて朝日を吸収する。
まだまだ寝ようとする体へのささやかな抵抗。
身体を無理やりたたき起こして、本日の活動を始める。
まずはシャワーを浴びて、一晩たまった汚れを洗い落とす。
髪を乾かしてから冷蔵庫を確認すると、マスターから貰ったカレーののこり。
タッパーとカレーの間にはラップを挟んでいるため、洗い物も楽ちんだ。
炊飯器に入った昨晩あらかじめ炊いておいた白いご飯に温めたカレーをかけて床に座る。
糖分は活動の源。
毎朝きっちり朝ご飯を食べる。
その目的のために僕は毎朝早起きをしていると言っても過言ではない。
「いただきます」
きっちり命への感謝も忘れず、スプーンで掬って口へと運ぶ。
一晩寝かせたマスター特製のスパイスカレーは、お店で食べる時よりもさらに増したうまみとスパイシーさが目覚めをより快調にする。
「ごちそうさまでした」
もちろん、これも忘れない。
食べ終えた食器はさっさと流水にさらし、洗い物はためないようにしておく。
「よし」
家事を最低限終えて、大学へ行く準備だ。
パソコン、教科書を鞄に詰め込み、忘れ物の確認をして家を出た。
「うわ、さっむ……」
今年は暖冬だと聞いていたし、地元に比べればな、なんて思っていたけれど寒いものは寒い。
ため息も、白く染まって可視化される。
三駅分電車に揺られて到着した大学。
テストも近づいてきて、欠席回数もギリギリに達した生徒が多いのか、いつもよりも人が多い。
僕が到着するのとほぼ同時刻に来たバスからも人がなだれ出てくる。
僕は嫌な予感がして授業のある教室へと早歩きをした。
最初の授業は必修科目。
その分この授業を受ける生徒も多い。
そうして早歩きで教室にたどり着いたはいいものの、僕の嫌な予感は的中してしまった。
「席が……」
普段は大学に来ないような人たちがこんな時に限って早く来るものだから、いつもなら空いている席も今日はほとんど埋まってしまっている。
しかも、そのほとんどが数人のグループときた。
三人掛けの長机の端と端に座っているからなおさらたちが悪い。
だが、幸い僕は一人だけだし、どこも埋まっているなんてことはないはずだ。
そうして僕は背伸びをして講義室を見渡してみる。
「あ……!」
大学生なら誰しもが講義で確保したい、窓際一番後ろ。
そこの席は、ヘッドホンをした女子生徒が一人だけしか座っていなかった。
僕は人込みをかき分け、何とかその席にたどり着いた。
道中、これだけ人がいるのに誰もあの席に座らないってことは、相当誰か見知らぬ人との相席が嫌なのかもしれないという考えも過ったが、こればっかりは背に腹は代えられなかった。
「あの……。あ、中西さん……!」
「片桐さん……。どうかしましたか?」
突然声を掛けられ、びっくりした様子の女子生徒はよく見てみれば中西さん。
これは、顔見知りというアドバンテージが生かせるのでは……!
「あの、お隣いいですか?」
「どうぞどうぞ。荷物どかしますね」
三人掛けの長机。
左端から真ん中の大部分にかかった教科書たちを、中西さんが強引にどかす。
「全然、気にしなくても大丈夫だったのに」
「そういうわけには……!あ、先日はラベンダーティーごちそうさまでした」
「味、大丈夫でした?」
「はい!とってもおいしかったです」
「よかったぁ。あれ、僕が淹れたんです」
「そうだったんですか。お上手なんですね」
「マスターに比べたらまだまだです。コーヒーなんて特に」
それでも、美味しかったと言われるのは素直にうれしいな。
口角の上りが隠せているか不安だ。
「あと、おかげさまでレポートももう少しで終わりそうです」
「やば……。僕、まだなんですよね……」
「見ますか?」
「いいんですか……!それはぜひお願いしたいです……!」
「そしたら、どうしましょうか」
「今日は三限までなので、中西さんが授業終わり次第僕のバイト先のカフェなんて……」
場所の提案をしようとして、机の上に伏せたスマホが三度震える。
「メッセージですか?」
「多分」
「全然、見てください」
「すみません……」
スマホを確認すると、メッセージが三件。
いずれも、通知欄には【なお】と表示されている。
「奈央か……」
メッセージアプリを開いて、その内容を確認してみる。
【今日○○授業何限まで?】
【なおは今日四限まで!】
【終わったらごはんたべに行きたい!】
僕に残った選択肢は二つ。
中西さんの予定を確認して週末にレポートを見させてもらう。
もしくは、奈央との予定を週末にまわすか。
正確には残った選択肢は三つだ。
レポートを自力で終わらせる。
中西さんに見せてもらえる可能性が生まれた瞬間にsれは選択肢から除外してしまっていた。
三つめはなしだから……かくなる上は。
「あの、もしよろしければ、週末とか……空いてますか?」
「週末……」
僕の問いかけに、中西さんがスマホを確認する。
「日曜日、大丈夫ですよ」
「そしたら、日曜日お願いしてもいいですか」
「こちらこそです。あれ以外のレポートも中々終わってなくて……。一人だとどうしても怠けてしまうので、一緒に進められる人がいてうれしいです」
僕たちが予定を決めたタイミングを見計らったように、教授が講義室にやってきて授業が始まった。
・・・
授業が終わり、家に帰って朝にできなかった掃除をしていると、掃除機の音の中微かにインターホンの音がした気がしてモニターを覗く。
