#note私の好きな偉人#竹中半兵衛
竹中半兵衛を知っていますか?私の大好きな偉人です。
何故私が好きか?
それは!100%これでいい!!と思ったら
自分の尊敬する人であっても
見て見ぬふりをせずに
その場でできる行動をする所が
とてもかっこいいと思うからです。
体の弱かった私に彼の出自は共感できることが多いのです。
『太閤記』や『常山紀談』によると、体が弱く痩身で女性のようであり「その容貌、婦人の如し」と記録があります。
出陣するときも静かに馬に乗って,
容貌が女性のようであったことから、主君の斎藤龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮(あなど)られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたことがありました。
これは、武将として困ります。学校の先生もそうなんですけど、なめられっぱなしではいけないんですよね。何とか工夫しなければいけません。
数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき,重治は稲葉山城に詰める弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した箱などを持ち入城します。そして弟重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を斬殺し稲葉山城を乗っ取っとりました。主君は友のものを連れて城を脱出。
しかし後で主君に城を返したといわれています。面目躍如です。
長篠の戦いでは、戦が中盤になってきたときに,精強な武田勢の一部が向かって左側に移動しました。
秀吉は横から回りこまれるのではないかと焦ります。しかし重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないかと秀吉に進言しました。
秀吉は,迎撃のため兵を動かします。しかし,半兵衛重治の軍2000は秀吉に反対した挙句,手勢と共に持ち場を離れませんでした。これは重大な軍の規律違反です。
まもなく武田勢は半兵衛の考えた通り,元の位置にまい戻ってきて,秀吉が不在の地点に攻め寄せたのです。残った2000の部隊で重治の部隊が必死に守っている間に,秀吉もあわてて帰還し、陣形が崩れるのを防ぎました。今回も面目躍如です。
後年,黒田孝高が秀吉が約束した知行の加増をいつまでたっても実行しないことに不満を覚え、秀吉の花押が入った書状を持って秀吉の前に現れて不満を述べたことがあります。
そのとき、秀吉の側にいた重治が書状を手に取り、破って燃やしてしまいました。驚く孝高に対して、「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに貴殿の身のためにもならない」と述べたとされています。
信長に反旗を翻した有岡城へ向かった黒田官兵衛は城主の荒木村重へもう一度帰順するよう説得します。ところが逆に捕縛され、土の牢屋に入れられてしまいます。帰ってこない官兵衛は寝返ったのだと信長は考え,秀吉に見せしめのために官兵衛の一粒種の長男、松寿丸を殺すよう命令を出します。
秀吉はすっかり困ってしまいました。
この時,半兵衛は流行病で亡くなった子供を松寿丸の身代わりとして松寿丸は自分の領地にかくまったといわれています。
有岡城が何年後かに開城された時、黒田官兵衛は汚れた土の牢屋から助け出されました。殺されたと思っていた松寿丸が生きていると聞きました。そして半兵衛にそれはそれは感謝しました。そしてその後の秀吉の天下統一に大きな働きをしました。
しかしその時、竹中半兵衛は短い生涯を閉じていたのです。
のちに黒田官兵衛はとても感謝して半兵衛の長男のことも江戸時代に入るまで守ってくれたということです。
徳川家康も信長に長男の信康が謀反の疑いをかけられ,本人を自害に追い込まれています。家康はそのことを結構根に持っていて,信康の命を助けてもらえるように十分頼んでいなかったとして酒井忠次に恨み言を言ったと記録が残っています。
当時信長の命に背くのは世界を相手にケンカを売るようなものでした。しかし半兵衛はたった一人しかいない長男を、裏切っていない官兵衛のことを考えずに殺してしまったら必ず後顧の憂いになると思ったのでしょう。
非常に冷静で効果を考えたクールな人かと思いきや,人を助けてもっと大きくさせるというところにとても惹かれるんですよね。
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半兵衛の活躍は『武功夜話』や、江戸時代の軍記物である『太閤記』、息子の重門が江戸時代に記した『豊鑑』などによって描かれています。
江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まって、現在の人気に至っていますが,『信長公記』などに記されている記述は少なく実態はよく分かっていません。
秀吉の正式な家臣であるという記述も一次史料には見当たらず,織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人であると見られています。
中国攻めの陣中で病死する際には、秀吉は京で養生するように戒めたのですが、重治は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされています。
(『竹中家譜』)。
また最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させています。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じていますね。水攻めは忍城の水攻めにもつながっていきますね。
重治が息子の左京(後の竹中重門)に軍物語について教えていると、左京が急に席を立ってしまいました。重治が理由を聞くと、小用だという。これに重治は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、軍談の席を立ってはならない。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したと言われれば、竹中家の面目であろう」と言ったと伝えられています。かなり厳しいお父さんでしたね。(『武辺咄聞書』)。
いつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していました。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、いざ戦おうとする時にその名馬を他人に盗まれはしないかと惜しんで馬を下りられずに戦機を逃がすことになりますから、馬は乗り捨てる覚悟なのでこれがいいのです」と述べたとされます。(『名将言行録』)。
秀吉が重治の功績に報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしましたが、「このような物は不用です。もし私の子が自身の不覚悟を忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨みに思うようなことがあっては災いとなります」と述べて破り捨てたといいます。
(『武功雑記』)
竹中半兵衛はどうしてこれほど金銀や財宝にこだわらずに生き
進言することができたんでしょうね?
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