写真上達のためには、単焦点レンズ?ズームレンズじゃだめなの?ってなnoteを読み、バッグの総重量を計算してしまった・・・orz
今年は、ちょっとしたことでも、いちいち考えることにした。
そして、それを書くことにした。
これまでもそうしてきたけど、下書きが多数あるとこをみると世間の目を気にして表に出すことを躊躇していたのだと思う。
昨年はワタシが物を言うと不穏な空気がながれることが続き、結果「またやっちまった」と落ち込む・・・自称「Mr.エアフリーザー」・・・、何故他者の目を気にしてしまうのか?なぜ落ち込むのか?、は、考えるべきテーマなのだけど、またそのうちにしよう。(実はさほど気にしていない。)
フォローさせてもらっているnoteで、写真の上達のためには、「単焦点レンズですよ(ズームレンズは捨てなさい?)」と言う記事に対するフォローバック的な記事を拝読して考えてしまった。孫FBだな。
最近ワタシは単焦点レンズと言うか、フォクトレンダーのノクトンという単焦点レンズを使うことが多いが、それはこのレンズの写りが「好き」だから。上達云々を意識してはない。
森に写真を撮りに行くとどんな場面に出会うかわからないから、10.5mmと25mmと42.5mmの3本を持って行きたいのだけど、実はこの1本1本がクソ重い。尋常な重さではない、背負うだけで修行なのだ。
3本の合計が1591gもある。
ちなみに、ほぼ同じ領域を1本でカバーする、ズームレンズのm.zuiko12-40mm pro(382g)も持っている。
いきなり話はそれるが、この際「いつもの森」へ出かけるとき背負う総重量を計算してみようと思う。
単焦点レンズは上記3本で約1591g、中望遠880gとコンバータ150gは欠かせない。カメラ本体が599gと電池85g、水筒冬用389g、おにぎり×2で220g、10得ナイフ172g、折りたたみ傘100g、タオル69g、予備電池85g、カメラバッグ本体1470g、フィルター・リモコン・針金他もろもろで150gとする。
計算機、・・・パチパチパチと、えいやぁ、なんと合計5960g、ほぼ6kg orz(ズームにしちゃえば4.75kg)
これで、5時間も歩きまわっていたのか・・・絶句!!
計算しなきゃよかった。次回の森歩きから6kgと言う数字が付き纏うに違いない。
数字に暗示をかけられ心身を壊しそうだ。
話はそれたが、ズームレンズなら1本382gですむ部分が、単焦点であるばかりに3本1591gで、さらにズームでは必要がない1日10回20回に及ぶレンズ交換がもれなくついてくる。
(さらには、これは単焦点・ズームに関係ないけど愛用の単焦点ノクトンはマニュアルフォーカスなのだ。ズームのオートフォーカスの便利さたるや、、、orz orz orz orz)
それでもノクトンの写りが好きなのだから仕方がない。苦労の理由は「写りが好き」のみである。
実際は、この総重量による疲労で度々のレンズ交換が面倒くさくなり、撮影に集中出来なくなる。よほどの感動に出会わない限り「まあ、いいか」となってしまう。
なので、これから写真を「趣味」にしようと思っている人には絶対にお勧めできない。
写真撮影入門は、まず撮影が楽しくなり好きになるのが一番大切で、こんな修行をしていたら写真撮影そのものが嫌いになってしまうだろう。
嫌になってしまったら、写真撮影なんか辞めてしまうのは目に見えている。
これでは元も子もない。
「写真の上達には単焦点レンズのほうが・・」云々と語る方は、このカメラバッグを背負って森のなかを5時間歩いたことがあるのだろか!とだんだん腹が立って来た。
元記事の筆者はワタシのような状況は想定外かもしれないね。
さて、単焦点レンズとズームレンズの具体的な違いは重量とレンズ交換のほかに「画角」と「被写界深度」がある(多分)。ズームレンズは好きな「構図」を得るために自分が動かないですむ、この「動かないですむ」が上達を妨げるらしい。ん?ズームレンズは動かないですむ?か?、う〜ん、そんなことはないでしょ。
ズームで楽できるかもしれないのは前後の動きだけでしょ、天地左右は自ら動かなければならない。90度側面からみてみたり、180度背面に回ってみたり、天地も真上からだったり、真下からだったり、崖や木に登ったり、側溝に降りてみたり・・・四方八方動かなければならない。前後にしたって大自然を相手にしていたら動かなければ撮れない写真も多い。
ズームだから特別楽できるなんてことはない気がする。(重さ以外はorz)
あと、強く言いたいのは単焦点はボケ味を得られるから「写真が上手くなった気がする」ってことらしいけど、ボケボケを得る超浅い被写界深度は超難しいのよ。
ピントをどこに当てるから、背景のどれをどうボカスとか、ピントの山を正確にもってくるとか、ブラさないとか、上手くなったどころか失敗の連続なの。・・・あ、この辺の失敗を重ねてなんとかしようとするのは、たしかに単焦点レンズのほうが上達するかもしれないけど、ズームレンズだって浅い被写界深度ってのであれば同じだから、単焦点だからこそってことはないよね。
って書いてみたのは、あくまでもワタシが主に撮っている被写体についてで、「ワタシの場合は」です。
大元の記事の人がどういう被写体でどういうシチュエーションで語っているかわからないけど、撮りたい被写体は人それぞれ千差万別なわけで、単焦点か?ズームか?ってそんな単純なことではないよね。
登山にて山頂から風景を撮りたい、ってのに単焦点レンズしか持ってなく、もっと寄りたいと思ってファインダーを覗きながら前へ前へ歩いたが最後、崖から落ちるってことになるになるしさ。(オレかよ^^;)
それよりも気になったのが、そもそも上手い写真ってなんだ?