「あーけーてー」
「はいはい。ちょっと待ってて」
オートロックを解除して、玄関の鍵もあらかじめ開けておく。
掃除が途中なのが心残りだが、すぐに奈央が来てしまうので掃除機は片す。
「おじゃましま~す。おなかすいた~!」
「おなかすいたって、まだ夕方だぞ」
「今日なんにも食べてないの!課題全然終わらなくて……」
「児童学科の課題は見てやれないぞ」
「わかってます~」
奈央は床に荷物を置くと、当然とでも言いたげにベッドに寝転がった。
「あのなぁ、一応男の部屋で、男のベッドなんだぞ?」
「それもわかってるよ。わかったうえで、○○なら安心だと思ってるの」
奈央は一つ下の幼馴染。
小さいころから面倒を見ることも多かったし、僕も僕で奈央には奈央の両親含めてお世話になっている。
母は仕事で忙しく、父も幼いころに病で亡くしていた僕は、家が隣だったこともあって奈央の家にお世話になることも多かった。
奈央の勉強をよく見ることもあったし、奈央の両親が不在の時は二人で夕飯を済ませることも多々あった。
奈央が俺と同じ大学に進学するのを決めたのも勉強したい分野の学科があったことに加えて俺がいたことも理由の一つだったらしい。
その証拠か、奈央はベッドのそば、床に直接おかれた漫画を手に取って読み始めた。
課題ギリギリとか言っていたのに、そんな余裕があるのかどうかはわからない。
「僕はしばらく課題やってるから、ご飯はもう少し待ってね」
「はーい」
さっきまで自分で課題というワードを出していたのに、僕から出してみても反応なし。
この後、泣きながら追い詰められる未来は見えてるな……
僕は勉強机に向かい、パソコンを開いた。
課題は二個。
余計なことさえしなければ一時間もかからない。
スマホはなるべく手の届かないところにおいて、黙々とキーボードとの格闘をしていると、気が付けばボックスの表示が《未提出》から《提出済み》に代わっていた。
「んー!」
「課題終わった?」
「終わったよ。ごはん作るからもうちょっと待ってて」
「は~い」
気持ちのリセット兼切り替えのために一つため息をつく。
そして頬を軽く叩くと、僕のことを奈央がじっと見つめていることに気が付いた。
「○○、なんかやせた?」
「僕が?どうだろ……。でも、最近は食べる量自体は減ったかも」
「ダイエットしてるの?」
「そういうわけじゃないけど」
「私はね~、○○のお料理ダイエット成功してるよ。秋とお正月に食べ過ぎた分から二キロも落ちたんだ~」
「それはよかった」
奈央が来るときはより一層栄養バランスに気を使っている。
奈央がそれを知っているかはわからないが、別に気づかれなくてもいいやとも思っている。
「おなかすいた~!」
「はいはい」
こうして急かされるから、時間のかかる揚げ物とかは作れないし。
・・・
「お待たせしました」
行きなれたカフェ。
私がよく座っている、店内の奥の一番端の席。
私よりも早く来ていた片桐さんは、文庫本を片手に見慣れない眼鏡をかけていた。
「全然待ってないですよ。注文、しましょっか」
やわらかい笑顔でそう言って、片桐さんがメニューを広げる。
「僕は……ココアにしようかなぁ。このカフェでマスターが密かに推してるのがココアなんですよ」
「たしかに、ここのココアっておいしいですよね。私もココアにしようかな……」
「りょーかいです。マスター!」
・・・
「おわったぁ~!」
「つかれたぁ……」
レポート二つを終えて、二人して背もたれに体を預ける。
「目、しょぼしょぼしてきた……」
片桐さんが眼鏡を外して目薬を差す。
「そういえば、今日は眼鏡なんですね」
「コンタクトだと、長時間の課題とかには向かないですから。もしかして、似合ってないですか?」
「い、いえ……!そういうことを言いたいんじゃなかったんです……!」
「ふふ、冗談ですよ。別におしゃれでつけてるわけじゃないですから。それより、お腹すきません?」
「そうですね。何も食べずに五時間ですか……。おなか、すきました」
「そんなことだろうと思ったよ。二人とも、お疲れさん」
この間、片桐さんがものまねをしていたよりもずっと渋い声のマスターさんが、トレイからカレーを二皿私たちのテーブルに置く。
「このカレーは俺からのサービスだ」
「いいんですか?」
「もちろんよ。前途ある若者を大切にするのも、俺みたいな老骨の仕事だからな」
「マスター、そんな年じゃないじゃないですか」
「うるっせえなぁ。俺がかっこつけてんだから、○○は黙ってカレー食ってろ!」
マスターは優しくそういうと、照れ隠しなのかそそくさとカウンターの奥へと姿を消した。
「いただきます」
「いただきます」
一口、口に運ぶとまだ口に入れてもいない段階からスパイスの香りが鼻孔を貫く。
「おいしい……!」
「おいしいですよね、マスターのカレー。なんか、コーヒーとすっごい合うらしいんだけど、僕コーヒー飲めなくて……。中西さんは?」
「私も、飲めない……」
「あれは大人の飲み物だよねぇ」
「でも、カレー単体でも、今まで食べたものよりもおいしいです」
「それ聞いたら、マスター喜ぶよ」
あまりにおいしくて、本当に気が付いた時にはお皿にカレーが残っておらず、満足感だけが残る。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「外、暗いですね」
