孤独・憂鬱・引きこもり・不登校及び人と関わる事についての考察

不登校だった中学生時代、氷菓、けいおん、悪の華やエンパイア・レコードみたいな青春に憧れていた。孤独で居続けることも嫌だった。そういうわけで私は心機一転、全日制高校を受験し、まともな高校生になった。入学する前に抱いていた不安の殆どは杞憂で、学校生活にはそこそこ馴染めた。思っていたほど"みんな"と価値観が乖離しているわけでもなかった。友達は出来なかったけど、疎外されているというほどでもなかった。創作物で描かれる理想的な学園生活からは程遠かったけど、人間と関われるだけでそこそこ楽しかった。
特に女子生徒と話すのは楽しかった。当然、関係性と呼べるほどのものは何も無かったし、今でも私のことを覚えている人は誰一人居ないだろうが、一瞬でも彼女達のATPが私のために消費されたという事実だけで十分だった。僥倖だった。
このまま平和に卒業できると思っていた。が結果的に私はまた不登校になった。しかも以前より悪い方向に。

一つ強烈に覚えていることがある。確か国語の授業で詩作か何かをして、その発表会だったと思う。私は吃音を持っていて、小さな頃から発表では毎回吃ってきたから、そのせいで朝からずっと不安だった。でもここ数年酷い症状は出ていなかったし、問題ないと思っていた。しかし授業のチャイムと同時に、鼓動はどんどんと早まり、手は汗ばみ、指は震え、頭は緊張と不安で白くなった。なんと表現すれば良いのかわからないけど、とにかく異常な状態だった。大丈夫だ、行ける。と何度も自分を説得しようとしたけれど、無駄だった。身体は言うことを聞かず、指は震えたままだった。前の人の発表が終わり、順番が来た。どうにか深呼吸をして席を立った。足の感覚がなかった。操り人形を操作しているような感覚だった。どうにか教壇までは移動できた。クラスメイトが囲碁の目のように並んだ椅子の上に座っていた。私はゆっくりと台本を胸の高さまで持ち上げた。そこで準備はすべて終わってしまった。息を吸い込んで、発表を始めようとした。だが息が口から出なかった。口はその音の形になっているのに、音だけが出てこなかった。喉の奥に力を込めて、どうにか声を出そうとする。しかし喉は何も通さない。もう一度だ。まだ間に合う、と痙攣する全身に言い聞かせた。ヒトラーの演説だと思えば良い。息を吸ってもう一度声を出そうとした。しかし静寂が流れた。私の唇は開かれたまま、ぷるぷると震えている。皆おかしさに気づき、疑問の目が向けられる。こいつは何をしてるんだ?純粋な疑問。悪意でも善意でもなく疑問。なんで発表なのに何も言わないんだ?みんなが私を、その目で見る。呼吸の間隔がどんどん短くなっていく。肺に空気が入らない。息ができない。脳が消えていく。フラフラとしてきて視界が点滅し始めた。先生を見た。助けてほしかった。何をしてほしかったかはわからないけど、とにかく助けてほしかった。「大丈夫だから、落ち着いて頑張って」先生はそう言った。私は諦めた。自力で終わらせなければならない。さっきと同じ事を必死に何度か繰り返した。すると一音だけ、音が出た。その音は日本語では表現できない、上下左右に曲がりくねった不可思議な音だった。その音を最後に私の口はそれ以上動かなかった。目が顔から段々とずり落ちていくような感覚だった。全身に感覚が無かった。身体がそれぞれバラバラに落下していった。私は台本を落としてその場に座り込んだ。発表は完全に失敗だった。その後どうなったかはあまり覚えていない。確か先生が介抱してくれたような気がする。翌日学校に行くのが堪らなく恐ろしくて嫌だったけど、結局私は登校した。自分にとってその事件は強烈なものだったけど、同級生にとっては大したことではなかったようで、あるいは気を使っていたからか誰もその件には触れなかった。

その辺りから、毎朝強烈な腹痛が襲ってくるようになった。まるで腹の中にデカいウニでもいるかのような、猛烈な痛さだった。また、ある朝には吐き気と頭痛があった。そして最悪なことに、それらは下剤を飲んだり、イブを飲んだりしても一切効果がなかった。医者に行っても「問題ありませんねぇ」と言われるだけだった。
何より不思議なことに、学校に休むという連絡を入れると、それらは全て跡形もなく消えさってしまうのだ。
そうして私は学校を休むようになっていった。最初は月に二回にほどだったが、週に一回になり、二回になり、段々と回数は増えていった。
私はこれが続けばまたあの陰惨な状況に陥ると思って無理矢理に行こうとした。

私は不眠を患っていて夜は決して寝れなかった。
空が白み始める早朝5時、薄すらと眠気を感じる。今から寝れば確実にその日は学校に行けない。徹夜してどうにか行こうとした。風呂に入って制服を着て髪を整えて靴を履く。扉を開けて学校に行こうとした。だけど足が動かない。何故か足が動かなかった。そんな日が続いた。

私は精神科に連れて行かれた。精神科医は双極性障害(躁鬱)という診断を下した。学校に行けないのは鬱のせいだと言われ、その原因は家庭環境にあると断言された。確かに少し前に両親は離婚したが、それ以前から父親とは別居状態だった上に、家庭環境もさほど悪くはなかった。もっと別の所に問題はあると思っていたし、多分実際にそうだった。だけど医者はそれを見ようとはしなかった。いくつかの薬をもらったが効果は体感できなかった。その病院に行くことは二度となかった。

