三題噺「寿司 ジンベエザメ 三角」
大学生の時、掛け持ちしていた文芸部の活動で書いた小説が、データの整理をしていたら出てきた。パソコンの隅で腐らせておくのも何なので、ここで供養しようと思う。
当時、三題噺(三つのランダムな単語をもとに話をする落語。小説や漫画等の媒体でも使われる)は初めてだったので、なんだかいつもと違う筋肉を使っているようで楽しかったのを覚えている。
野生のフィラメントが首をもたげてこちらを覗き込んでいた。
コンクリートで加工された地面は、革製の靴の踵にあてられてカツカツと悲鳴を上げている。
今日の失敗、口に出すことすら陰鬱へと落とし込む切っ掛けになってしまうあの失敗が、未だに私の頭の中をぐるぐると飛び回っていた。夏の釣瓶が落ちたとたんに急に肌寒くなった空気が、七分の丈と袖から見える私の地肌を嫌味に薙ぐ度に、末端の神経を通って脳の暗いことを考える部分を刺激していく。
吐く息もあと一、二週間で白く濁るのだろう。何故だかそれが厭に物悲しく感じた。
ああ、この吐息の血の気が引く頃には、私の問題もそれなりの好転を見せるのだろうか。そうであったらどれほど嬉しいことか。足を止め、まだ透けている息の行く先を、アタリをつけて眺める。
ふと、その先に目が行った。そこはかとない違和感が頭の端をかすめたのだ。
道の両側で列をなしていた街灯たちが、明らかに先程より傾いている。いや、傾いているというよりは、首をこちらに向けて傾げているような・・・。
数瞬考えた後に空目に違いないと切って捨てた。そんなはずはないのだ。もう一度暗い思索に耽ることにした。地面がまた、悲鳴を上げた。
目を瞑ったまま、家に帰った後のことを考える。
切れかけの電球が点滅している部屋の中で、コンセントから延びるコードに首を巻かれたテレビが愛だなんだと繰り返し吠えている。帰りしなに買った値引き弁当を、貰った割り箸で食べる私のことを急かしているのだろうか。徐に、中途半端なところで箸を置き、ふらつく足で脱衣所へと向かう。もたつきながら服を脱ぎそのまま洗濯機に咀嚼させ、冷水を混ぜ忘れ熱湯がそのまま出てきたシャワーで一丁前に火傷をした後に。水ぶくれを擦りながら布団に入って、「そういえば歯を磨いていない」「ゴミも出していないな」「まあ、明日でいいか」と思いながらまどろみに軸足を掴まれるのだ。
なんて退廃的な生活だろう。
何も生まず。何も考えず。痛みに鈍感で。悲観しているくせに、楽観しているように振る舞う。
幼少のころの様に叱ってくれる両親も、一から順に教えてくれる学校も、もうない。いや、手が届かないといった方が正確なのだろう。そのどちらも、私が風体だけを大人に取り繕うために置いてきてしまったのだから。
母の顔を思いだす。怒った顔も泣いた顔も笑った顔も、すべての顔が頭の中に浮かぶ。そしてそのすべての背景が、母の喜怒哀楽に関係なく真っ白だった。
そろそろこの街灯の道も終わる。私は、思考を断ち切ろうと瞼を上げた。
街灯の光が、晒された眼球の表面を叩く。お前の内心など知ったことではないと言っているようだった。ようやく瞳孔による調光が終わり、景色の相貌がはっきりと浮かび上がる。
目の前には、街灯があった。
電球を被う傘を、大口を開けるように開き明暗を鼓動の様に繰り返す街灯が、その背中を大きく曲げて、眼前でこちらを見つめているのだ。そのあまりの異様さに、二、三歩退く。
するとその街灯は、退いた分とちょうど同じほど腰を曲げて私の近くに寄った。
いよいよ恐ろしくなった私は、無心で踵を返してから逃げ出した。もしかしたら何かしらの間抜けなうめき声などを上げてしまっていたかもしれない。
それは、後ろを向いて逃げれば、視線を背ければ、とりあえずはこの恐怖から逃避することができるという情けない感情からのものだった。
しかしながら、やはり、未知の恐怖からそう簡単に逃げ果せられるわけがない。
振り返った私を通り過ぎて行った街灯たちが、今しがた目を逸らした恐怖と同じように腰を曲げて私の行く道を遮っていたのだ。その数は両の手足で充てて数えても足りぬほどで、私がどれほど抵抗しようとも無駄に終わるということを、容易に想像させた。街灯たちがその傘を大口を開ける様に開いているのとは対照的に、私の口はまんじりともせずその恐怖によって一文字に縫い付けられていた。
