【日常#2】自転車・syamu・夏休み

私はBRIDGESTONEのCHEROという自転車に乗っている。

自転車に凝っているわけではないが、頻繁に乗るし、好きだ。

それで、今日、面白い動画を発見した。

syamuさんが自転車に乗って公園に行くというものだ。

前提として私はsyamuさんのトーク集(約10時間)を少なくとも10周はしている程度に彼が好きで、彼を面白がることの暴力性は自覚しつつも、そうでない形で、なんとか彼の魅力を言語化したいと考えている。

最近は精神分析や、それを手法の1つとする視覚文化論的なアプローチで彼の作品を論じたいと思っている。具体的には和歌山旅行の動画(2時間弱)内の「部屋にあった姿鏡の前でふざけてみた」という1シークエンスを分析したい。これはシャム学という考察文化に隣接するファンによるムーブメント内でも、よく語られている。私はこれを考察でなく批評してみたいと思ったわけだ。

話を自転車に戻そう。

Googleマップで見られる顔が無い人のようでもある

この動画は一人称的な視点と、背景が透過されたワイプが同居する奇妙な画面構成で進行していく。これにより単に後退しているわけでも、逆走しているわけでもない、後ろ向きに前進するという、これまた奇妙状況が生まれている。

「オフ会0人」をきっかけに「0」や「無」という概念と関連させられがちな彼だが、この動画では初めて中学1年生で負の数を用いた四則計算をやった時のような混乱が得られる。しかし、後ろ向きに前進するとは、なんだか彼を象徴するような運動にも思えるな。

この動画のコメントでも見受けられたが、彼の特徴として「夏休み感」が挙げられる。神聖かまってちゃんのような感じだ。

神聖かまってちゃん『1999年の夏』のMV
ちなみに、の子とsyamuさんの年齢は1歳差だ

「部屋にあった姿鏡の前でふざけてみた」と比べると、いささかマイナーだが「まだまだ夏休みなのでセミを探しに行く」というのがある。

「まだまだ夏休みなのでセミを探しに行く」

「夏休み」とは、しばしば無職が自嘲的に用いる単語だが、「まだ、まだまだ夏休みですけども」と冒頭にて自然と言っているところに、おかしみと哀愁がある。中でも有名な小学生に追い抜かれるシーンと、「セミ」というモチーフの選択がマッチしていて、それも良い。

syamuさんの一人称視点と自転車にまつわる2つの動画を並置して語ってみたがどうだろうか。これからも彼の夏休み感・日常性について考えていきたい。

最後にある歌詞を引いて、この記事を締めたい。先に触れた神聖かまってちゃんと『僕は頑張るよっ feat. ano』でコラボした、あのちゃんがボーカルを務めるI's、その神聖かまってちゃん『笛吹き花ちゃん』とサウンドが類似しているとも思われる『僕の春』のサビが私は好きだ。


待っていてくれはしないよ/追い抜かれてばっかだよ
まだスタートラインにも立ってないし/
待ってまだこんな気持ち/捨てれてないのに/
僕の春は一体どうなんだ

夏じゃなくて春じゃねえか


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