まずは自己紹介から。

学生時代から現在まで


 これまでの経歴をまとめておこうと思いました。このほかに、コンピュータとの付き合いや、フリーランスを目指すこととかもつづろうと思っています。それはまた長くなりそうなので、別の記事に纏めます。

学生時代

立命館大学の理工学部数学物理学科に入学。物理学の勉強にのめり込む。
その後に同じ大学の大学院に進学。量子力学の理論である相対論的量子力学を研究。

勉強したこと

  • 力学はランダウリフシッツがお気に入り。

  • 電磁気学ではMaxwell方程式の導出に感激(砂川重信、岩波全書)。

  • 量子力学は色々と本を漁ったが、根本がわからずじまい(最近ようやく不確定性原理が何を主張しているか理解できた)。

  • 量子力学の勉強中に、代数学、解析学(フーリエ変換、ヒルベルト空間、超関数など)、幾何学(トポロジ)などの純粋数学にも興味を持ち始める。

  • 統計物理学で統計の面白さを知る。キモは分配関数の導出だと見極める。

普通の大学生として

  • 麻雀に明け暮れる。しかし賭け麻雀は嫌い。

  • ファミコン全盛時代で、友人と「ボンバーマン」を楽しむ。

  • 研究室のパソコンをイジリまくる。挙げ句にはX68000を大学生協で購入してマンデルブロ集合の図形を描かせて遊ぶ。

  • 昼ごはんによくお好み焼きの「ジャンボ」に行く。我ながらよく食べた。

  • 晩ごはんは「天下一品」のこってりラーメン。

  • バイトはスーパのレジをやって、ガソリンスタンド。社会、特に京都の社会を知るいい機会になった。

  • 大学の3回生からは奨学金を借りられるようになり、バイトはしなくなった。

社会人時代

株式会社日立製作所に入社。小田原工場でHDD用の磁気ヘッドの材料開発を行う。

実際のところ

 立命館大学のOBが小田原工場にいて、引っ張られたというのが実情。バブル全盛の時代だったなぁ。

 工場では、先輩が担当していた磁気テープ装置に使う磁気ヘッド用のオンボロ製造装置を押し付けられて、それのお守りをさせられた。この時に設備の隅々(メカニズム、メンテナンス、シーケンス制御)まで知ることができた。

 所属していた部署の方針として、各設備は一人の技術者が全部面倒を見ることになっていて、見込まれたのか、色々と使われていないオンボロ設備を担当させられた。減価償却が済んでいるので、それで生産すれば収益が上がるという訳。

 社内技術論文1件と特許2件書いた段階で技師(係長クラス)に昇格。次第に製造寄りの仕事を任されるようになる。

 新しい製造設備を購入することになり、設備の導入から生産への適用までの一切がっさいをやらされる。フレックスタイムが導入されて、出勤はほぼ毎日10時。
周りには嫌がられていただろうと、今になって思う。

登山との出会い

 なんかのきっかけで、新田次郎の「単独行」を読み登山に興味を持ち始めた。

 小田原からだと西の方角に箱根の外輪山がドカンとそびえている。一度行ってみたいと思い始め、地図を手に入れルートを考えて、マウンテンバイクで出かけた。

 自分で考えたルートを歩ききって山頂に立った時にとても満足感を感じた。それからは何度も箱根に出かけ、さらに丹沢にも足をのばすようになった。

 会社の別の部署に登山をやっている人がいると教えてもらい、その人と話をするようになり、山岳会に一度顔を出してみたらと誘われた。それからは山岳会に入会して、本格的に山登りをするようになった。

 山岳会とは岩登りや沢登りなどの、いわゆるバリエーションルートに行くための技術の取得や実際の山行を行うのが目的で、関東周辺の前夜発日帰りや1泊かけていく沢登りや岩登りのルート、夏には北アルプスの特に剱岳に出かけた。

ウツ病の発症

 会社では製造部に移動となり、生産ラインの工程設定や工程管理の仕事が増えてきた。さらに昼夜や休日を問わない現場のトラブル対応。同僚との確執。増産のための新規設備導入など、どんどんと仕事が増えてこなしきれなくなっていった。

