この花は、アルテミスに捧ぐ
「奈央、どうしたの?早く行かないと遅刻しちゃうよ!」
太陽がじりじりと照り付け、アスファルトが灼けてしまいそうなほどの熱を反射する。
茉央は、真っ白なセーラー服に身を包み、無邪気に逃げ水を飛び越えていく。
まだ朝だというのに、どうしてこんなにも暑いんだろう。
どうして、こんなにも……
「奈央?」
彼女が、中々走り出さない私を不思議に思ったのか、立ち止まって振り向く。
長い髪が、光に映えてなびく。
「あ、ごめん。すぐ行く!」
私は、蜃気楼をかき分けて彼女のところに向かう。
どうしてこんなにも暑いんだろう。
どうしてこんなにも熱いんだろう。
なにか、いけない物が心の端っこでもぞもぞと動く。
「今日、なんかめっちゃ暑いね」
「うん、なんでだろう」
茉央がスマホの天気アプリを開いて、暑さの原因を探る。
「うわ、今日の最高気温三十七度だって!そりゃあ暑いわけですな~」
茉央の額に汗が輝く。
私は、そっとその汗を持っていたハンカチで拭う。
「ふふ、ありがと。やっぱり奈央は気が利くね~いいお嫁さんになれそう」
カタリとガラスの瓶が動く。
ピシッと、亀裂が入る。
「って、時間やばい!行こ!」
ふいに茉央が私の手を握って走り出す。
「速いよ~」
「あはは、走ると気持ち~!」
蓋が開く。
溢れだしそうな何かを、私は必死に押さえつける。
いい加減、気付いてよ。
この気持ちに。
・・・
いつから、こんな気持ちを抱くようになったのかな。
私たちはずっと一緒だった。
家も隣だし、女の子同士だし、なんとなく波長も合うし。
物心ついた頃からずっと私は茉央の隣にいたような気がする。
それこそ、ずっと。
多分、中学の頃かな。
ふとした時に。
急に、こんな気持ちが芽生えだしたのは。
茉央の剣道をやってる姿を初めて見たとき、心がざわざわってして。
それで……
「奈央......奈央!」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「次、移動教室だよ」
「うん、ちょっと待ってて」
教科書を鞄から取り出して、先を歩く茉央に置いて行かれないように早足でついて行く。
離れないように、ついて行く。
・・・
授業中、隣の席の茉央はどこか集中出来ていないように感じた。
黒板じゃない、どこか違う場所を見ていた。
わかってる。
きっと、同じクラスでサッカー部の○○くんのことを見ているんだって。
「…………」
わかってるよ。
好き、なんだよね。
茉央が彼に向ける視線は、私が茉央に向けてる視線と同じだから。
「……奈央、どうかした?」
私の視線に気が付いたのか、茉央がひそひそと話しかけてくる。
「ノート、全然取ってないなぁって」
「あ……」
茉央は、慌てて黒板の文字をノートに書き映し出した。
いいのに。
茉央が困っていたら、私が助けるから。
「あれ、赤ペンインクでない……」
「はい」
「ありがと、助かるよ~」
茉央が笑ってくれてさえいれば、それでいいんだから。
・・・
「今日は部活無いんだ」
「うん、今日はオフ~」
教室の窓の縁に手を掛けながら茉央は外を眺める。
グラウンドを眺める。
「がんばれ~」
誰にも聞こえていないんじゃないかなってくらいの声量で声援を送る茉央。
私はそんな茉央のことを極力邪魔しないようにぱらりと薄い小説を一頁捲る。
無論、内容なんて入ってこない。
それでも、こうしていることでチクリと痛んだ私の心は誰にも気が付かれずに済む。
「ねぇ、奈央。相談があるんだけどいいかな」
「ん?なに?」
「私……」
ガツンと、頭を殴られたような感覚がした。
心が、大きな爪でバリバリと引き裂かれるように痛んだ。
「うん、知ってるよ。○○くん……だよね?」
「すご!なんでわかるの!」
「何年茉央と一緒にいると思ってるの?視線の動きとかでバレバレだよ」
「そんなに目で追ってたかな~……はずかし!」
正直、逃げ出してしまいたかった。
泣き出しそうだった。
「どんなところが好きなの?」
「えっとね~」
そこからの茉央の言葉なんて覚えてない。
なんだっていい。
私じゃないのなら、なんだって。
「だから、好き……なんだと思う」
照れ臭そうに、茉央は俯いて笑った。
なんだっていいよ。
茉央が、笑ってくれるなら……
・・・
ある、大雨の日。
「傘忘れちゃった……」
昇降口で、私は茉央と並んで空を見上げていた。
「いいよ、入ってく?」
「ほんといつもありがと~!」
「あれ、五百城今帰り?」
「あ、○○くん」
下駄箱の方から声がして、茉央の意中の相手である”○○くん”がやってきた。
折り畳み傘のストラップの部分を指にかけてくるくると回しながら。
