嫌なこと
私が嫌いなひとの特性は、差別的か、他者に尊敬がない、と説明してきた。今年、いくらかの他者と関わってきて、より詳しく説明する必要があると感じた。
例えば、厳密でないひとも嫌いかもしれない。差別的でなければいいというだけでなく、なにが差別か否かという判断を熟考しないひとは嫌いかもしれない。
他者に尊敬がないには、例えば、他者の地位や能力を利用しないということが含まれたりする。自らの地位や能力を利用させないということも重要だと考える。自らなら良いというわけではなく、その行為が利用し利用されという環境を温存してしまうからだ。
あと、論文に他者の議論を引用した際は、それを明らかにするわけだが、論文でないコミュニケーションにおいても、それは重要だと考える。岡田斗司夫が論じてたであろうことを、さも自らのものかのように披露されても、こちらには筒抜けだし、悲しい気持ちになる。
「誇張」は個人的に頑張る際や、表現においては必要だが、コミュニケーションにおいては好ましくないように感じる。
挙げればキリがないが、具体的にいうと、私はこのようなことを好ましく思っていない。
しかし、生きていれば、現実世界でもインターネットでも、少なからず目につく。それらに怒ったり、悲しんだりするのは、はたして、わたの仕事なのか。完全に違う。
上に挙げたのは、個人的なコミュニケーションの前提条件であって、例えば、「他者」、つまり、思想なり意見なり立場が異なるひとと関わるのは重要だが、前提条件すら満たしていない他者に、なにかを感じたり、コミットしたりするのは、完全に私の仕事じゃない。早い話、ぶん殴られて、対話で解決しようとは思わない。
私は、ぶん殴られて、より強くぶん殴ったら勝てるという確信があったとしても、殴り返したくないし、そのような状況が最悪だ。
最近、働き始めたアルバイトは私の仕事か?これは私の仕事だ。暫定的に最も効率よく換金できる方法で、収入は私の娯楽にあてられる。
では、気持ち悪ぃひとが存在して、それを批判することは私の仕事か?やはり、違う。どうでもいい。関わりたくない。時間の無駄。時給も発生しない。
それで、1週間前から、例えば、Xで義務的にフォローしているアカウントをミュートし始めた。私には私の仕事がある。楽しいことや、得をすることが私の仕事で、お話にならない他者に啓蒙するのは、少なくとも、いまの私の仕事じゃない。いまの私の仕事が、いずれ、お話ができる他者を増やすことにつながってくれれば嬉しい。
あと、この記事でが言ってしまっているが、「気持ち悪ぃ」と自ら言うことも避けたいと考えている。嫌なものを目にするのと同程度に時間の無駄だから。気をつけたい。
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