上達ってなんだ?ってこと。
問題定義のなかの言葉が共通理解されているのか?ってのは重要な問題で、この論題だけでなく、多くのすれ違いはここが見逃されていることだと思うのさ。
例えば「上手い写真」の定義が、語り手と読み手で違っていたら元からすれ違うよね。そこの一致も取れてないのに、あーだ、こーだと述べ合っても絶対一致点はないでしょ。ま、べつに一致しなくてもいいんだけど。
たとえばワタシなんか、最初に「上手い」ってなんだよぉ〜、って思ってしまったわけ。
と、こんなこと思うヤツに「上手い写真」が認識されているかのごとく、単焦点レンズかズームレンズかなんてことを話してもなんともなんないでしょ。
たまにあるんだけど、誰かに「毒多さん写真上手いね」って言われると、妙な気持ちに襲われるんだよね。
「上手い」って言われても、そうじゃない、って言いたくなるのさ。
まあ、笑って流してはいるんだけど。
ワタシは写真で「感覚」を表現(具現)しようとしている(多分)。
それを「上手い」といわれてもなぁ・・・みたいな気になる。感性って、上手い、下手、じゃないでしょ。
どちらかというと「上手い写真」とは言われたら失敗作だと思ってしまう。
もっと落ち込むのは「器用だね」って言われること。これは言う人の悪意さえ感じる^^; なんだか、軽く「上達」っていわれると「器用」を目指しているようにイメージしちゃう。
ピアノ弾きやギター弾き、あるいは画家書家華道家彫刻家木象嵌作家etc.の人には、「上手い」「器用」と言われたときのブルーなテンションを分かってもらえると思う…
(あれ?ワタシも自称ギター弾きのつもりだけど、ギターは上手いって言われてもそれほど気にならないな。なんだろう?ワタシのギターは表現以前ということか? ということは、写真も表現以前の段階もあるってことかな?)
問題は、写真以前なんだよね。
写真以前に「感受することのできる感性」がなければ表現以前でしょ。
まず感性が働いて、次にどう表現するか、なの。
その感性は「上達」させるものではなく育てるもの。
自ら育てるものだと思うの。
他人の写真を真似するんなら「上達」ってのもあるかもしれないけど、自らの感性をどう表現するのかが問題で、それをカメラとレンズを使ってどう表現するのか。
だんだん自分のイメージが表現できるようになることを「上達」と言うと思うのさ。
一般多数にウケるのが「上手い写真」、そこに近づけるのが「上達」ということで単焦点レンズかズームレンズかを語っているなら、そもそもワタシとは噛み合わないな。
ただね、自分の表現を追求するプロセスでは「模倣も役立つ」ってこともある気もするから、一概に「他者のマネ」がマズいともいえないし、自分のイメージする表現に辿り着くために、いわゆる「写真撮影の基礎」ってのは覚えておいて損はないと思うから、「単焦点のほうが上達する」ってのは「いったい何を言っているのか」を考えるのはいいのかもしれない。
はなから拒否したらそれで終わりだしね。
なんかまとまらない凡庸なテキストだなぁ・・・
書き終わったら、upしなくてもいいような気がしてきた。ちゅうか、どうでもいいことを延々と書いた気がしている。
本当に訴えたかったことは、「重いバッグを背負っている」ってことだけかもしれない。
最初に計算してしまった6kgが重すぎて、計算以降は上の空の空論・・・
結論
とにかくズームレンズを捨てるのはやめよう!! もったいないではないか!!!