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正しさと憂鬱

前回の更新から時間が空いてしまった。

先週末に閉会したオリンピック。
競技を通しで観たのは、サッカー男女、マラソンくらいで
あとはハイライト頼みになってしまった。

競技の結果よりも気になったのは、
「正しさって何だろう?」ということだ。

正しさって何だ?


私たちが何らかの行動するときには何らかの判断をする。
判断をする際には、必ず判断をした基準があるはずだ。
その基準が「正しさ」であると思う。個人から世界全体までの階層においてどんな種類の「正しさ」があるのか考察してみたい。

(1)個人
この欲求の判断基準は「生きるか死ぬか」という点に収斂できると思う。自分が生き残るために正しいか、正しくないかということだ。もう少し高次元になると「好き嫌い」が登場する。

(2)家族
産まれて一番最初に経験する集団は家族である。
ここで学ぶ正しさの多くは両親が信じている正しさである。
「我が家の少し変わったルール」が時々話題になるが、他の家庭のルールを聞いてびっくりしたことも多々ある。

(3)学校・会社
学校ごとに校則というルールがある。
私が通っていた高校では、アルバイトは原則禁止で学校の認可がないとできない決まりだった。(届け出もせずに3年間黙ってバイトしていたのは内緒。)校則は法律と一緒で破ったら罰則がある。校則だけでなく、部活やクラスでも独自のルールがあったりする。
個人的に思い出深いのは、高校1年生の時にサッカー部で坊主にさせられたことである。文化祭後に一つ上の先輩の飲酒と喫煙が学校にバレたことがきっかけ。2年生は大会出場を辞退し、2年生の大会に1年生で出ることになった。結果は1回戦敗退。先輩から、敗戦の責任を取って1年生も全員坊主にするかキツい走りの練習するかどちらかを実行せよとの命が下った。
29名中坊主に反対したのは私を含めて2名。そもそも先輩の尻拭いで大会に出てやったのにこれはないだろうと強く反対したが、私の意見には耳を傾けてもらえなかった。「正しさ」に疑問をもった初めての経験だ。

(4)社会
社会における正しさにはたくさんの種類がある。
国や宗教、ポリコレなどSNSが登場したことにより文字通り「多様な」正しさが飛び交う。

スポーツにおける正しさは?

各スポーツごとにルールが違うのは自明である。大なり小なり共通点もあれば違う点もある。サッカーでは手は使えないが、足は使っていい。バスケットはその逆である。そういう意味では、上記に見た(3)と被る部分が多いと言えるのではないか。

VARは本当に正しいのか?

オリンピック準々決勝スペイン戦のシーン

DFを背負っている状態でオフサイドになるシーンを人生で初めて見た気がする。LIVEで観ていた自分には何が起きたのか分からなかった。VARが介入しているとはいえ、不可解な判定に未だに納得はできていない。

VARが使われている現代ではオフサイド。
未来の人がもっと高性能なテクノロジーで判定したら
オフサイドではなかったかもしれないと考えることもできる。

SNSと正しさ

人間は自分が正しいという事を証明したい生き物。SNSの登場で個人がメディア化した結果、「正しい」が乱立し何が正しいか分かりにくくなっているのが現代のメディア空間であると感じる。個人が自分の考えの正しさを証明するため、自分は人よりも優れていることを証明するため、そんなマウント取り合戦の戦場がSNSの正体なのではないか。ではなぜそうなってしまうのか?

アイデンティティ

SNSで一喜一憂している人たちを見るとアイデンティティの確立に必死だなといつも感じる。精神科医のR・D・レインは次のように言う。

女性は子供がなくては母親になれない。
彼女は自分に母親のアイデンティティを与えるためには子供を必要とする
<アイデンティティ>にはすべて他者が必要である。
誰かと他者との関係において、また関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである

つまり、自分1人の空間にはアイデンティティは存在しえない。人種や宗教、思想・信条などによって、自分(あるいは自分たち)を他者(他国や他人種)よりも優れている事を証明するために、人類はジェノサイドや戦争などを行ってきた。
現代では、銃弾の代わりに言葉で分断を作る。その装置がSNSの正体なのだと思う。

オリンピックとアイデンティティ

オリンピックに話を戻そう。
今回のオリンピックも日本では様々なことが話題になった。
例えば、ルールや判定、報道の仕方など毎日に話題に事欠かない大会になった。平和の祭典として始まったオリンピックが、今ではメディアを通して分断を助長するイベントになってしまっているのではないかと感じる。

非常にまとまりがなくなってしまった。
以上、最近感じた事でした。
ここまで読んでくださり有難うございます。