「ですね」
「お開きにしますか」
「そうですね」
お会計を済ませて、ドアにつけられたベルがカランコロンとなる。
外はもう月と星、それと街灯。
寒さもお昼よりだいぶ厳しくなってきている。
「さっむ……」
「片桐さんは、寒いのはお嫌いですか?」
「好きでは、ないかもです」
「そうですか……」
「中西さんは、寒いの好きなんですか?」
「好きというと、違うかもしれないですが、文句を言いつつも寒いからこそできる思い出というのもあるんじゃないかって思うんです」
白い息だったり、もこもこのマフラーだったり、あえてアイスなんて食べてみたり。
それに、この辺りじゃなかなか降らない雪だって……
「あ……」
ひたりと頬に何か冷たいものが触れた。
空を見上げると、不定形な結晶が淡い光に照らされながらゆっくりと地面に落ちていく。
「雪……」
「珍しいですね。東京で雪降るなんて」
「雪は好きですか?」
「どうでしょう……。でも、ちょっとだけ好きになりました」
「それはよかったです」
徐々に、空から降ってくるわたあめみたいな結晶はその数を増やしていき、うっすら舗道を白に染めていく。
「これは積もるかもですね」
「かもですね」
「こうなったら、逆に雪国にでも行ってみたいです」
「北海道はさすがに遠いですかね」
「長野とか、ちょうどいいんじゃないですか?」
「たしかに。でもまずは、テストを乗り越えてからですね。それと、ずっと言おうか迷っていたんですけど、片桐さんだと堅苦しくないですか?」
「そしたら、片桐くん……?」
「それでいきましょう」
「じゃあ、片桐くんも敬語外して。私もそうするから」
「うん。わかった」
「帰ろっか」
「だね」
どちらともなく、冷え切った手を握ろうとした。
そっと触れた指は思いのほか冷たくて。
「え……?」
倒れ行く片桐くんを見ながら私の手が切った空は、もっともっと、冷たかった。
・・・
「入るよ?」
「どーぞ」
窓の外は木枯らしが茶色く染まった枯葉を巻き上げて空へと運ぶ。
季節はもうすぐ二月。
「体調どう?」
「悪くはないよ」
「無理しないで、わたしにできることあったら言ってね?」
「暇つぶしに本が何冊かほしいかな」
かれこれ二週間、僕の行動圏は病室のベッドの上が精いっぱいだった。
「本は明日持ってくるね。何かリクエストとかある?」
「奈央に任せるよ。自分で選べないからこそ、普段触れないジャンルの物語にも出会えるかもしれないしね」
僕が倒れたのは二週間前、中西さんと期末の課題を終わらせようとカフェで勉強会をしていた時。
その帰り際に僕は突然意識を失った。
「もうすぐでアルノさんも来るって言ってたよ」
「わかった」
救急車で運ばれて、気が付けば二日経っていて、病室のベッドの上で……
状況を飲み込むことも困難だったが、しばらく時間を置いてみればそんなものかと納得もできた。
その要因としては父のことが大きい。
僕が目を覚まして伝えられた病名は、父が亡くなったものと同じだったからだ。
「それじゃあ、私はアルバイトあるから帰るね」
「あれ、奈央こんな時間から行くようなアルバイトしてたっけ……?」
「まあ…..。そ、そんなことより、アルノさんに迷惑かけちゃだめだからね!」
「わかってる」
「じゃあ、また明日も来るね」
「気を付けて」
奈央が病室を出てから程なくして、再びドアがノックされ中西さんが姿を見せる。
「入るね」
「どうぞ」
遠慮がちに病室に入ってきた中西さんは、手に持っていた紙袋をテーブルに置き、奈央が片付けずベッドの傍らに残していった椅子に腰をおろした。
「体調はどう?」
「変わりないよ」
「そっか……」
「そんな暗い顔しないでよ」
「でも……」
変わらないということはよくもなっていないということ。
しかし、食欲は徐々になくなっているし、体重もおそらく減っていることだろう。
日に日に細くなっている腕を見れば火を見るよりも明らかだ。
「中西さんのせいじゃないよ。もともと進行はしてたみたいだし、それに気が付けなかった僕の責任なんだし、あの日誘ったのも僕のほうなんだから」
中西さんは、ほぼ毎日顔を出してくれているが、ずっと表情は暗いまま。
あの日のことを、中西さんが悪いと思うことなんてないのに。
「……そうだ、マスターは元気だった?」
「うん。でも、やっぱり心配してたよ。お見舞いにも行こうか迷ってるみたいだったけど、おじさんが行くのも気が引けるって」
「来てくれてもいいのに」
「伝える?」
「お願い」
「そうだ。マスターからプリン預かってきてるよ。甘さは控えめにしてあるって」
紙袋の中身は、マスター特製のプリン。
病人の自分に合わせて作ってくれているらしい。
「スプーン、もてる?」
「労わりすぎだよ。さすがの僕も、スプーンくらい……」
僕は、確実に中西さんからスプーンを受け取ったと思っていた。
しかし、見慣れた金属製のスプーンは、小さなくぐもった音を立てて掛け布団の上に落ちた。
「あれ、ごめん」
「やっぱ、食べさせてあげるよ」
「ごめんね……」
「あやまらないで。私がしたくてしてることだから。口、開けて」
口に運ばれるちょっとだけ固めのプリンは、甘さが控えめというよりも、カラメルの苦さのほうが際立っていて。
