シュナムル氏を巡る断章、または超民主主義について
本論 民主主義2.0としての超民主主義
シュナムル氏本人の語る経歴や家族が真実であるかどうかなどということについて、私は特に興味がないので、語るべきこともない。検証はその手のゴシップが好きな諸氏に任せておけばいい。
けれど、シュナムル氏の垢消し(※現在は復活している)の直後に書かれたこのはてなエントリは、とても重要なことを指摘していると思われたので、少し語りたい。
私はこのエントリを読んで、今のインターネットにおけるフェミニストの行動原理を非常に的確に表していると思うと同時に、その理由を「恐れ」に帰着させているのは少しズレていると感じた。
もちろん、議論の中で論理的に破綻し、論破されてしまうことへの恐れというものもなくはないだろう。
だが、それはフェミニスト側の主観的な認知を的確に言い表しているとは言えない。
シュナムル氏はかつて自らの主張の論理性について、あまたの批判をものともせず、「十全に正しく矛盾もない」と断定したことがあった。
そんなにも無矛盾であるならば、その十全な論理性をもって、批判者をばっさばっさとなで斬りにすればいいはずなのだが、彼はそうはしない。
啖呵を切るだけで、泥臭い議論をすることは決してやらない。
言っておくが、シュナムル氏の垢消しにかこつけて、彼の過去の発言をあてこすりたいわけではない。
そうではなく、ただ自らの発言は正しい、正しいから正しいのだ、議論をする必要などない、という態度が、今や、フェミニストのうちで広く受け入れられ、賞賛さえされているという、恐るべき事実を指摘したいのだ。
これは、シュナムル氏個人ではなく、フェミニストや、そして今や一部のリベラルに広くみられるようになった傾向だ。
フェミニスト界隈のアルファと言えば、北村氏や小宮氏といった学者系のアカウントや、つりがねむし氏、仁藤氏、はなびら葵氏、笛美氏といった人々だが、彼ら彼女らに共通するのは、批判や反論を徹底的に無視することだ。
逆に、ルドルフ氏やYO氏といった、批判や反論に対して根気強く応答しようとする人々は、フェミニストの界隈では非常に辺縁的な存在となってしまっている。
唯一、石川優実氏は、#kutooで名を挙げて以降、激しくアンチフェミ界隈の批判や反論に応答し、第一回のこれフェミでは、表現を巡る諸問題について直接議論を戦わせることまでやった。
だが、結果的に、彼女はその後、討論それ自体が無意味だったと自己総括し、やがてTwitterからも姿を消すこととなったのだった。
こうした傾向性の根源はなんだろうか。
第一回のこれフェミの際、弁護士ドットコムニュースの記者を名乗る人物が来場し、取材をしてくれた。ニュースは掲載されなかったものの、後日、取材内容が個人のブログ記事として公開されることになった。
今は削除されているため、残念ながら記憶に頼るしかないが、記事のタイトルはこうだった。
「否定と肯定」
そう。ホロコースト否定論と私の言説が重なり合う構造にあることを示唆しながら、記事は始まる。
これフェミにおける私のパフォーマンスが聴衆を引き込み、いっけん魅力的で、時に笑いすら起こしたことに触れながら、それこそが危険であると、記事は切々と訴えていた。
不正義を平然と語る者とは、議論することさえ危険である。なぜなら、議論をしてしまったならば、その不正義には議論をする価値があるかのような錯覚を人々に与えてしまうからだ。
そして、記事はホロコースト否定論の主張者、デヴィット・アーヴィングその人と私を重ね合わせる描写で締めくくられる。
さて。
こうした傾向性は、よく知られる「オープンレター」を巡る騒動によって、最高潮に達した。
オープンレターについてはすでに多くの人が語っているので、ここで重ねて論じることは避ける。
だが、最近、オープンレターの呼びかけ人である清水晶子氏が、「フェミ科研と学問の自由」と題する講演の中で、いわゆるキャンセルカルチャーを擁護する文脈で述べた、次の主張は示唆的だ。
今やフェミニストやリベラルにとって、討議や対話を拒絶することは、「生き延びる鍵となる戦略」でさえありうる、少なくともそう認知されつつある、というのが現状なのだ。
私たちは通常、ある正義や理念の正しさを論証するためには、開かれた場所で議論をし、絶えず批判にさらされながらも、その正しさが示され続けることが必要であると考える。
議論と対話こそが、真理への唯一の王手であると。
だが、フェミニストやリベラルにとっては、今やその考えは転倒しつつある。
正義が正義であるならば、議論や対話など必要ない。
むしろ、議論が行われないことこそが疑いのない正義の証なのであって、不正義の輩と議論のテーブルを囲むこと自体が、自らの掲げる正義の旗を傷つけることなのだ。
そうした転倒の中では、主張の正当性や論理性を議論によって点検することは不要だ。危険ですらある。
