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恋愛と憂鬱

1年に数回訪れる、何とも言い表せない気持ちが表出する瞬間。
それは「彼女ほしいな」という願望である。

それはまるでジェットコースターのように急上昇し、急降下する。
ジェットコースターと違うのは、上昇するスピードも落ちるのと一緒かそれ以上に速いように感じる点である。

この記事は、その軌跡を何が起きているのかを言語化していくエッセイである。


願望が表れるとき

先日34歳になった。
友人は男女問わず結婚している人の割合が増えた。
週明けのFacebookやInstagramのタイムラインは子育て日記と化している。それを見る度に「いつか自分もあんな風になれるかな」と羨ましく思う反面、「果たしてそんな風になりたいのかな」や「いやなりたくない!」という気持ちも沸き起こる。

この願望が表出するのは、私の場合誕生日の前後であることが多い。
私の誕生日は10月25日で、毎年その日が来ると「クリスマスまでちょうど2か月だな」とカウントダウンが始まる。
大学のころは、独りぼっちでクリスマスを過ごしたくないという思いから「彼女」というより「クリスマスを一緒に過ごしてくれる相手」を探していたように思う。
社会人になってからは、「30歳までに結婚」という何となく世間に蔓延している価値観を意識しながら、自分の年齢を指折り数え「あと●年しかない」と焦り、プレッシャーをかけていた。

以上の理由から、10月になると私の心はジェットコースターに乗車するのである。

急上昇

乗車した当初は希望に満ちている。
マッチングアプリを始めたり、合コンに参加したり、街コンや婚活パーティーに参加したりして新しい出会いを求める。

まるで就職活動のようだ、といつも思う。
『なりたい自分像』を描き、自分の理想の人生に寄り添ってくれる、もしくは一緒に未来を築いていけるバディを探す。

急降下

意気揚々と上昇したところで、ほどなくして急降下を始める。
それはジェットコースターのように、Gを感じながら加速度的に。
落ちたら落ちっぱなし。底なし沼のようでもある。

トリガーは告白してフラれたりすることも含まれるが、最近は自分から諦めてしまう事が多い。
例えば、食事の約束をしていて当日のリスケ連絡が続いたり、待ち合わせの時間に大幅に遅刻されることはよくある。(何かで読んだが、そういう人は承認欲求が強く、自分が注目されたいらしい。理解に苦しむ。)

その度自分に責はないはずなのに自分に失望してしまう。
自分はそういうことをしてもいいほど安く見られていたこと、言い換えれば魅力がないのではないかと。

しばらくして、「さすがにそれはないよ!」と自分に言い聞かせる。
自分のATフィールドを全開にしてあらゆるものをシャットダウンする。

ATフィールド全開!!!

なぜ毎年同じループにはまってしまうのだろうか?

「自分らしさ」の檻

原因は一つではないと思うが、最もクリティカルな問題として
『合理性』があるように思う。ここから先は一冊の本と一緒に考えていきたい。

冒険家の角幡唯介さんを知るきっかけになったのは、おなじみの『スポーツが憂鬱な夜に』である。
角幡さんの著作を読むのはこれで3作目である。
「結婚や恋愛と関係ないじゃん」と思う方もいらっしゃるかもしれないので補足すると、この本の出版当初のタイトルは『そこにある山 結婚と冒険について』であった。

3作品を通して、角幡さん自身もともと結婚については考えていなかった印象を受けた。冒険家は長期間旅に出ていて家を空けることも多く、死の危険もある職業である。そのうえ、安定した収入を得られるのは本当に一握りの世界であるように思う。よって結婚とか言っている場合ではなかったのではないかと推察する。

というのが私の推察である。
この推察にこそ、私が恋愛や結婚に踏み出せない原因が隠れているのではないか。

一言でいうと、『合理性』である。
上記の推察の背景には、「付き合ったら一緒にいる時間を取らないといけない」「安定した収入がないといけない」「家事や子育てを手伝わないといけない」といった私自身の価値観が滲み出ているように感じる。

常に合理的で正しくあればあろうとする姿勢は、恋愛との相性が悪いのではないかと思う。私の原体験は、これまでのnoteにも小出しにしているが感情に任せた行動が全て裏目に出て失敗したといっても過言ではない。その結果、次回は同じ失敗をしまいと自分の感情を抑え、合理的に物事を考えたほうがいいのではないかと考えるようになった。

感情を抑えることを習慣にしていると、感情の機微に鈍感になる。
「それは自分の思い込みだ」「そんなことあるわけない」と決めつけ
行動しないことこそ最適解であると信じるようになる。
こうして頑丈な『自分らしさの檻』が出来上がっていく。

※『自分らしさの檻』という表現は櫻井の兄貴からお借りしました。

「事態」に飲み込まれる

角幡さんは自分が結婚に至るまでの過程を「事態」に飲み込まれると表現していた。簡単に説明すると、角幡さんが奥さんと出会ったきっかけは、ある時男友達4人の飲み会があり、男だけではつまらないと考え友人に女の子を連れてくるように頼んだ。友人が連れてきたのが奥さんとの出会いのきっかけだったと語っている。

角幡さんは、「彼女を作ろう」や「結婚相手を探そう」という野心はなく
ノリでたまたま発した一言から、結婚に巻き込まれていった。これは能動的な体験ではなく、受動的な体験でもない。「中動態的」な体験と表現している。中動態で表現された事態においては「主体」が活動過程に巻き込まれているが、能動態で表現されるそれでは主体は〈活動を一方的に発出する起点〉になる。自分きっかけで起こした何かではなく、気づいた渦中にいたという風に言い換えられる。

「願望」をかなえるために

願望を叶えるには、合理的に戦略を立てて行動することではない。
自分から何かを起こそうとしてはいけないのである。気付いたら「事態」に巻き込まれている、その瞬間を見逃さないことが大事なのではないか?

では、それを見逃さないためにできることは何だろう。

自分の内なる衝動に蓋をぜず、合理的に考えることをいったん止めてみることではないか。

合理的に考えるということは、その選択をするリスクよりもリターンの方が大きい方を選択するということでもある。とはいえ、恋愛は常に相手の気持ちがあってのこと。
相手の気持ちを想像することは大事であるということに反論する人は少ないだろう。しかし、その想像から合理的に自分の思考を展開し合理的な判断をしようとすればするほど、相手の気持ちから離れているのではないか。

合理的であることは人間としての魅力と比例しない。

これこそ、私が「自分らしさの檻」から出るカギなのかもしれない。
2024年もあと60日。