それでも僕が最大限にプリンという食べ物を楽しめるように、マスターが考えに考えていたんだろうなということが伝わってくる。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「お粗末様でした?それ、作ったのマスターなんじゃ……?」
「あ……」
中西さんは、しまったというような風に慌てて口元を抑えた。
もしかしてこのプリンは……
「これ、中西さんが作ってくれたの?」
「実は……はい……。どうしても私が片桐くんに何かをしたくて。それで、マスターに片桐くんの好みとか聞いて……作ったんです」
「そっか……」
「あの、まずくなかった……?」
「すごい美味しかった。ありがとう」
そうか。
やっぱり、中西さんが。
それにマスターも。
「中西さん」
「は、はい……!」
「ありがとう」
・・・
「ありがとう……か……」
朗らかで、やわらかくて。
まるで、昼下がりの陽光のような。
そんな笑顔で、片桐くんは私に「ありがとう」って笑いかけた。
私なんかに、「ありがとう」……と。
「片桐くん……」
病院から出ると、来たときより幾分かは寒さが和らぎ、冷たい空気の中を優しく太陽が温める。
温かい。
間違いなく、町は温かいはずなのに。
「くるしいよ……」
きっと、洗濯をしたってこのしわは取れないだろう。
「くるしいよ、私」
そのくらい、私を締め付けるこの胸の痛みは徐々に徐々にと強くなっていって。
私は、ただ立ち尽くすことしかできない私が嫌いだ。
・・・
いつからだろうな。
大学に入学してすぐ、亡くなった父の友人が経営していたカフェでアルバイトをさせてもらうことになった。
その場所に根付いた、地域の人に愛されるカフェで、常連のお客さんとマスターの間に築かれた信頼関係を羨ましいとすら思わせるくらいに愛されているカフェだった。
「接客ってのは、心なんだ。ただのお金のやりとりじゃない。サービスをするやつ、受けるやつ。互いが互いを思い、互いが互いのためにと動くときはじめてその心ってやつが生まれるんだよ。まぁ、あれだな。人と人とのつながりの中にこそ”心”ってのはあるんだよ。だからそれを、”真心”っていうんじゃねぇかな」
「難しいですね」
「へっ。目の前のお客さんに真摯になってみな。それか、好きな女の子のことでも想像すれば、お前もちっとはその真心ってやつが理解できるかもな」
「マスターはそのような方が?」
「お、俺の話はいいんだよ。老いぼれのコイバナなんて聞いたって面白くもないだろ」
「マスターはそんな歳でもないですよ」
「口が減らねぇな、お前は。グラスでも洗ってろ」
マスターは、ぶっきらぼうというか、言葉遣いが荒いというか。
自分のことを話すのとか、自分の信念を誰かに話すことが照れくさい性格なんだと思う。
だけど、
「マスターも心を若者に説くようになったんだねぇ」
「あんたも口が減らねぇなぁ」
「やっぱり、キミちゃんとの出会いが変えたんだねぇ」
「いつの話だってんだ。ほら、そんな与太話じゃなくて注文なら喜んでお聞きするけど?」
「じゃあ、もう一杯コーヒー貰おうかねぇ」
「あいよ。少々お待ち」
だけど、その根っこの部分は無償の愛でできているような人だ。
「はいよ、コーヒー。それと、フィナンシェのサービスだ」
「おしゃれなお菓子を置くようになったもんだねぇ」
「あそこの小僧が考えたんだ」
「ありがとうね、ぼっちゃん」
「いえ、とんでも…..」
「ぼっちゃんじゃなくて、あいつは片桐○○って言うんだ。そのうちこのカフェのマスターにもなってるかもな」
「そうなのかい?あらためて、ありがとうねぇ、○○くん」
「いえ……!ごゆっくり!」
この時にちょっとだけ、マスターの言っていた真心というものを理解できた気がした。
でも、その次にこの言葉を理解できた時はやっぱり、彼女が初めて来店したときだった。
真心……というよりかは、下心だったのかもしれないけど。
それでも、あの人に喜んでもらいたい。
自分の接客に満足してもらいたいって気持ちは本物だった。
「アオいねぇ。一目ぼれか」
「お恥ずかしながら……」
「でもまあいいんじゃねぇの?その子と仲良くなれようがそうじゃなかろうが、お前も俺の言うことが分かってきたてことだ。それに、俺が初めて心から満足してもらいたいって思った客も、お前と同じような理由だったよ」
うん。
そうだ。
真心でも、下心でもなかった。
きっと……
────きっと、恋心だったんだ
「けほっ……!」
喉に違和感を感じて咳をしてみると、口の中に鉄の香りが広がった。
違和感を感じて洗面台で口をゆすぐと、吐き出した水は真っ赤だった。
「先は、長くないかもなぁ……」
なんとなく、命をろうそくみたいなものだと仮定するなら、僕の命はあと数センチあるかないか。
「心か……」
僕の心は今、誰との間に漂っているんだろう。
・・・
「今日も、お見舞いに何か持っていくのかい?休みだってのに、熱心だねぇ」
「そうしたいと、思ってます。マスターも、お休みの日にすみません……」
「いいのいいの。できる限り協力はするよ。あいつの父親とは旧知の仲でな。あいつが死んじまう前、俺にあの坊主のこと頼んできたんだ。バカだよなぁ、ほんと」
「でも、片桐くんのお父さんの気持ちもわかるきがします。マスターは、いい人ですから」
「小恥ずかしい言うねえ、アルノちゃんも」
「でも、そこまで片桐くんのことを大切に思っているのに、お見舞いには行かないんですか?」
「…………行かねぇよ」
