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本の紹介1冊目~続き⑥~まとめ:神鷲(ガルーダ)商人 戦後賠償金の行方

今回は、ガルーダ商人の紹介のまとめです。

初回で紹介した、プロローグの問いかけに対する答えを探したいと思います。それでは、再掲します。

 賠償をきっかけにして、赤道の彼方の国と日本の間で、おおきなドラマが始まろうとしている、そんな予感がする。なにかが胎動し始めた、という気がする。

 日本の対インドネシア賠償は総額803億円、アジア諸国に対する賠償総額は、3643億円の規模に達し、日本国民ひとりあたり約3800円、一世帯あたり約2万円の負担になる。大学卒業生の初任給が1万円に達しない当時としては、相当の負担である。

 こうした国民の負担はどういうかたちで報われるのだろうか。

 この賠償の仕事はたとえ僅かなりともインドネシアを救う、神鷲の意味を持つのか。
(略)

 それともこれは日本経済のアジア市場進出の第一歩となり、大発展へのきっかけとなるのか。

そう、803億円のインドネシア賠償金はどこに行ったのでしょうか?

以下が、インドネシア賠償プロジェクト803億円の内訳になります。
作中に出てくる主なプロジェクトは、ホテル建設(インドネシア)、デパート(サリナ)建設、船舶、テレビ関連機材です。

作中では、船舶→ホテル→テレビ関連機材→デパートの順番でストーリーが展開されますが、最後のデパートに至っては、政治的なゴリ押しをしたことが分かります。

「賠償担保の金を使うんだから、極端にいえば日本国民の税金を使って、インドネシアにデパートを作ろうって話でしょう。ポイントはそんな無茶苦茶な話に、日本政府が金をだすかどうかってことじゃないですか」

「デパートと賠償ってのは馴染まないから、日本で相当な政治力を発揮しなくちゃ政府のOKがでんということになる」

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803億円の半分の3分の1が機械類・運搬用機器なので、これは売り切りで、商社からの輸出で済みます。

他方、約420億円がプロジェクト・プラント類ということで、これは商社からゼネコン(建設会社)に発注する案件になります。

それでは、作中に出てくる、インドネシア・ホテル、サリナ・デパートを解説したいと思います。(紐付き賠償金の仕組みを知らない方は、以下参照)

建設プロジェクトの資金の流れ(フロー)は以下の通りです。

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非常になまなましいですが、戦後賠償プロジェクトで、商社・政治家・建設会社が巨額の利益を上げた姿が分かると思います。

資金源は、国民の税金です。それが、インドネシアの要求という形をとって、プロジェクトを組成する際には、商社が割り込んで、政治家との間を仲介したため、上のような構図が生まれました。

特に、サリナデパートの件は、東日貿易がスカルノ大統領と、政治家の間を仲介して案件を獲得して、それを伊藤忠商事に発注して、伊藤忠商事が大林組に発注するという、複雑な構造になっています。

そうです。商社の力の源泉とは、プロジェクト組成の際に、政治力を利用して、相手国と日本の間でのプロジェクト組成をして、資金確保をして、要所要所に金をばら撒くということだったのです。

これは、商社マンでさえも、ある程度高い地位まで、行かないと政治に食い込む機会はないため、理解できないことですが、利益の源泉は、こういった所にあるのです。

さて、この小説の本質的な質問に戻ります。

こうした国民の負担はどういうかたちで報われるのだろうか。 この賠償の仕事はたとえ僅かなりともインドネシアを救う、神鷲の意味を持つのか。(略)
 それともこれは日本経済のアジア市場進出の第一歩となり、大発展へのきっかけとなるのか。

物語のエピローグに移ります。

 激烈な競争を演じつつ、達成されたインドネシア賠償はいくぶんなりとも「神鷲(ガルーダ)」の側面を持っていたのであるか。

 たしかに日本が調達した船はいっときインドネシア諸島間の貨客輸送をになったし、テレビ放送網は日本の技術を基礎に、カナダより幅のあるインドネシア諸島を全国的にカバーしつつある。賠償留学生は各界で活躍を始め、ホテル・インドネシアは、百数十%もの回転率をあげ多くの外貨収入を得た。

 賠償は独立インドネシアの基礎を作るのに貢献したかにみえるが、あれには果たして日本の国家的意思が働いていたのであるか。岩下や小笠原(筆者注:実名は木下や久保)などさまざまな個人の野心を思惑が生んだ偶然の結果に過ぎないのではないか。

 太平洋戦争において日本軍部が南方資源獲得を意図しつつ、アジア諸民族解放の契機を招いたのと似てはしないか。

 答えは時代の流れに託すより仕方がないような気がする。

「戦後賠償」とは、戦争中に被害を与えた人々に対する補償です。
しかし、太平洋戦争後の日本が、各国に対して実施した戦後賠償とは、「戦後賠償」とは全く異なるものでした。
国民とは無関係の、トップの政治家レベルで、賠償プロジェクトが決定されて、商社がプロジェクト窓口となって仲介役をする性質のものでした。

この戦後賠償は、後に、ODA(政府開発援助)という形態に形を変えて、引き継がれます

戦争、戦後、そして現在は、縦の糸として、連綿と繋がっています。
学生に人気のある商社という職業や、JICAのODAや、政府機関や、政治家も相変わらず、横の糸として、密接に繋がっています。


この小説は、過去を通じて、変わらない現在を浮かび上がられる貴重なノンフィクションと言えます。そんな小説を書いて下さった深田祐介さん、そして関係者の皆様に感謝したいと思います。

See you soon.

【2020年6月6日追記】
インドネシアのプロ研究者の倉沢愛子先生の著作「戦後日本=インドネシア関係史」を読みました。定価は5000円以上する高級な本ですが、日本で一番日・インドネシア関係を網羅的に扱っている専門書です。

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本書に、この物語の主人公の東日貿易、木下商店の終末が記載されていたので、抜粋します。

1960年代半ばになると、賠償プロジェクトの実施過程で大商社が直接関与するようになり、プロジェクト受注の過程で活躍した東日貿易や木下商店のような中小の商社は活動の場を奪われていった。二社ともやがて破産したり(木下)、スカルノの怒りに触れてインドネシアでの事業ができなくなったり(東日)して、それぞれ三井物産と伊藤忠に吸収された。
 賠償は一時期のアジア関係を左右し、その後のアジア関係を築くうえで先鞭をつけた。多くの日本企業にとっては、賠償への参入が、のちにスハルトの開発体制下で大規模な進出をする際の足掛かりとなったことは誰も否定しないであろう。このように1960年代の賠償実施は、その後の日本の東南アジアとの経済関係を形作るうえで、大きな役割を果たした。支払いを受けた国々よりも、むしろ日本の側に益があったと言われるゆえんである。(P216)

それでは、次回⑦に続きます。


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