分からないまま大切な人を抱きしめたい
一番好きな短編は、最後の「山の同窓会」。
主人公ニウラは久しぶりの同窓会を楽しめない。
クラスメートのほどんどがすでに“卵を作って”いて、一度も産卵をしないニウラに向けられる目には困惑や動揺、中には好奇心が入り混じる。腫れ物に触るような扱いを受けるニウラは、この世界ではちょっと異質な人だ。
対してニウラと一番仲が良いコトちゃんは、何回も産卵を経験している。
コトちゃんはとにかく愛する事が大好きだった。自分以外のものに自分を注ぐ事が本当に楽しそうだ。そんなコトちゃんをニウラは自分とは違う、と心底思う。私とは違う、と。コトちゃんとの永遠のお別れの時ですら、一番の友達のことが理解できなかった。そして、それはコトちゃんも同じだった。
「与えられた命を、使い切らないで死ぬなんて恥ずかしい」
コトちゃんは死の間際に、ニウラに言う。
「誰とも交わらない生涯に、何の意味があるの。」
そして交尾や産卵はすごく楽しいことなのに、それを知らないニウラは不幸だと言い切る。
この短編の世界では、産めば産むほど、生命として尊くなる。だから産めば祝福されるし、産卵が“正しさ”として設定される。だからその“正しさ”の真ん中にいるコトちゃんと、一度も産卵しないニウラとの間に距離ができてしまった。
だけど、とコトちゃんは死に向かう前でニウラにつぶやく。
成長するうちに、ニウラがどんどん分からなくなっていって、分からないまま大事にする方法が分からなかった。そして今は、そんなことがつまらない。
「ニウラ、楽しく生きてね。あなたのなかに設定された喜びを超えて。待ってるから、終わったらどんなものだったか教えてね。本当の友達になりたかった。」
この短編集は、全部抽象的だ。それぞれに異なる世界観が設定されていて、腕が交換できたり、運命のつがい同士だけが見える花があったり、産卵して死んでいくことが美しいとされたり、とにかく変だ。だけど何でだろう。
すごく、よく、分かる。
腕だけじゃ満足できなくて、身体丸ごと欲しがる妻も、妻や子どもが大好きなのにそれを裏切るアツタさんの身体の中にいた生き物も、”本物”が欲しいユージンも、コトちゃんの正しさも、正しさから外れたニウラの孤独も。
ここ最近、女友達の顔ぶれが変わった。
今まで一番何でも話せた友達がそうじゃなくなった。おんなじところで笑えていたのに、笑えなくなった。話が噛み合わない。なんかつまらない。
生きていればそんなことがこれからも起こっていくんだろうなと思う。それは悲しいことじゃない。きっとまた繋がる。ただ、今じゃないんだろうなと思う。そしてそれが少し、寂しい。
現実の世界にもよく分からない “正しさ”や“幸せ”のモデルケースみたいなのが存在して、お行儀のいい子ほどそれを求める。いい大学、いい会社、かわいい、かっこいい、結婚、家庭、エトセトラ。
そして更に厄介なことに年を重ねるほど、自分が設定した“正しさ”や“幸せ”が生まれる。
だけど、自分の大切な人がそこから程遠い場所にいたら。
そんなこと実際よく起こっている。
だけど、と思う。私がこの短編が好きな理由は、本当の友達って何だろうと考えさせてくれるから。
大切な人を大切にする、その難しさに直面したら。
“正しさ”や“幸せ”から離れていても、祈ることはできる。
よく分からない、理解できないで投げ出すんじゃなくて、分かり合えなくても、分かり合えたらいいなって思う。また交わえる、そういう日を一緒に待ちたい。分からないよって笑って話していたい。時にはシリアスに、理解できないってしかめっ面で言い合いたい。
あなたは本当の友達だから。
そして私はあなたの本当の友達になりたい。
written by あかり
アサラー女