遠い目でお店の外で降る雪を眺めるマスター。
悲しげな表情で、コーヒーを一口飲み込んだ。
「顔は見たくないんですか?」
「見てぇに決まってる。でもな、見たくねぇんだ。息子が弱った姿なんてな」
「息子……」
「あぁ、息子だ。○○は俺のことをただの父親の知り合いの爺だと思ってるかも知れねえけど、俺にとってあいつは大切な息子なんだ。…………で、今回はどうすんだ?」
「そうですね……」
ずっと……いつからかなんてわからない。
でも、ずっと。
私は、このカフェが好きで、このカフェで働いている彼のことを目で追うあの時間が好きで。
『ご注文、お伺いします』
『僕のおすすめは……』
『そのメニュー、僕が考えたんです』
「フィナンシェにします。あのメニューは、片桐くんが考えたんですよね?」
「知ってたのかい。○○に聞いたことでもあったのかい?」
「はい。一年……もうすぐ二年前になるころ。大学入学直後で私、友人もできなくて……不安だったんですけど、このカフェは安らぎの場所だったんです。それで、片桐くんはいつも親身に接客をしてくれて……その時に。このカフェにいる時間は、私の不安とか悩みとか忘れられたんです」
「そうかい。アルノちゃんと○○の間には、きちんと心があるんだな」
「心ですか……?」
「そう、心だ。心ってのは、自分の胸にあるわけでも、頭にあるわけでもない。人と人の関わりの中に生まれるんだ。ってのも、俺の尊敬する女房に教わったんだけどな」
恥ずかしそうに。
恋をする、一人の男性のような笑顔でそう言った。
「じゃあ、真心込めてあいつへのお土産作りな。きっと、アルノちゃんと○○の間につながる心は、○○にもちゃんと伝わるよ」
「はい……!」
私が袖をまくり、フィナンシェづくりを始めようとしたとき、カランコロンとドアについたベルが鳴る。
「すまんなぁ、今日は休み……。あれ、奈央ちゃん?今日は休みだぞ?」
「すみません、お休みの日に押しかけてしまって」
お店にやってきたのは奈央ちゃん。
どこか決意を固めたような表情で、背筋を正していた。
「それは別にいいけど……またどうして」
「わ、わたしにも、お菓子作り手伝わせてください!」
「だってさ、アルノちゃん」
「私ですか……?」
「わたしも、○○のために何かしたいんです。わたしはずっと○○に甘え続けてきて、それなのに○○が辛い時には何もできない……。わたしも、○○のためになりたいんです……!」
目に涙を浮かべながら、奈央ちゃんはそう言い放った。
大きな目に溜め込み切れなかった涙が一筋、頬を伝う。
「一緒に……一緒に、つくろう」
「アルノさん……!わたしも作る!」
「アルノでいいよ。奈央」
「…………!うん!」
「まずはちゃんと手、洗いな。○○の考えたレシピを教えてやるから」
マスターはどこか嬉しそうに、もう湯気の立っていないコーヒーに口をつけた。
私たちは手を洗って、材料と器具を揃えてキッチンに立つ。
「よし、はじめよっか!」
「その……フィナンシェ作る前に、アルノに一つだけお願いしたいことがあるの」
「お願い?」
「そう。大事なお願い」
・・・
「いらっしゃい。今日は、二人一緒なんだね」
「うん。具合、大丈夫?」
「大丈夫。変わりないよ」
「そっか。あ、これ今日のお土産」
中西さんが紙袋から取り出したのは、フィナンシェ。
フィナンシェといえば、うちのカフェで僕が置いてはどうかとマスターに提案したメニューだ。
「マスターに作り方習ったの?」
「まあね!わたしも、アルノと一緒に作ったんだよ」
「奈央も一緒にね……。あれ、二人っていつの間にそんなに仲良くなったの?」
「秘密。口開けて」
「んあ」
固すぎず、やわらかすぎず。
甘すぎず、苦すぎず。
自然と、胸のあたりが温かくなるような。
「おいしいよ」
心の……”真心”のこもった、フィナンシェ。
「本当に、美味しいよ……」
自然と、涙が零れてしまった。
「よかった。フィナンシェ、片桐くんがマスターに提案したお菓子だったんだって聞いたよ」
「なんか、懐かしくなっちゃった」
「…………ねえ、○○」
「どうかした?」
「○○、やりたいこととか、ない?」
「やりたいことかぁ……」
空はオレンジに染まり、もうすぐ日の入だということを知らせる。
そんな空を二羽、黒い影が雲一つないキャンバスを切り裂くように羽ばたいた。
「羽があればなぁ……」
「羽……?」
「……多分、僕はそんなに長くないんだ。徐々に体に力が入らくなっているのを感じるし、苦しい日も多い。だから最後くらいは、そうだな……雪でも見ながら、コーヒーとか飲んでみたいな」
それはきっと、僕の体にとって決していいこととは言えないだろう。
それでも、最後くらいは自分の好きに生きたい。
好きに生きて、満足して死にたい。
「アルノ……」
「奈央……」
二人は、示し合わせていたかのように目を合わせると、小さくうなずいて再び僕のほうを見た。
・・・
「アルノ……」
「奈央……」
ここに来る前、二人で交わした約束。
『お願い?』
『そう。大事なお願い』
『何でも言って』
『もし、○○がやりたいこととか、行きたい場所とかを言ってくれたら……。その時は、アルノが○○と二人で行ってきてほしい』
『どうして?奈央も一緒に……』
