自分を超えて、あらたな自分を語ること@傾聴
傾聴の本質とは、ということをマジで考えさせられたnoteに出会った。
なんと言っても圧巻な結論である。
(話し手は)自分自身知らなかった「自分の物語」を語り始める、、、のである。
noteのテキストでは「語り始めることになるかもしれない」とあるが、実際に傾聴のなかでそれに近いかもしれないという感触を経験したこともあるのだ。まだまだな傾聴者ゆえに確信とは言えないのだけどね。
自分の知らない「自分の物語」は「あらたな世界観」とも言えるのではないか?
たとえ「苦しい」「辛い」「死にたい」という話し手であっても、ちゃんと傾聴ができていれば、きっと「あらたな世界観」を語りはじめる。
死にたいばかりの自分自身が、自らが知らない「自分の物語」を語りはじめるなんて、まさに、いま生まれ変わった。というか、新たなる誕生と言えませんか。
こんなドキドキわくわくする結論が書かれているのだ、興奮がとまらない。
なんといっても傾聴者はあらたに語り始める瞬間に立ち会えるのだ。
出産の立会だ、いやnoteのテキストにしたがうなら、立ち会うことができるではない。「新しい自分の物語」に統合されている、自らもまた語っている、と言うべきかもしれないな^^
このnoteに出会い、感動と興奮のあまり傾聴者を目指す仲間にテキストを紹介した。
嬉しがりでおっちょこちょいな性格のため、兎に角はやく分かち合いたく、矢も盾もたまらず+Mさん“人の話を「ただ聞く」ということ”というテキストを教えたのだ。
な、すごいだろ、うんすごい、これはいい、やっぱこれだったんだよな、うんうん、だよね・・・というやりとりを思い浮かべてはほくそ笑んでいたのだけど、実際はあまりにも反応がなかった ^^;
レスポンスは2件。
「共感」が阻害に作用、てのは違和感です、というレスと、難解だから翻訳希望です^^というレスのふたつだった^^;
よく考えてみれば、当たり前か。
傾聴の研修では講師から話し手と聴き手がいるという前提で、口をすっぱく「共感が大切」「寄り添いが大切」と指導されたり、そもそも「私=自我」で考えたり物を言うなんて、言わずもがなの前提で生きてきたのに、「私=自我」では傾聴(ただ聴くことが)できない、なんて言われてもさ、反感も買うし訳わからんってことになるわな。しかも「高次の統合としての人格」って一体何?ってなるのは当然かもしれない。
確かにレス頂いた仲間のおっしゃる通りです。でもさ、ボクは感動したわけだし紹介した手前、ボクなりに翻訳してみようかな、笑。(+Mさんの言いたいこととは違うかもしれないけれどね、間違っていたらごめんなさい。遠慮なく指摘してくださいね)
翻訳の前提として「苦しい」「辛い」「死にたい」という話し手の傾聴をすることにします。
傾聴の研修と学習なかで、傾聴とは「聞くこと」と「アドバイスをしてはならない」とただ言われてきた。特に何故と理由も説明されずに。
「共感」や「寄り添い」をもって聞くことが大切です。と言われるなか実際にそのあたりを強く意識して頷きながらただ聴いていると、話し手は「落ち着いて」きたり「気分が楽になった」と言うことも多い。普段の生活のなかでいかに喋りたい話を聴いてもらえないか、抑圧されているかということなんだろう。人は喋りたい生き物なのだ。
話がどんな内容であっても、肯定して聴きつづけると一程度の効果はある。
これまで話し続けることができなかった鬱屈が薄れ、心ゆくまで話し続けると、心は満たされ落ち着いたり安堵したりする。さらに自ら「妥当な」結論を語ったりする。
ただそれが自分自身も知らなかった「自分の物語」を語っているとは思えない。
アドバイザーが言うような、まともで妥当な結論程度にすぎない。
それは往々にして、この社会で苦しまないための処世術だったり、大衆にあわせた気持ちの持っていき方、あるいはハラスメントの回避の仕方である。あらたな自分の物語やあらたな世界観とは、ボクには到底思えないのだ。
このあたりが自我をもったままの傾聴の限界なのかもしれない。
社会とは他者との関係でできている。
自我とは社会のなかでの他者との関係のなかの「私」ということだろう。
私は思う、私は考える、私が主張する、私は感じる、私が回避する、私は逃げる、、、、他者との関係のなかで私を保つために私に降りかかる厄介に対処しようとする。逆らったり、逃げたり、反発したり、議論したり、もしくは私がより安定するために共感したり同意したりする。
そんな「私」が、他者の厄介な話を「ただ聞いて」いられるのか?