私のことを取って食うつもりなのだろうか。その恐怖たちは私にじりじりとにじり寄り、それに比例するように口腔の面積を拡げていく。彼らに足があるのならばあと一歩といったところで私の意識は真っ黒に落ちた。
微睡む視界と意識の端で、大きな大きな魚が跳ねた。
海の中とも雲の上ともつかない景色の中、白と水色を斑に合わせたような色をした水滴を跳ね上げている大きな魚が空間を蹂躙している。グレーと青との中間の色の体に、ひらっべたい頭。口は横ににぃっと広げられて閉じる気配はない。体中には白の斑点を纏っている。
確かあの魚の名前は------
「おぅい」
くらくらする頭でどうにかして名前を思いだそうしている私に、誰かがしゃがれた声で呼びかけた。辺りを見渡してみるが、その声の主らしき人物はどこにもいない。
「そこじゃない。上だ。うえ」
その声に言われるがまま上を向くと、そこには大きな大きな影があった。確かに声はその上から聞こえる。
「こっちにこ~い」
「そう言われても。高すぎて・・・」
この不思議な空間のせいか、もしくは微睡がそうさせるのか、上から聞こえる声に何の疑問も持たずに応えてしまった。
「ダイジョブだから跳んでみな」
何だかふわふわした気分の私は、何の疑いも持たず言われた通りに声の向く方に跳んだ。
膝を曲げて勢いよく地面を蹴ると、驚くほど容易に体が浮きあがった。大きな影の脇に揺蕩んでいた雲を突き抜けると、数瞬の白の揺らぎの後にその背が見えた。
大きなヒレで傍らの雲を叩きながら背を反らしているその影は、つい先ほど見た魚と同じものであった。
魚の背中を縁取った形で白色のレーンが一周して置かれており、白のパネル一枚一枚の上には掌大のプレートが添えられている。さらにその上にはバラエティに富んだどこがチープな寿司が乗っていた。どことなく懐かしい雰囲気が漂うそれは、まぎれもなく子供の時に行ったあの回転寿司と同じだった。
そのことに気付いた辺りで、漸く魚の背中に着地した。すると、それと同時に真後ろから声をかけられた。
「な? できるもんだろう?」
ふくよかな響きを含んだ声が後ろから耳元に落ちた。さっき上から投げられた声と同じ音色だった。
振り向くとそこには、左肩に竹でできた釣竿を添え、右手には真っ赤な鯛を抱えた恰幅のいい初老の男性が立っていた。
「やあ、お若いの。初めまして」
その老人は首だけで一礼すると、糸のように細い眼をさらに細めて微笑んだ。
「あの・・・」
「ああ、わかってるわかってる。みなまで言うな」
私の疑問を制し、彼は既に承知しているといった様子でその老人は話し始めた。
「ここはどこだと、いうことだろう?」
「はい。それと、貴方が誰かというのも」
微睡む頭でうつらうつらしながら答えると、彼はにこやかに大きく頷いた。
「残念ながら私が何者なのかは言えない。まあ、簡単にここの主だということは言っておこう。しかしここがどこなのかはお答えできる。心して聞け? ここは『微睡の園』」
「『微睡の園』・・・?」
「そう、『微睡の園』。ここに来る者はみな微睡に落ち、酩酊のうちに心を癒す。どうだ」
そこちらの様子を窺うように目を合わせてきた。
私は、自身の体調を確認するように目を閉じ、先ほどからあった体の症状を言葉にする。
「はい、ここに連れてこられてからというもの、頭の中がまるで体重差のあるシーソーみたいに揺れています」
「そうだろ。そうだろう」
さっきよりさらに柔和な笑みで彼はもう一度頷いた。
「だが、一つ訂正がある」
「訂正?」
「別にお前はここに連れてこられたわけではない。自ら望んでここに来たのだ」
そんなはずはない。私はあの街灯に食べられて気づいたらここにいたんだ。第一こんな摩訶不思議な空間、来ようと思ったところで来れるような場所ではないはずだ。
「逆だ。ここは来ようと思わないと来れない場所」
「口に出ていましたか? 」
「私はここの主だ。これくらいたやすい」
老人は得意げに胸を叩いた。
「『微睡の園』は心の奥底で来たいと望むものしか受け入れない。お前がここにいるということは、そういうことだ。表層では違うかもしれんが、奥の奥では逃げ出したいという気持ちがあったのだろう」
そんなはずはない、とは思えなかった。今日の失敗のことを考えると、私のあずかり知らぬ心の端で暗い感情が渦巻いていても仕方がないと思えてしまうのだ。