『それじゃ、ダメなの。○○はきっと、私の前じゃ肩の力を抜いてくれない。○○ってね、わたしの前で泣いたことないんだよ。わたしが泣き虫だからだと思う。それに、今の○○となんて、絶対……泣いちゃうから……。だから最後まで、私の前での○○でいようとしちゃうと思うから……。だから、その時はアルノが二人で……お願い』
「片桐くんが行きたいところ、私が連れていく。どこでも行って。あ、でも、海外は厳しいかも……」
「さすがにわかってるよ。奈央は……?」
「わたしは、行けない」
「…………そっか」
奈央の表情を見て何かを察したのか、片桐くんは目を伏せて微笑んだ。
「行きたいところあったら……」
「雪を見に行きたい」
私の言葉をさえぎって、窓の外に目をやった片桐くんがそういう。
「わかった。場所は私が探しておくから、そうだな……一週間後、二日間外出の許可を貰っておいて」
「一週間か……」
「そう、一週間。絶対だからね」
「うん。絶対だ」
・・・
「お待たせ。荷物も心も準備はいい?」
「うん」
一週間後。
体調は特に変化もなく、良くも悪くもない状態が続いていた。
「朝一だけど、まずは行かなきゃいけないところあるから」
「……そうだね。一度も顔を見せない”父親”に会いに行かないと」
「……歩ける?」
「そこまで弱ってないよ」
ベッドのシーツを整えて、病室を出る。
久しぶりの外の空気。
窓を開けて喚起するのとは物が違う。
「冬の空気が気持ちいいね」
肺を突き刺す澄み渡った、冬の早朝の空気。
清らかなそれは、僕の体を蝕む病すらも吹き飛ばせそう。
「あ、タクシー着いてる」
「なんで?」
「配車してくれたんだよ。『距離はそんなにねぇけど、歩かせるのはあいつの体に悪いだろう』って」
「顔見せない癖して、優しいんだから……」
あらかじめ配車されていたタクシー。
行先も、伝えることなく発進する。
車内で特に会話はなかった。
揺れるタクシー、葉が落ちて枝だけになった街路樹。
そろそろバレンタインだと伝えるコンビニの旗。
そういえば、バレンタイン限定のガトーショコラを、今年もマスターは作るのだろうか。
そんな、訪れてもおかしくない未来のことを考えていると、いつの間にかタクシーは目的の場所に到着していた。
「緊張してる?」
「ちょっとだけ。いつも来てた場所のはずなんだけどね」
「私から行こうか?」
「……いや、僕の手で扉を開けるよ」
ドアノブに手をかけ、大きく息を吐く。
これが、最後かもしれないから。
カラリコロンとドアベルが鳴る。
コーヒーの匂いが微かに残る店内。
「いらっしゃい。今日は貸し切りだ」
カウンター席に座って、コーヒーをお供に新聞を読んでいたマスターが立ち上がる。
「マスター」
「おう、おかえり。注文は?」
「話す時間を」
「十分だけだ。ほら、座んな」
「私、外で待ってるね」
中西さんはそういうと店の外に出る。
テーブル席に移動したマスターについて、僕はその対面に座った。
「ずいぶん痩せたな」
「そうかもしれないです。実際、食欲も落ちてますし」
「アルノちゃんが作ってったお菓子はちゃんと食べてんのか?」
「食べてますよ。最初はマスターが作ってるのかと思いました」
「それだけ、アルノちゃんも上達してたってことだな」
「…………マスター。どうして、お見舞いに来てくれなかったんですか」
優しかったマスターの表情が陰りを見せる。
「行きたくなかったんだよ」
「マスター……」
初めて見た。
一滴、テーブルに落ちたそれを、僕は初めて見た。
「親より先に死ぬ息子が……何処にいるってんだ……」
「…………っ!マスター……」
マスターの涙を、初めて見た。
「もう、行くんだろ」
「うん。雪を見に行くんだ」
「この辺りじゃ積もらないからなぁ。一面の銀世界ってのは、綺麗だぞ」
「楽しみだ」
「帰ってきたら、土産話を楽しみにしてる」
「たくさん話すよ」
「行ってこい、○○」
「行ってくるよ、父さん」
ドアベルが鳴る。
木枯らしが吹く。
涙は乾いた。
「ちゃんと話せた?」
「話せたよ。帰ってきたら、また話すよ」
「じゃあ、私はちゃんとここまで送り届けないとだ」
「頼むよ、中西さん」
「アルノでいいよ」
「僕も、○○で」
・・・
暖房の効いた車内と外気温の差で窓が曇る。
田舎の電車はほとんど人もおらず、ちょっと前まで乗っていた東京の満員電車と本当に同じ乗り物なのだろうかと首をかしげてしまうほどだ。
向かい合ったボックス席では、お互いの仕草がよく見える。
トンネルに入り、窓から正面に目をやると、中西さんが僕のほうを見ながらそわそわと指と指を絡めていた。
「寒くない?」
「気を使いすぎだよ。電車の中は暑いくらいだよ」
「だ、だよね……」
「もっと肩の力抜いて。僕のほうが緊張してきちゃう」
長いトンネルを抜けて、再び視線を窓にやる。
「アルノ、外見てみて」
「外……?わぁ……」
山肌を染め上げる一面の銀景色。
東京にいたら絶対に見られない、誰にも荒らされていない雪の世界に、僕らはしばらく会話をすることすら忘れて見入ってしまった。
次に僕らが言葉を発したのは、電車のアナウンスが目的の駅に到着したことを知らせた時だった。
「ここで降りるよ」
「ん。わかった」
「使って」
アルノが僕より先に席から立ちあがり、僕に向けて手を伸ばす。
「ありがとう。借りるね」
僕はその手を支えに立ち上がる。
掴んだ手は想像よりも小さな手で、やわらかくて、温かかった。
「あの、アルノ……?」