正当性を証だてるためには、議論や思考実験ではなく、ただ、「不正義」への怒りを表明し、異論者をブロックし、異論が生じないような「正しさ」を口にし続ける。
議論をして正しさを証明するのではなく。
議論をしないことによって正しさが証明される。
だから、彼らの労力はもっぱら、異論者への「反論」ではなく、異論者がいかに道徳的に劣っており、正義に反しており、「議論する価値がない」かを主張することに費やされる。
自分たちの主張の論理的な整合性などにはなんの興味も抱かず、対立者と「議論する必要がない」ことを発見するために、目を皿のようにして理由探しを続ける。
そうした言論のルールの中では、肩書はいわば特効薬のようなものだ。
幸福で政治的に正しく、知的に優れた立場にある人々が、自分たちの考え方は正しく、対立者の考えは間違った、遅れた、正義に欠けたものだと非難してくれること。
議論と対話によって正しさを形成できないならば、論の正しさは、その論者のステータスを参照するしかない。
フェミニズムやリベラルが、人身攻撃や対人論証に陥りがちであるのは、それが、「議論をすることなく対立者の誤りを証明する」という一見不可能な芸当を実現する、ほとんど唯一のアクロバットだからだ。
そして、自らの肩書、開明的な配偶者、子どもの言葉、幸福な結婚生活……それらは自説の正しさを、対立者との討論を避けながら論証するための、大切な小道具なのだ。
対立者の不道徳を手厳しく攻撃し、優位な道徳的立場から、自分たちの論の正しさを断言してくれるアルファ。
「優しい家父長制」
これこそが、いま、フェミニズムとリベラルが陥りつつあるものであろう。
シュナムル氏が自らの肩書を誇示し、そしてまた、その権威が失墜するや否や、誰も擁護せずに切り捨てたのは、一人一人の個人の気質によるものというよりは、こうした構造がもたらした必然的な帰結であったといえるだろう。
最後に一つ、予言じみたことを言わせていただきたい。
この、インターネットで起こりつつある言論環境の変化は、なにも新しいことではない。むしろ、私たちがすでに百年前に通った道なのだ。
哲学者ホセ・オルテガが今からちょうど百年前の著作である、『大衆の反逆』の中で語った、当時のヨーロッパの言論空間は、そっくりとそのまま、今、インターネットで起こりつつある現象に似通っている。
根気強く議論を繰り返しながら政治を進めていこうとする態度が民主主義であるにも関わらず、「大衆的人間」は、議論をすることのわずらわしさから議論それ自体を敵視し、ただただ自らの「思想」の正しさを開陳する行為こそが政治なのであると錯覚しはじめる。
民主主義の大衆化がもたらす、こうした堕落した民主主義の形態を、オルテガは「超民主主義」と呼び、その末路をこう予言した。
議論は不要であると断じ、思想的正しさを誇示する「家父長」的なカリスマが現れたとき、この直接的行動は最高潮に達する。オルテガの予言通り、20世紀の前半部分は、大衆の熱狂のうちに行使された暴力が、地上に酸鼻をもたらしたのだった。
そしてまた、いま、インターネットでは「議論など不要」だという意見が、フェミニストやリベラルの間に急速に広がりつつある。
奇妙で皮肉なことに、彼らは、自分たちをファシズムや差別主義と対極にある思想だと自認しており、ファシズムや差別主義に力を与えないためには、討議や会話を拒絶することが有効な戦略だと主張するのである。
そして、では、議論を峻拒する彼らの手段は何かといえば、それは、キャンセルカルチャー――職場や生活基盤への攻撃――なのであった。
百年前と同じ道をたどるとは信じたくはないし、そこまで人間は愚かではないと思いたいが、
しかし、もし次のファシズムがあるとすれば、反ファシズムの名の下に行われることになるのかもしれない。
以上
青識亜論
補論① 信仰としてのフェミニズム
「肩書やステータスで『議論抜き』の論証を行う」というフェミニズムの戦略について、差別主義的な印象論のようなものとして捉える向きがあったので、補足したい。
「白人だから正しい(有色人種だから誤りである)」
となれば、それは差別に違いない。
だが、彼ら自身の主観としてはそうではないし、背景にはもう少し複雑なメカニズムが存在しているように思われる。
フェミニズムが「個人的なことは政治的なこと」をスローガンとして掲げ、個人的な生き方や選択にも指図する思想である以上、その正しさをなんらかのかたちで示さなければならない。
一つは、フェミニストが推奨する生き方を選べば、社会全体として厚生の最大化や正義・公正の実現がもたらされるというマクロ的な視野からの説明である。
だがこれは、統計的事実による反論や、異なる社会正義の観点からの批判を受けるものであり、議論なくしてその正当性を論証することは難しい。
とすれば、自然とミクロ的な視野による論証を採用することになってしまうのである。
「フェミニズムは正しい思想であり、人々を善き生に導く」
という命題を主張したければ、