 さらに、社内の規定で、TOEICの点数が規定点数以上ないと昇格できない基準があり、英語が苦手で、技師どまり。上司は後輩社員になっていき、部下もつけられずに一人で仕事を抱え、帰りはいつも午前様。酒を飲む量が増えていき、産業医に相談したところ、ウツ病と診断された。

 心療内科に通院して、仕事は休職した。しかし休職は半年まで。3ヶ月休職した時点で職場に戻った。この時は上司は自分を理解してくれている先輩社員。しかし職場には居場所がなかった。

 結局、退職したい旨を上司に伝えた。部長から引き留めの話があったが、とにかく精神的には最悪の状態で、何度も自殺を考えるような状態だった。

 退職の意思が強いと判断され、退職のための後始末と退職手続きをして17年間過ごした小田原から名古屋の実家に戻った。

退職後の生活

名古屋の実家に戻って半年ぐらいは病院にも行かず、プー太郎で過ごした。

再就職とウツ病

 ある日、新聞の折り込み広告で近くの町工場の求人を見つけて入社。学歴と職歴を評価してくれて、ある程度の給料をもらえるようになった。

 しかし次第に出荷する製品の納期厳守のために帰宅時間が遅くなっていった。この時点で近くの内科に相談。心療内科を紹介してもらい、通院することにした。それと、町工場は辞職した。

 当時(2008年)から介護の仕事の求人倍率が高いことを知り、ヘルパーの資格をとり、個人が経営する小規模多機能介護施設で働くことになった。介護の仕事は病気を患っている自分にとっては、やりがいがあり、それほど難しい作業はなかったので、3年ほど続けられた。

 介護の仕事をしている間に、山小屋の住み込みバイトという仕事があることを知り、一度やってみたくなり、介護会社の社長に相談して、上高地のキャンプ場で住み込みバイトをした。

ウツ病と付き合いながら現在まで

上高地のキャンプ場の後は色々と職を変えた。しかしどこも長続きしなかった。

 貯金を切り崩したり、仕事を色々やりながらなんとか生活をしていたけれども、やはり収入が安定しないので、いつも生活に不安を感じていた。心療内科にカウンセリングをしてくれるケースワーカさんがいて、障害年金の受給を申請するようアドバイスされた。

 障害年金の支給が決定されて、ウツ病を患い始めた最初からのさかのぼった年金も入ってきたことで、それから数年間はプー太郎で生活していた。

 仕事を探そうと思ったのは、通院している心療内科で「ハローワーク連携支援」というサービスをしていて、それを利用することにしてから。ケースワーカから就労継続支援A型事業所の存在を教えてもらい、まずは区役所に行って手続きを行った。

 それから、ハローワークの担当者がとてもいい方だった。色々と話を聞いてくれて、自分に合いそうな求人先を何件か探してくれた。その中の一つに興味を持ち、見学→体験→採用面接をへて仕事を始めることにした。

 最初の頃は休みがちだったけれども、少しでもいいから顔を出せば出勤扱いになると言われて、午後だけ出勤とかも経験した。

 今から2年前に自宅で、血便と血の混じった嘔吐を繰り返し、これは只事ではないと実感した。立っていられなくなり、救急車に来てもらい、即入院となった。病名は「マロリーワイス症候群」。飲酒のしすぎで肝臓がダメージを受け(ほとんど肝硬変)、その影響で胃の内壁がボロボロになって出血していた。

 約1ヶ月入院。胃カメラで食道の様子を撮影した画像を見せられた。食道を通っている静脈がウネウネと浮き上がっていた。「食道静脈瘤」だと医者に言われ、このまま酒を飲み続けて、吐血したら死にますよと言われた。

 それを機に飲酒はキッパリとやめた。

 会社に復帰してからは、会社の仕事内容の見直しもあってか、働きやすくなったように感じた。朝に出社したくないと感じることもあったけれども、次第に出勤が当たり前になり、毎日きちんと出勤できるようになった。

そして、これから

 父が老人ホームに入り、その支払いが負担になるようになってきた。出勤態度も安定してきたので、まずは収入を増やすのが第一目標と考え、一般就労をすることにした。自分にふさわしそうな職場を見つけて、応募書類を郵送した。今週中には連絡があると思う。

 また新しい生活が始まることになる。

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