立ち上がるために借りた手だから、立ち上がったら離さないと。
そう思って僕は指を開いたのだが、アルノの指は未だ僕の手を締め付けたまま。
「なぁに?」
あざとく、小首をかしげるアルノ。
「もう、手いいのではと思うんですけど……あの、いたい……」
「よくない。この旅の間、なるべくこうしてること」
「はい……」
「よろしい」
僕の返答を聞いて、アルノの指が少しだけ緩む。
「では、いざ」
無人駅の改札をくぐって、ついに駅を出る。
「雪だ」
「うん。雪だ」
駐車場に車こそ止まっているけれど、ガードレール脇に追いやられた壁はまごうことなく雪。
幼いころ、一度だけ記録的な降雪になり、兄と雪合戦をした日のことを思い出す。
「これだけ積もった雪って、踏みしめるとどんな感じなんだろう。もう覚えてないや」
「せーので一歩踏み出してみよ。いくよ、せー……」
「の……!」
踏み出した足は真っ白な大地を踏みしめて、足を差し込んだ時は柔らかかった雪は体重をかけられて固まる。
「おぉ~」
「おぉ……」
二人して積もった雪というものになじみが薄い僕たちは、それらしいリアクションをするでもなく、感嘆の声を漏らすのみだった。
「これからどうするの?」
「一回、宿に荷物置いてっちゃお。一泊分とはいえ、荷物にはなっちゃうから」
「これを背負ったまま一日動くのは大変そうだもんね」
駅からバスに揺られて三十分弱。
銀嶺が一望できる、客室露天風呂付の昔ながらの旅館。
「ほんとにここに……?」
「そうだよ。この為にアルバイトしてたんだから。それに一泊くらいなら、まあ……しばらくごはんは一食にすれば……」
「それは身を削りすぎだよ……」
「うそうそ。これもマスターが助けてくれてるから。帰ったら、ちゃんとお礼言いに行こうね」
「そうだね」
宿に荷物を置いた僕たちは、アルノの案内でもう一度バスに乗り込んだ。
「どこまで行くの?」
「雪を見に。しばらくバス乗るから、眠かったら寝ててもいいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……。着いたら……起こして……」
今朝は早かったから。
体力も落ちてるし。
なんて御託を並べてはいるけれど、こんなに早く眠りに落ちる理由にはならない。
「おやすみ、○○」
理由なんて、この安心感に他ならないから。
・・・
「おやすみ……アルノ……」
バスに乗る時間は一時間弱。
○○は、目を瞑るとすぐにすやすやと眠りに落ちた。
「子供みたい……」
普段がしっかりしているからか、初めて見た○○の寝顔は印象に反して幼く見えた。
そんな○○の寝顔を見て魔が差した私は、手持無沙汰の左手でそっと○○の髪の毛に触れる。
固くて、しっかりとした髪の毛。
毛量も多いし、そういう犬を撫でているみたいな……
いやいや、犬は失礼か。
「ふふ……」
気持ちよさそうに寝るなぁ。
これだと、ただの旅行みたい。
「君は……ほんとうに死んじゃうの?」
もちろん返答なんてない。
でも、「そうだよ」なんて帰ってくるよりは全然いい。
むしろ、その返答を聞きたくないけれど、この質問だけはしておきたかったからこそ今のタイミングしかなかった。
「私も、○○についていっちゃおうかな……なんてね」
それはきっと、○○も望まないだろうし。
私ができることなんて、せいぜい○○が最後の瞬間にやり残したことがない様にできるだけ力を尽くすことだけ。
「ねえ、○○ ────」
だから、この言葉も今だけ。
今だから。
「おっと……」
バスが段差を超えて揺れる。
その揺れの影響で、眠っていた○○の頭が私の肩にこてんと乗っかった。
「…………!」
これは知らないまま、君は死んじゃうんだね。
これは”知らないまま”、君は生きていくんだね。
私は、肩に乗った○○の頭にそっと、自分の頭を重ねた。
心臓の音は聞かないでね。
私の気持ちは覗かないでね。
私の心に、触らないでね。
「すきだよ……」
エンジン音で消えてしまうんだろうなってくらい小さな声で、立ち止まっていたって聞こえないだろうなってくらい微かな声で。
水風船に針で小さな穴をあけたときのように、私は彼への思いをぽつりと溢した。
・・・
「おーい、着くよ」
「ん……おはよ……」
目を覚ましても、そこはやっぱり雪景色。
しかし、吐き出す真っ白な息がさっきよりも濃くなっているような気がする。
「多分下滑るから気を付けてね」
アルノがそう言って歩き出したのはいいものの、
「わ……!いてっ!」
ブーツが滑り、綺麗にお尻から着地した。
「だ、大丈夫……?くく……!」
「恥ずかしい……って、笑ってるなぁ!」
「ごめんごめん。手、貸すよ」
僕の伸ばして手を支えに、アルノが立ち上がる。
「アルノって、ドジ?」
「ち、ちが……!」
「こっちに着いたときさ、アルノが手を離さないようにって言ってたのってこのためだったかぁ」
「むむ……謂れのない印象を抱かれている……」
「ごめんね、手離しちゃってて」
「くそう……」
転んだのが相当恥ずかしかったのか、握る手にも力がこもる。
「そんなにすねないで」
「拗ねてない」
「これはどこに向かってるの?」
「この先にリフトがあって、そこで見られる景色がすごいんだって」
アルノの言った通り、歩いてすぐの場所にリフト乗り場が見えた。
一回券を買って建物に入ると、かなり立派なリフト。