「フェミニストである私は(彼は)いま現に善き生を歩んでいる」
もしくは
「アンチフェミニストである彼は悪しき生に陥っている」
と示せばいい。
私はフェミニストとして正しい政治思想を持っているからこそ、女性から好意を持たれており、多様性を許容する開明的な思想を持っているからこそ、〇〇人の妻(とてもハイスペック)を選んで幸せな結婚生活を送っており、娘にも好かれている……というふうな物語だ。
あるいは、アンチフェミニストは女性に嫌われるからこそ、非モテ童貞チー牛で、社会からも疎外され、そのひがみでフェミニストを攻撃している……といったような逆向きの物語もそうだろう。
これは、フェミニストだけの傾向性ではなく、アンチフェミ側にも散見される。フェミニストはモテない女、ブスな女、嫉妬に狂ってAV女優や二次元創作物を攻撃しているのだ、と論じ、対立者の容姿を攻撃するような手法は、非常にミクロ的な対人論証だ。
そして、これはSNS時代に現れた新しい論法ではない。というよりも、非常に古い、伝統的な論法である。
古代より、宗教や信仰の正しさを説明するための、もっとも伝統的な手法であったといっていい。
不幸な人があれば、信心が足りないからだと説明し、すばらしい成功や自然の恵みに対しては、神の恩寵であると説明する。
有名な例としては、カルヴァン主義における「予定説」が挙げられる。
カルヴァン主義者は、現世において神の教え通りに禁欲を実践し、仕事に打ち込むことで成功することは、「神に選ばれたものである証」であるとするものだ。
要するに、「信じる者は救われる」式の論法であって、それ自体は宗教や信仰を確立する手法としては、実にありふれたものなのだ。
シュナムル氏の肩書偽装疑惑に対して、擁護するどころか速やかに切り捨てにかかったことについても、簡単に説明がつく。信仰の証明にとって、そのような疑惑は邪魔でしかないからだ。
しかし、これが社会思想に適用されるとなると、問題がある。
社会思想はそれ自体普遍的な正義を希求するものなのであって、社会の構成員全体にその主張する政策や制度、社会契約に従うよう要求するものだからだ。
当然、その思想に賛成しない人にとっても理解しうる言葉で、常にその正義を説明できる必要がある。
信じる者は救われる式の信仰に、社会構成員全員を服従させて、社会を動かそうとするのは民主主義ではなく、宗教国家のありようであって、現代社会においてそこを目指すのは、「カルト的」な信仰の在り方だ。
フェミニズムがカルト宗教のような頑迷に陥るのを防ぐためには、マクロな社会思想としての普遍性を復活させるか、もしくは、ただの個人的な信仰であることを承認し、正義や思想を名乗ることをやめることだ。
ちなみに。
フェミニストが、自らの思想を個人的な信仰や嗜好であると承認することは、新しいフェミニズムの在り方として、ある種の可能性を有していると考えるようになった。
フェミニストになりすまし、クローズドなコミュニティに潜入したりして、様々な観察を続けた私の、一つの結論だ。
このことについては、稿を改めて論じることにしよう。
補論② コロナがもたらしたもの
非常に鋭い指摘だと思ったので、これもまとまったコメントを返したい。
コロナ禍が発生した2019年以来、このnoteで取り上げた超民主主義的傾向は加速しつつあるように思われる。
その理由を探るために、再び、オルテガの『大衆の反逆』を見たい。
オルテガは、大衆が発生した原因として、19世紀の大都市への人口流入だと指摘する。農村部で先祖代々の土地を耕していた人々が、激しい人口増大と都市化の進展によって、大都市に移動した。
彼らにはトポスが欠如していた、とオルテガは指摘する。
トポスとは「場所」を表すギリシャ語である。農村にいた人々は、その土地土地の伝統や習慣、そしてその土地で自分が「なにものであるか」といういわば「居場所」のようなものを持っていた。その場所にいるだけで、彼はなにものかであったし、アイデンティティを土地と空間が保障してくれたのであった。
ところが、都市に流れ出た人々は、「なにものでもない」ものたちとして、巨大な都市空間に投げ出されるのである。そうしたなにものでもない人々の大群が、群衆となってあらゆる場所を満たし、社会を動かす。
これがオルテガの言う「大衆」の起源である。
オルテガは大衆を「他人と同じであることを心地よさを感じる人々」または「平均人」として規定する。
なにものでもない群として、巨大な空間で生活することになった人々は、他者と同じ服装、同じ食べ物、同じ意見でなければ不安を覚えるようになる。どころか、多数派の人々と同じことをしていることに、心地よさすら覚えるようになるのである。
良いものだから数が集まるのではなく、数が多いから良いものであるのだろうと、認識が転倒し始める。ちょうど、食レポでたくさんの人々が素晴らしいと評価している食べ物が、とても美味であると感じるように(私たちは情報を食べているのだ!)
