本を手放すということ PASSAGE日記 #3
引越しの回数はまあまあ多い方だと思う。
予定したわけでも、意図したわけでもないけれど、なぜか引っ越す羽目になる。
天井までの可動式本棚をどこに置くかで部屋のレイアウトは自動的に決定する。窓の多い部屋は困る。そこに本棚を並べるしかないので、模様替えなどできようはずもない。
幼い頃はいつか書斎の部屋が持ちたいと思ったものだが、掃除が面倒すぎて部屋を増やせる自信がない。なぜ掃除をしているのに塵は毎週たまるのだ。
油断すると増殖し、本棚に入りきらなくなるため、床に積み上がる本。
定期的に心を鬼にして本棚から処分する本を選び出し、なんとか床の本を書棚に並べるようになって二十年弱。私の本棚は常にパンパンで余白があることはなかった。
神保町の共同書店PASSAGEで一棚店主をはじめてから、私は人生ではじめて積極的に本を手放している。
昔、一日一冊は読むという読書家の人に「どのくらい蔵書があるんですか?」と聞いたら、枕元の数冊のみと言われてとても驚いた。読んだ本はすべて売ってしまうらしい。「もう一回読みたくなる本があるかもしれないではないか」と訊いたところ、「本当に読みたいなら買い直せばいいし、絶版になっていたら国会図書館で探せる。手元に置いておきたい気持ちはわかるけど、国会図書館に行くほど読みたい本って実はあんまりないよ」と言われて、それも確かに一理あると思ったが、自分はそれほど潔く手放すことは到底できないと思った。
自分の本棚を眺めて、ここにとどめ置く明確な基準は自分でもよくわからないが、概ね「思い出」「発酵」「期待」の三種類のような気がしている。
「思い出」とは、その本の内容というより、それを読んだ時の感動が想起され、読んだその時代が懐かしく手放せない本。卒業論文のために必死に読んだ本、誰かと語りあった思い出深い本、夜が明けるまで読む耽った本。本の内容以上に、その本にまつわる思い出を手放せなく思ってしまう本。
「発酵」とは、今がその時ではない本。感動したわけでもない、ただこれは今の私が読みこなせないだけで、「今がその時」と思う瞬間がくるはず。そんな根拠のない思いゆえ、自分の手元に留め置く本。本棚で発酵させ、あるいは私が発酵し、いつかこの本と邂逅が訪れるその時まで。
「期待」とは発酵の延長。今、読む気もさらさらないし、あんな超大作を私が本当に読む日が来るのか、自分自身でも信じがたい。でもそれを必要とする日が来るような気がしてしまう本。的外れも甚だしい時も多々あるが、時折結構な歳月が経てから「今がその時だったのか」と貪り読むことがある。
「期待」はわりと簡単に手放せるものもあった。私の本棚で朽ち果てるより、もっと必要とする人の手元に渡ってほしいと心底思う。いつか私がその本を求めることがあれば、それこそ最後の砦として国会図書館があるのだから。
「思い出」を手放すことは身が引き裂かれる気がしていたが、案外そうでもなかった。十年や二十年前に発行された本でなかなかよい本だと思っていても、新刊でない本は本屋に並びにくい。「不朽の名作」とまで祭り上げられていなくともよい本はこの世に五万とあって、それらの本を薦めると手にとり、購入して読んでくれる人がいるということは、私にとって予想以上の喜びだった。
本棚を見渡すと、やはりこのすべてを手放すことはできないと思う。
これを眺める瞬間、込み上げる思いがある。
手に取ることがもう滅多になくとも、私の一時を支えてくれた本、若かりし日にあの人と語りあった本。
これは私の歴史なのだ。単に本であるということではなく、その時感じたこと、考えたことを想起させる装置としてのものなのだ。
それでも、この本をずっとここに置いておくのは違うような気がする。
私よりもこの本を必要とする人がいるならば、その人のところに届いてほしいと思う。
私はもう十分もらっているのだから。
生まれてはじめて本棚に隙間ができた。
大切な本を手放すのはやはり寂しい。けれどこの本が次に誰の手に渡るのかを考えるとワクワクするし、私は本を循環させたいのだと思う。