「傘は?」
「忘れちゃって……」
「家、どっちだっけ?」
「交差点を左に曲がった方」
「うちと同じ方向じゃん。入ってく?」
「え、いいの!?」
割れた。
必死に抑え込んでいたのに。
「奈央は……」
「あ、私ちょっと用事思い出したから戻らないと……!」
「奈央……!」
私は、とうとう耐え切れなくなって逃げ出してしまった。
邪魔を。しないように。
慌てて靴を履き替えて、本当はいけないのに廊下を走った。
いけないこと。
いけないことなんだ。
溢れる涙を拭くこともできず、私は階段を駆け上る。
ざあざあと、雨の音。
絶え絶えになった、私の息遣い。
重い重いドアを開けて、私は屋上に飛び出した。
冷たい雨が、劈くように打ち付ける。
生ぬるい雫が頬を濡らす。
声にならない啼泣。
きっとこの涙は、知らなくていいことだから。
あなたの人生にとって、いらないものだから。
「う……あぁ……」
癪り上げながら、必死に息を吸い込む。
あなたでいっぱいになった心は、数グラムの空気すら入りこむよちもない。
「…………」
ボロボロに壊れた器を丁寧に修理して。
ぐしゃぐしゃに汚れた心を洗い流して。
そっと、見えないように暗闇に隠した。
・・・
「もうね、めっっっちゃ優しいんだよ」
「そっか、よかったね」
「うん!」
「あ、おーい!」
じっとりと、暑さがまとわりつくような日。
茉央と並んで帰っていた時。
午前中で授業が終わったから、二人で海でも眺めたいねって、通学路から少し外れた海に行ってみた。
だけど、どうしてこうも運が悪いのかな。
たまたま、同じ部活の人たちと海に来ていた彼と出会ってしまった。
「あ、茉央」
「○○!」
いつの間にかファーストネームで呼び合うようになっている二人。
「二人で、楽しんで来たら?」
「いいの?」
「うん、その方がいいでしょ」
「ありがと、奈央」
ギュッと、手を繋いで。
二人は砂浜に足跡を残していく。
少し前までだったら、あの手を握っていたのは私だったのかな。
ーーーーーーーーーー
ため息を一つ吐いて、もう数年も前のくだらない嫉妬も一緒に吐き出す。
大学に進学して、茉央と連絡を取ることもほとんどなくなってしまった。
茉央は地元の短大に進学し、私は上京してしまったから。
それと、なんとなく顔を合わせたくなくて実家にもほとんど帰ってない。
自然と、茉央と連絡を取ることも無くなった。
想いは今も、引きずったままなのに。
あの日の潮騒が、まだ耳の奥で鳴っているというのに。
「すみませ~ん店員さん!」
「あ、はい、今行きます!」
こうして忙しくしていれば、余計なことを考えないで済む。
・・・
「はぁ……」
疲れた……
お昼のファミレスってなんでこんなに混むんだろう。
帰ってすぐに寝ようかな……
色とりどりの車が目の前を行き交う。
交差点の信号は、無駄に長い。
鳥の鳴き声のような音がして、進行方向の信号が青に変わったことを報せる。
スマホから顔を上げて、私はその視線にようやく気が付いた。
「ま……お……?」
髪は少し短くなっていて、色も明るくなってる。
でも、あのリクルートスーツに身をつつんでいる女性は確実に……
気が付いた途端、金縛りにあったように私の体は固まってしまった。
駆け寄ってくる。
どうしよう。
逃げたい。
逃げられない。
「奈央、久しぶり」
「茉央……」
大人っぽくなった茉央。
私は、思わず視線を逸らしてしまう。
「ちょっと話さない?私、今用事終わってさ~」
「うん」
「奈央の家、ここから近いの?」
「近いよ。あと十分ないくらい」
「じゃあ、お邪魔してもいいかな?」
「……いいよ」
・・・
「わぁ、なんか奈央っぽい!向こうの部屋とはちょっと違うっぽいけど」
「そうかな。自分じゃあまりわからないけど……」
「めっちゃぽいよ。特に、窓際に飾られてる花とか!あれ、なんて花?」
「マーガレット。お花屋さんで見つけて、つい買っちゃった」
「へぇ~……綺麗だね~」
「ありがと」
だいぶ長い時間会ってなかった間のことを話した。
茉央は、○○くんと仲良くやっているみたい。
明るく、短くなった髪の毛も彼の影響らしい。
「奈央、髪綺麗になったね」
黒く、長く伸びた私の髪の毛に茉央が触れる。
カーテンが、差し込む夕日から私を陰らせる。
「今日、泊まっていってもいい?」
「もちろん。いいよ」
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じっとりとした暑さで、私はハッととした。
燦燦と太陽が照り付け、アスファルトから弾かれた熱と板挟みになるような感覚。
そよそよと吹く微かな風に木々が戦ぐ。
ここは、どこ?