「その通り。お前が気付かぬうちに、お前自身が精神の辺境で暗い根城を築いておったのだ」
老人はまた私の心を読んだ。
「話してばかりいてもしょうがない。兎に角、お前の心を癒していこう」
「癒すって言ったって、どうやって癒すんです? 私はこれでも相当偏屈で傲慢ちきな人間ですから、貴方に励まされたり慰めたりしたところで簡単に癒されたりはしませんよ?」
なんとなく自分の心を読まれるのが嫌だった私は、頭に浮かんだ言葉を一切の逡巡なく口から放り投げた。老人が少し驚いていたあたり、それなりに思惑は成功したのだろう 。老人は驚いた顔をやにわにおさめ、そのふくよかに垂れた頬をおおきく吊り上げて笑い出した。
「ハッハッハ。言葉なんて不確かなものなぞ使うわけがないだろう。ここは奇妙奇天烈摩訶不思議奇々怪々の『微睡の園』。癒しの方法も、常識と理解の範疇を優に超えるものである。その方法とは―――」
そういうと老人は大きく手を打った。するとレトロチックでどこか懐かしい、ゼンマイのような音が周囲に響き渡った。そして一時すると、老人と私を囲んでいたレーンがきしむ音をたてながら回り始めた。
「寿司だ」
「寿司・・・?」
「『寿を司る』と書いて『寿司』。『寿』とはこれすなわち『祝いの言葉』。祝いの言葉を司る『寿司』をもって、お前の心を癒そう」
言いながら老人は私を回るレーンの前に押しやった。
サーモンに赤身。イカやイクラにウニとエビ。レーン上に乗せられたネタはどれも何の変哲もない、ただのどこにでもあるようなものに見えた。
「食ってみればわかる」
また心を読んだのだろう。私が何も言わずとも、その意を察した老人が私に二枚の皿を取って渡した。
醤油が入った小皿と、つきみイカの軍艦。子供のころ母と一緒に回転寿司を食べに行ったときに、決まって食べていたネタだ。
私は、やはりまだ治まらない微睡と懐かしさを混ぜこぜにしたような頭で、進められるがままそれを口に運んだ。
一瞬、視界が白んだ。
口に含んだそのネタを噛み解していくたびに白の明暗を繰り返す。どことなく優しい感じを携えたそれは、なぜか『懐かしい』という感覚に似ているような気がした。
その感覚は完全に味がなくなるほど噛み解くまで続いていた。感覚が消えてからもそれを嚥下するのが惜しかった。
「優しい」
老人に心を読まれ言葉を取られる前に、口から感想を放り出した。どうしても自分の口で言いたかったのだ。
「ここの寿司たちは、輪廻転生したお前の記憶だ。お前が忘れてしまったことで死んでいった記憶たちが、この場所で寿司として生まれ変わったのだ」
老人が言い切る前に、私は次の皿に手を伸ばしていた。ここにあるネタの元がどうだかなどは知ったことではない。あの味を、あの感覚を、もう一度味わいたかった。
サーモンを口に運ぶ。
頭の中で火薬がはじけた。
驚きのあまり吐き出してしまいそうになったが、なんとか口を押えて目を剥くことでこらえた。ネタに歯を立てて噛んでいくたびに、その爆発は火薬を増していき、飲み込むころには意識が半分飛びかけていた。
「話は全部聞け。ここにある記憶は、全てお前に殺された記憶たち。『忘れてしまった記憶』だけじゃない。『忘れたかった記憶』も当たり前に入っている。その反応を見る限りその記憶は『怒りの記憶』だ」
私は口元を両手で抑え、老人を睨んだ。
「お前が聞かなかったのが悪い。それに、味の方は上等だっただろう?」
そう言って老人は意地悪ににやついた。
確かに、味は良かった。今までの人生で食べたことがないほどの美味しさだった。それに、微睡のせいか爆発の衝撃ももう消えてしまっている。覚悟さえ決めていれば耐えられないものではなかった。
「ほらほら、もう一枚とってみろ」
そういって差し出されたもう一枚を、私は懲りずに受け取った。
頭の中を遂げで蹂躙されたような感覚が襲った。
中トロ、かんぱち、ウニ、イクラ、エビ、コーン軍艦、みそ汁や茶碗蒸しといったものまで、あれから何枚もの皿を取った。そのどれもが、何回か痛い目を見はしたが、極上のものだった。
「あなたがわきに抱えているその鯛は食べられないんですか?」
すっかりこの寿司の虜になってしまっていた私は、老人にそんなことを聞いてみた。これほど長いレールを一周してきたネタたちがこんなにも絶品なのだ、新鮮な魚で作られたものであったら一層おいしいに違いない、と考えたのだ。
