「世界の端」について──『リコリス・リコイル』評
批評家・宇野常寛はアニメ『リコリス・リコイル』について、こう述べている。主人公である千束(ちさと)がエージェントとして「平穏な日々」「当たり前の日常」を守る構図は、さながら製作陣が「日常系(空気系)」をガンアクションを用いて延命させているようだと。
そして、千束に対置される真島は「日常系」の欺瞞を告発するだけの矮小なヴィランでしかない。つまり千束が欺瞞と承知で選択したイデオロギー(日常系)に「嘘だ!」と指摘しても無意味だと宇野は考えている。
さらに、今日のアニメは「日常系」から異世界転生に代表される「なろう系」に移行しており、この現状を理解するに、真島は自覚的な嘘に「嘘だ!」と指摘する「反日常系」ではなく、より巨大な嘘である「なろう系」を掲げ、その視聴者層である弱者男性や無敵の人を先導するべきではなかったのかとも記している。
井ノ上たきな批評としての『花の塔』
私は宇野の指摘に完全に同意する。しかし本記事では千束と真島から視点を移して井ノ上たきなを中心に『リコリコ』について考えたい。
映像からも明らかなように『リコリコ』ED・さユり『花の塔』は井ノ上たきなについての楽曲だと考えられる。まずは1サビの歌詞に注目したい。
あくまでさユりによるたきな批評ではあるが、たきなは千束の手を握る事を選ぶが、千束が擁護する日常(孤独を知らないこの街)には2度と帰らないと考えている。2サビも見てみよう。
1サビと違い2サビでは(孤独を知らない)この街中を泳げたらと歌われるが、やはり「君と2人」という二者関係に閉ざされており、宇野の千束=日常系という図式を引用するなら、明らかに主人公2人の価値観にズレがある。
千束(日常系)とたきな(セカイ系)
私は「世界の端と端を結んで」という歌詞から、たきなは「セカイ系」の世界観を生きているのではないかと考える。「セカイ系」とは「私とあなた」という二者関係が「世界」という全体に直結する物語である(諸説あり)。
しかし、『リコリコ』の視聴者にはお分かりの通り、たきなは多くの「セカイ系」主人公のように受動的ではない。第9話では千束を「あそび」に誘ったり、喫茶「リコリコ」の店員やお客さんとも徐々に打ち解けていく。そう、つまり井ノ上たきなは『花の塔』や「心臓が逃げる」などの迷シーンに見られるような「セカイ系」的な世界観に生きつつも、「日常系」(千束)との間で葛藤する存在として描かれている。
つまり私が考える『リコリコ』の最大の対立とは千束(日常系)と真島(反日常系)ではなく、千束(日常系)とたきな(セカイ系)なのだ。宇野は著書『ゼロ年代の想像力』で既に「セカイ系」から「日常系(空気系)」への移行に注目しており、あえてこの対立を無視して「なろう系」について提案したのだと思われる。そして『ゼロ想』は10年以上前の批評ゆえ、そこでの議論をなぞった『リコリコ』が最先端とは言い難いだろう。しかし私のような「セカイ系」すら後追い世代の人間からすると、やはりたきなが脱「セカイ系」をし、成長していく様子は自分事として楽しんで観る事ができた。
『ベイビーわるきゅーれ』について
ところで、映画『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』が今年の3月に公開される。前作の『ベイビー・わるきゅーれ』(2021)は『リコリコ』の引用元とされている。『ベビわる』は殺し屋である2人の女性・杉本ちさと(!)と深川まひろの共同生活を描いた物語だ。ちさとは『リコリコ』の千束(ちさと)と同じくポジティブで副業のバイト(それこそ喫茶店)もこなしていく。一方まひろは殺し屋としての能力は高いが社会性が低く、ひきこもりがちだ。つまり『リコリコ』はちさととまひろの関係性を再解釈してアニメに落とし込んだものだと言える。また『ベビわる2』の予告には『リコリコ』OP映像から演出の逆輸入が確認されており、個人的に話題である。とにかく公開が楽しみだ。
『お兄ちゃんはおしまい!』について
『ベビわる』の杉本ちさとが『リコリコ』の千束に引き継がれた事は説明したが、深川まひろから連想されるのは、やはりアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』の主人公・緒山まひろだろう。正確には『おにまい』の方が時系列的には前だが、両者ひきこもり属性という暗合がある。さて、本記事はそんな『おにまい』OPの歌詞を引用して締めたい。