
「モッキュモキュにしてあげる」2025年2月1日の日記
先日、映画「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」を観に行った。
VHSの映像をスクリーンで観るのは初めての体験だったし、この演出で「撮る」や「観る」という行為における視野狭窄が再現されていた。例えば、ミュージシャンのライブでスマホを用いて録画する際、私たちの視点はどこにあるのだろうか。
モキュメンタリーはあらゆる広義の文体を引用するが、それが均質化された文体の1つでなく、別の世界として立ち顕せていたのがこの作品の大きな仕事だろう。つまり、主体が文体なりテクスチャーの側に引用されるという転倒があった。それはY2KリバイバルでZ世代が自らの身体にフィルターをかけ、ノスタルジーを演出する現代のメディアエコロジーの否定的な側面も射程に入れている。この作品の舞台の1つである存在しない廃墟も印象的だった。荒地にすら絶対性を感じられなくなった私たちには、もはや廃墟すら存在しない。「神様とか、仏様とか、遺品とか、遺骨とか、そういうものを全部あの山に捨ててきたんだ〔…〕」(パンフレット『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』より)
映画「女優霊」(1995)、「戦慄怪奇ファイル コワすぎ! FILE-04 真相!トイレの花子さん」(2013)、「オカルト」(2008)を観た。
キッチュな花子さんのビジュアルやタイムスリップ中の映像とのギャップで、死のリアリティが大きくなっており、そこが良かった。
「オカルト」はとても刺激的だった。分かりやすく「引用の織物」であるモキュメンタリーの性格自体を巧くホラー的なシステムに転換できていた。再-刻印されたら大虐殺せずにはいられないし、それを記録しなければいけないという強迫観念も生まれる。終盤は中年男性2人によるセカイ系で、おそらく既に論じられているだろうが、この作品もある種ゼロ年代的だと考えた。
久しぶりに短い小説を書いた。無意識的に参照したものは最近読んだ青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』や、日常的に読んでいる(モキュメンタリー)ホラー小説群、日常的に聴いているHip Hopとその文化。
改善点、Hip HopにおけるSWAGを再現するために、固有名詞やスラングを増やしたり、チョイスにこだわった方が良かった。対立構造(例えば男/女)とメタファー群のどれとどれが対応しているというのを整理した方が良かった。キャラクター間の描写に差がありすぎた。青木やモキュメンタリーホラー小説の演出をもっと分析して、洗練したかたちで導入すれば良かった。状況による一人称のブレについての考察が足りない。
良かったこと、白濱さんから聞いたが、描写の具体性について基準を設けると良いと書く前に知り、なんとなく実践できた。ホラー的というか幻想的な演出の方法をなんとなく掴めた。
初めて、1曲分のバースのリリックを書いた。Hip Hopを聴き始めたのは2019年で、当時はライムをストックしていたが、オーディション番組「ラップスタア誕生 2020」を観たあたりから、それをやめ、代わりに移動中や入浴中にフリースタイルを無意識的にするようになった。それは習慣化していて、数ヶ月前から、なんとなくtype beatを流してフリースタイルをするようになった。数日前に白濱さんから音源が送られてきて、私も触発されたので、テーマを決めて、通話しながら各々1曲分のバースを書いた。気づきとしては、ラッパーがよく語る「数時間で作詞する」というのに懐疑的だったが、実際にそうなんだなと体感した。ひとと作らないと生まれないラインもできて良かった。