そしてやがて、それは政治的意見にも波及し始める。
議論の結果として、多くの人が納得したから、暫定的にある意見を正しいとみなすのではなく、多数の群衆が挙げる声こそが、最初から正しいものであるのだと、そう錯覚を始める。
やがて、人々は多数の群衆の中で、その圧倒的な数の力に酔いしれ、自分たちこそが世界であり、いつでも正しい判断をする人間なのだと思い上がりを始めた。
これが、オルテガの言う大衆である。
そして大衆は、やがて、自分と違う服装、違う食べ物、違う意見をとる人々がいることそれ自体が不快で、許せないものであるように思い始める。
数にものを言わせた、少数派への排除が始まる。
オルテガが見た、その究極的な形態が、ファシズムであり、スターリニズムなのであるが、現代でも、似たような光景を最近、しばしば見かけるようになってはいないだろうか?
そう。
コロナにおいて、私たちは再度、場所を失ったのである。
オルテガが見た場所の喪失は、都市部への流入だった。だがそこにはまだ人々が集まれる場所があった。劇場。コーヒーハウス。種々の都市の催しや祭り。企業。学校。サークル。それは前近代における農村の結びつきほどはっきりとした強いつながりではなかったかもしれないけれど、それでも私たちがなにものかでありうる機会を提供してくれた。
だが、コロナはそんな辛うじて存在していた場所の残滓すらも、強制的に流し去ったのである。
私たちは、もはや現実の社会において、他者と集まり、自己の存在を確認しあう基盤を失った。他者なき社会が個人主義をもたらすのかといえば、事態は全くの逆だった。
都市の場所から追い出された人々は、インターネットに集った。不安感を解消するため、自己の生を確認するための場として、SNSは興隆を極めた。
SNSは場所なき場所という矛盾した場だ。
人々は地理的制約どころか、身体や名前からすら解き放たれ、真の意味でなにものでもない大衆として、電子の空間に蝟集したのだった。
RTやファボ、再生数やハートの数で正しさを競い合い、なんとか多数派に潜り込もうとする、大衆的欲望がむき出しになって展開された。
自分と嗜好の異なる食べ物、表現物、そして政治的意見を、あらゆる手段で攻撃し、炎上させるという戦いが展開された。
そしてその果てにあるのが今である。
冒頭のツイートに戻ろう。反ワクチン派のような議論を拒む、一群の反知性主義的な人々が現れたことは、確かにこうした大衆的現象のあらわれであるように見える。
だが、その一方で――叩かれることを覚悟で言えば――その対極に位置する絶対的な自粛を主張し続ける一群の人々も、同じように議論を拒絶し続けているように見える。
私の目には、鏡写しの二つの群衆が、互いに憎しみあっている、という構図に見えるのだ。
こうした構図は、コロナを巡る議論ばかりではなく、いまや、SNSのあらゆる場所で見られるようになった。
私たちは、こうした状況を解消し、場所を回復するためにはどのようにすればいいだろうか? 稿を改めて、いずれ論じたいと思う。
一つだけ言えば、私は、鍵となるのは身体性の回復であるように思う。
私たち一人一人が、どこか現実の場所に身を寄せ、身体性を媒介として、目と目を向き合わせ、生の言葉で意見を交わし合うこと。
あるいは、意見を交わし合うまでいかなくともよいのだ。
自分と異なる意見、異なる嗜好、異なる立場や身体的存在であるところの他者がいるということ、同じ社会という器の中で暮らしているのだということが等身大で実感できる機会がありさえすれば。
そしてそれは、おそらく、今の仕組みのSNSの中では、決して得られないものであると、私は感じている。
以上
青識亜論