「観覧車みたいだ」
「立派だね」
てっきり、スキー場みたいなリフトなんじゃないかって思っていた僕らは揃って度肝を抜かれていた。
「中も寒くないね」
断熱性が高い素材なのか、中は意外と温かい。
「もうすでに景色綺麗だね」
「想像以上かも……」
ゆったりと山肌を昇るリフト。
一度車体が水平になると、ドアが開く。
「足元気を付けて」
「もう転ばないですけど」
膨れるアルノが僕の手を引いてリフトを降りると、搭乗口にいた女性が僕らのことを微笑みながら見ているのに気が付いた。
「仲いいわね~。付き合ってるのかしら?」
「えと……」
「はい、デートで来たんです」
「あら~、いいわね~!楽しんで」
「ありがとうございます!いこ、○○」
どうして否定しなかったのか。
建物から出ても、僕には聞けない。
「出たらまたちょっとだけ歩くと……あ、見て!」
景色が一望できる高台。
リフトで昇ってきた山。
銀嶺と樹氷。
標高1500mから見下ろす一面の白は、まるで幻想世界のよう。
「魔法みたいだ……」
上を見れば雲は無く、視線を下げれば曇り無く。
「ここに来られてよかった……ありがとう、アルノ」
「その顔を見られただけで、私は満足だよ」
しばらく、互いに無言のままその景色を目に焼き付けるように立ち尽くしていた。
・・・
「お風呂あがったよ」
「景色すごかったね、露天風呂も」
「うん。月明りを雪が反射してた」
宿に戻った僕たちは、お風呂に入った後は備えつけの浴衣に着替えて座敷に腰を下ろしてくつろいでいた。
「髪、乾かしてあげる」
「じゃあお願い」
脱衣所の鏡の前。
僕の後ろに回ったアルノが僕越しにドライヤーを手にする。
温風が大きな音とともに起こり、アルノが僕の髪に触れる。
「くすぐったかったら言ってね」
「うん」
ドライヤーの音で微かに聞こえたアルノの声に、およそドライヤーの音でかき消されてしまうであろう大きさの声で返事をする。
会話はない。
言葉はきっと、音に混ざって吹かれてしまうから。
ただ、しばしば視線を上げては鏡越しに目が合った君と微笑みあうだけ。
恥ずかしそうに目をそらした君に、いちいち胸が苦しくなるだけ。
「うん、多分ちゃんと乾いた」
「ありがと」
「ところで、私も実はまだ髪乾かしてないんですよ」
「お風呂先に入ったのに?」
「そう。だから、交代」
「女の子の髪の乾かし方なんて知らないよ?」
「雑でもいいよ。それが思い出になるんだから」
「あとから文句言わないでよ」
「いわないよ」
僕が立ち上がった椅子にアルノが座る。
ドライヤーを受け取った僕は、電源を入れてアルノの髪の毛にそっと触れた。
細い髪の毛。
艶もあって、さらさらで。
シャンプーの匂いもまだまだ残っていて。
薄氷のような彼女の髪の毛を、崩さないように慎重に扱う。
「………………」
ちらちらとアルノが僕のほうを見ていることはわかっている。
わかったうえで、僕は彼女の髪の毛だけに集中していた。
「はい、おわり」
僕がドライヤーの電源を切ると、アルノが自分の髪の毛を触る。
「上手じゃん。これからもお願いしちゃおっかな」
「機会があればね」
「言質とったから」
ドライヤーを片付けて、だだっ広い部屋に二人肩を寄せ合い地べたに座る。
「…………」
「…………」
明かりも付けず、音楽を流すでもなく、ただただ肩を触れ合わせながら。
床に置いた手を重ね合わせながら二人、夜空を見上げていた。
窓の外には満月が輝き夜を優しく見守る。
それにしても、ここは底抜けに静かだ。
僕らが互いの呼吸音だけを聞いているというのが理由ではない。
雪だ。
踏み荒らされていない、真っ白な銀世界が音を奪っていったような静けさを演出しているんだ。
「ねえ、○○」
「なに?」
「呼んだだけ」
「なんだ」
「……ねえ、○○」
「なに?」
「…………」
「アルノ?」
黙り込んだアルノ。
僕の左手に重なったアルノの右手。
指と指が絡む。
「アルノ。僕は……死んでも君を愛し続けるよ」
「そんなこと……」
きらりと月明りが反射した。
僕の肩にアルノが額を押し付ける。
「そんなこと……言わないでよ……」
「ねえ、アルノ」
アルノが顔を上げる。
目は真っ赤で、頬には泪の跡。
「すきだよ しぬほど」
冷たいしずくが頬をなぞるのが分かった。
ぼやけた視界が、それの答えを教えてくれた。
君とこのままいられたら。
君とこの先も過ごせたら。
それはどんなにいいことだろう。
でも、そんな未来は訪れない。
こんなに苦しい気持ちになるんだったら、出会わなければよかった。
そんな風に考えた日だってあった。
だけど、君と出会えたから僕はこうして生きている。
君と出会えたから、僕はこうして笑顔でいられる。
こんなに幸せな涙を流せる。
「わたし、も、すき…….っ!」
つっかえながらそう言ったアルノの唇に、そっと自分の唇を合わせる。
「ごめんね、アルノ」
一度離して、アルノの涙をぬぐう。
「しにたくないや……」
もう一度、僕らはどちらともなくキスをした。
この時間を永遠に残すように、息が続かなくなるまで、僕らは互いの体温を分かち合った。
窓の外には月が輝く。
銀世界は静かに熱を奪う。
泪が一粒、畳にしみこみ、僕らは固く抱きしめあった。
……fin
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