辺りを見回しても手掛かりらしきものは無い。
見えるのは、真っ青な水平線と白く灼けた砂浜。
何か、この場所の手掛かりになるものは……
恐る恐る、私は歩を進める。
太陽が、スポットライトのように二人を照らした。
あれは、茉央と○○くん。
私は少しだけ足を速めた。
「茉……央……?」
声をかけようとして、おかしな点に気が付く。
真っ黒な髪をなびかせ、セーラー服に身を包んでいたから。
気が付いた私も同じ服装。
これじゃまるで高校生の頃みたい……
高校生の……
そうか。
これは、夢なんだ。
夢、だから。
「茉央!」
私は、一目散に駆け出した。
「奈央?」
必死な私を不思議そうに見つめる茉央。
「行くよ!」
奪うように、私は茉央の手を握る。
「ちょっと、奈央!?」
砂浜には、濃い足跡が出来ていた。
波が、それをかき消していく。
「気持ちいいね!」
「うん……うん!」
あの時も、こうしていればよかったのかな。
こうして、無理やり手を引っ張って走り出してしまえば、こんなにつらい思いをすることも無かったのかな。
「このままどこ行こうか?」
「どこまでも!」
どこまでも、どこまでも。
二人で、どこまでも。
いつの間にか、私たちは夏の暑さから離れ、あの海と別れ、辺り一面真っ白な花畑にやってきていた。
「すごい綺麗!」
二人して倒れこむと、花びらが祝砲のように舞い上がる。
『ねえ、茉央』
『ずっと、好きだったんだ』
隣にいたはずの茉央がいない。
ただ、花びらが風に吹かれるだけ。
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カーテンの向こうが明るくなっているのが薄ぼんやりとわかる。
茉央は未だ、隣ですぅすぅと寝息を立てる。
「…………」
私は、そのかわいらしい寝顔にそっと口づけをした。
これで、最後。
これで終わりにするから。
小瓶の中からあふれ出してしまった思いを垂れ流すのもこれで最後にするから。
唇を離すと、私はひどい罪悪感に襲われた。
なんて自分本位なんだろう。
どうか気が付かれませんように。
起こさないよう、慎重に私はベッドから降りる。
・・・
「ごめんね、急にお世話になっちゃって」
茉央が目を覚ましたのはお昼少し前くらい。
「いいよ、全然」
「夏は、帰ってくる?最近全然帰ってきてないみたいだから」
「……うん、そうしよう……かな」
「よかった。じゃあ、”またね”」
「うん、”また”」
茉央は、何度もこちらを振り向いては、笑顔で私に手を振る。
その姿が見えなくなるまでずっと私も手を振り返した。
ありがとう。
ごめんね。
また、会いに行くね。
部屋に戻って、私はマーガレットを一本花瓶から抜いて、そっと胸に抱いた。
この恋は、ずっと胸に秘めておくように。
もう二度と、この想いが溢れださないように。
せめて、今日だけは。
あけ放たれた窓から吹き込んだ風が、マーガレットを揺らす。
私は、そっと涙を零した。
………fin