無理だろう。人間は「なんとかしたい」という生き物なのだ。
「私」が安定するためには、私の安定に危機をもたらす厄介な他者を「なんとかしてあげたい」のだ。
なんとかしあって関係(社会)を成立させ、「私」が安定したいのである。
だから未熟な傾聴者はすぐに自ら語りはじめる。
「こうしたらどう?」「こう考えたらどう?」・・話し手によって「私」に降りかかる厄介を回避し、話し手を説得して安定させるために。
訓練された傾聴者は「逆らったり」「反発したり」「逃げたり」「議論したり」は隠匿して「共感」だけに徹する、、、、が、その「共感」も自我が安定するためのものにすぎないとするなら、やはり、話し手が自らの物語を語り始めるには至らないのではないか。
そも話し手の「苦しい」「辛い」「死にたい」は他者と自我の関係性(社会)から受けた結果としての発話だろう。それを形をかえた他者と自我の関係性のなかで解決すること。他者と自我がその関係において安定しようとする解決の限界ではないだろうか。
で、自我を超えた「統合の原理としての人格」でなければ、関係性の限界を超えることはできない、となる。統合ってなんやねん、乗り移るんけ?合体するんか?シンクロ率400%か?エヴァかよ!!わけわからへんがなあんた。ということになる。つまり難解ということだ、わかりやすく説明してね、と言われる。仰る通りです。
ボクにしても傾聴においての「統合の人格の域」に至っているかどうかなんて解らない。だから、誰にでも分かるように言葉で説明なんてできない。なので以下は想像である。間違いかもしれない。
とりあえず、兎に角、自我を超えて他者と統合した経験がないか思い出す。
割に簡単に考えが浮かぶ。ほんとにこんな簡単なことか?
たとえば小説を読んでいるときのこと。
本を手に取り文字を読んでいるという自我を超越して、登場人物になりきっているという経験は誰にでもあるだろう。なりきっているというよりは、登場人物そのもの。
ここに「共感」はない。だってそのものなんだから。
登場人物そのものになっているなかで自我の知らなかった物語が思い浮かぶ、って経験もあるのではないか?
往々にしてその物語は、リアルな人間の関係性の・・例えば鬱陶しさを浄化したりする。本に教えられた、ってやつ。でも実はそれは登場人物と統合したなかで自ら「あらたな世界観」を獲得したのではないか?
これは読み手一人で行っているわけではないだろう。
書き手がいる。
ボクも昔小説を書いていたときに経験したことがあるのだけど、勝手に筆が進むことがある。自我がなくなり登場人物がかってに動き出すのである。喋りだすのである。それは決してこう喋らそうとして書いたものではなく、書き手自らが知らなかった物語を語り始める。
他には音楽演奏のライブなんかどうだろう?
ボクは人生のうちで4度ほどしかライブステージに立ったことはなく、技術も修練もクソもなくただ緊張しすぎの自我そのものだったから、恥さらし以外、何もおきなかった。もちろん聴衆も自我そのものでニヤニヤしていた。
これが修練と技術を磨いた演奏者が観客を魅了するライブであったなら、聴き手は自我をなくして音の世界に入っていき自分の知らなかった自分の物語(感性)を恍惚と感じているかもしれない。
弾き手も、一人での練習のときにはなかった聴き手と統合された人格になったからこその、自分の知らなかった演奏を意識を離れてすることがあるのではないか?
よく言われるライブにおいて一体感で生み出される物語は、統合された人格が奏でているのではないだろうか?
呑んだくれのピアノプレーヤーさん、笑、どうだろう?
こうしてみると、統合されるのは聴き手一方の状態ではないく、双方によって起きるものであり、書き手と読み手、弾き手と聴き手、話し手と聴き手などの相互作用なのかもしれない。「語り一人格による統合」とはこうした状態なのかもしれないな?????
いやいや統合なのだからそうだよな。
つまり傾聴者としての聴き手もやはり、人格が統合された結果、自分のしらなかった「自分の物語」を語り始めるし、あらたな世界観をみることになるのだ。な、わくわくするだろ。
ところが実際には、小説を書く読むもライブで弾く聴くもポジティブで楽しい行為である。そこでの統合はわりに容易なのかもしれない。ところが、「死にたい」と嘆くネガティブな話し手の傾聴はなかなか統合が困難なのなのだろう。自我を護り保全し安定しようとする聴き手は、自我を超越して統合することに本能的に拒否する。
だからこそ真の傾聴者には技術と修練が必要なのかもしれない。
ボクはそこに信頼を付け加えたい。
ボクは「死にたい」と嘆く話し手がネガティブだとは思わない。
社会の関係性のなかで苦悩を隠匿することなく、正面から受け止め発話しているのだ。
多く人は自我の保全のために本心を隠匿し、逃避し、上手いことやっているに過ぎない。ボクにしたって上手いことやっている一人だろう。
「死にたい」と言う話し手には、そんな風に上手いことやれない才能がある。そうした話し手のほうが自分の知らない「自分の物語」を語り、あらたな世界観を語る近い位置にいると言えないだろうか。きっとそうだと信じていたい。その信頼こそ自我を超えて統合する人格に至るのだろう。
そうした人格の一番近くにいる傾聴者というか、統合してあらたな世界観にいる傾聴者であることを想像するにあたり喜びが湧き出て感動するのはボクの素であるところなのだ。
さらには上手いことやれないという才能のないボクも傾聴において話し手と統合し、やはり自らの知らない物語に至るとなると、、、、、\(^o^)/
蛇足ながら書いて置こう。
社会の関係性を誤魔化さずに逃避せずに本心によって訴える人が描くあらたな世界観、「自分の物語」。そうした物語の連鎖においてしか幸福な社会にはならないのかもしれない、と考えると傾聴者の社会的使命もすてたもんじゃないかもね。