「作れんこともないが、痛い目を見るぞ?」
「痛い目ならもうかなりの回数見ています。いまさら喚いたりはしません」
心を読まれる前に喋るのも、かなり慣れてしまっていた。
微睡と食の快楽による酩酊の中、私は癒されもしたが同時に正常な判断力を失っていた。普通に考えたら、ここの主である老人が常に持っている魚がほかのものと同じわけがないのだ。
「わかった。しばしまて」
少し考えてから老人は、どこからともなく取り出したまな板と包丁で魚をさばき始めた。その手捌きに迷いはなく、昔テレビでみた寿司職人の様に鮮やかに身に刃を通していく。
「ほら、できたぞ」
あっという間に寿司を作り終えた老人は、皿ではなくまな板の上に出来上がった寿司を乗せて私に差し出した。その寿司は、今までのものと一線を画すものだった。素人目で見ても一目でその完成度が窺える、まるで芸術品のそれだった。手に取ると、やはりさっきまで食べていた寿司とはどこかが違うように感じる。なんというか、さっきまでのものと比べてどことなく現実的だったのだ。
多少の疑問を抱えながらもやはりその誘惑には逆らえずその寿司を口に運んだ。違和感から目を背ける様に目を瞑って。
瞬間、瞼の裏に過去が訪れた。
数回の明暗の後に鈍い鈍痛が頭を駆け抜ける。目縁をそって鮮明な景色が流れては消えいった。しかし景色が線になっていき、数瞬のうちに感覚の端から消えていくなかで、ただ一つだけ動かずに残っているものがあった。
そこに意識を向けると今度は静止画としてではなく、動画として頭の中で進み始めた。
恋人―――いや、恋人だっった人の横に私じゃない誰かが立っている。その顔はどことなく見下したような、まるで敗者を憐れむような顔をしていた。頭にきた私は、そいつの胸ぐらを掴もうとする。しかし、恋人だったひとが身を挺して庇いこちらを睨んでくる。
そうだ、これは今日の出来事だ。今日の、失敗の出来事だ。私を陰鬱の中に叩き落した出来事だ。
見たくない、見たくないと思っても、残虐ともいえる過去は私の意志を無視して強制的に脳内に投射を続ける。
こちらを睨んだ元恋人は私に向かって何か大声で叫んでいる。きっと、私を乏しめるようなことを荒々しい感情の調べに乗せて叩きつけてきているのだろう。耐えきれなくなった私は、涙をいっぱいに溜めながら耳を塞いで逃げ出した。
その瞬間に、脳内で蹂躙を続けていた投射はぷっつりと途切れ、投射を受けていた暗幕は勢いよく開け放たれた。
「新鮮であるほど。そのもととなる記憶も新しいものとなる」
老人はにやにやした表情でそういった。
感情の渦に飲み込まれ嫌悪感と倦怠感の波に溺れてしまっていた私は、サーモンを食べた時の様に意識の糸が切れそうになっていた。
「おや、息も絶え絶えといったところか」
自身の呼気の粗さを煩わしく思いながら頭の中をとある言葉が浮かぶ。
「どうだった」
「おいしかったです」
「そうか、一品限りだ。二皿目はないぞ」
そういうと老人は、私の額にその肉々しい掌をそっと添えた。
重厚な暗幕が目の前に落ちた。
気が付くと私は、あの時襲ってきた街灯の一つに寄りかかっていた。
立ち上がると、白々しさを含んだ風が私の頬をそっと撫でた。空は白み、街灯たちは規則正しく整列している。その目に光はない。
今まで見ていたことは全て夢だったのだろうか。
夜のうちに蔓延ったあの陰鬱を、そのまま携えた頭で考える。
恐らく夢だったのだろう。あの空間での経験は、何の実態も持たない一夜の記憶整理の一環だったのだ。
私はスーツに着いた砂を払った。
何故かあの陰鬱がいやに軽く感じた。
そうだ。私は食べてしまったのだ。あの嫌な失敗の記憶を。咀嚼し、嚥下し、腹で溶かして、この身にしてやったのだ。
革製の踵が歩くたびに、アスファルトの地面と打ち合って拍手をしている。
次、あの二人にあったら、ざまあ見ろと言ってやろう。
身の軽くなった私には、くだらないことを考える余裕すらあるのだ。
「あの魚の名前はジンベエザメ。確か別名は―――」
朝ごはんは食べなくていい、なんとなく腹は満たされている。
「―――エビスザメ」
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