最初は親も優しかった。心配して栄養ゼリー飲料を買ってきたり、昼ご飯を作り置いてくれたりした。だけど半年もすれば、異常も日常になる。親は私に更年期の癇癪を向けるようになり「出て行け!消えてくれ」と怒鳴った。反論しようと試みたことはある。クソアマ!とかクソババアなんて言ってみたかった。でも自分の飯も服も食事も、何もかも全部親の金で払われてたから、そんな事は言えなかった。

確か一度、本当に出ていったこともあった。部屋着のまま勢いよくドアから飛び出した。雪が降っていて、とても寒かった。
引きこもっていた私は、世の中がコートを着る季節に変わっていた事を知らなかった。
その寒さが自分の劣等さの全てを象徴しているようだった。あの日は最悪だった。アパートの踊り場から飛び降りたら全部終わるのかなとさえ思った。でも冷え切った柵に触れて下を見たとき、都合の良い妄想だったものが、急速にリアリティを帯び始め、私は恐ろしくなって飛び降りることすら出来なかった。嫌なことがあれば死ねばいいやとある種楽観的に思っていたけれど、その言葉の持つ本当の意味を始めて理解した。死にたいとすら言えなくなった。惨めで滑稽で悲しくて、心臓が押し潰されたような感覚になって、嗚咽しながら泣いた。こんなの馬鹿みたいだと思って辞めようとしたけど、涙は止まらなかった。どうしようもなかった。

いつの間にか、とても自然に不登校に戻っていた。究極的に孤独だった。本当に文字通り誰とも繋がっていなかった。楽しいことも何もなかった。誰かのせいにしようにも、原因が自分にしか見つからなかった。論理的に考えて死ぬのが一番マシに思えた。悲劇のヒロインを気取っていたわけでは無いと思う。自意識からではなく、現状から来る絶望だった。

高校一年生の最後、三月辺り。進級に必要な単位を全く取れていない私に先生が「この宿題をやったら、進級させてあげるよ」と言って宿題を出してくれた。その宿題は量も少なかったし、内容も簡単だった。
でも私はやらなかった。その宿題は絶対にやるべきだった、と今でも思う。その当時もそう思っていた。でも何故かやらなかった。何故か宿題を開けなかった。ペンを握ろうとすると指が猛烈に震えた。その頃の記憶はいまいちはっきりしない。ただ時間だけが過ぎていった。そして私は高校を辞めた。

好きだった小説を読んでも、好きだった映画を見ても、1ミリも心が動かなかった。時間が経つのに比例して、劣等感も深まっていった。周りはみんな夢や目標をもって勉強して、前に進んでいるのに、自分だけが取り残されている感覚だった。そしてそれは事実だった。

アルバイトに応募した事もあった。
インド系の男が面接官で、彼は片言の日本語で私にいくつかの質問をした。私は「あっ...あっ...あっ...」と繰り返すだけで、結局何も言えなかった。インド人よりも酷い日本語だった。面接官は最初高圧的だったが、段々と心配の方が大きくなってしまったらしく、優しくなっていった。私があまりに挙動不審だったからか、しまいには「ビョウインにオクリマスカ?」とまで言われた。
屈辱だったが思い返すと笑える。何度かやればそれも治ると思って、私は近所のアルバイトの募集に片っ端から応募した。辛かったが何度も面接を繰り返した。でもその全てで失敗した。何度繰り返しても、何も治らなかった。むしろ悪化した。自分でも笑ってしまうほどに失敗続きだった。誰かがギャグの基本は繰り返しと言っていたのを思い出す。
人手不足でどんな人材でも欲しいはずなのに、何故か採用の電話が鳴ることはなかった。更に最悪なことに近所の店の殆どで面接を失敗した為に、知っている人間が居ない気軽に行ける店はドン・キホーテくらいになった。ドン・キホーテは怖い人達が多いから行けない。
人と関わることが怖くなると言うより、それが困難になっていった。

そんな時、私はとある人達を見つけた。彼の生い立ちは私のそれと酷似していたし、障害とされるものを持っている所も似ていた。エピソードを聞けば聞くほど自分と重なった。強い共感を覚えた。そして何より、彼には弱者特有の惨めな弱さが無かった。
鬱、障害、引きこもりや不登校に関連する情報の殆どは、当事者を病人のように、弱者として扱う。弱った猫か犬のように扱い、そしてそう扱われる彼らも、憐れみを優しさだと誤認して甘んじて受け入れている。私はそれが堪らなく惨めに思えて嫌だった。
その点彼(ら)にはある種のかっこよさすらあった。悪口を言う人は他にも沢山いたが、自分の弱さや醜い所をさらけ出して、ある意味深みのある誹謗中傷をしている人は彼らしか居なかった。

引きこもりで暇を持て余していた事もあって、彼について調べて個人的なものとしてまとめた。情報はある程度体系的にまとまり、くだらないものではあったが、それなりに価値のあるものに思えた。そうして書いたnoteは思いの外多くの人に見てもらえた。ただ調べた物をまとめただけのものだったけど、それでも人に評価されるのは嬉しかった。
人と繋がりたいという欲望に気づいた。私はTwitterを始めた。

ずっとROM専だったから、ツイートするのは何とも新鮮でとても楽しかった。自分の思ったことや考えたことが誰かに評価されるというのには、たまらなく気持ち良いものがあった。沢山のいいねがついた時には、自分の過去が正当化された気さえした。何より孤独が紛れた。
鬱病の人、不登校の人、引きこもりの人、Twitterには似たような境遇の人達がたくさんいた。友達とは呼べないけど、仲良くしてくれる人も少しできた。
でも結局自分は似た出自の人とすら、関係を上手く築けなかった。インターネットは現実とは別次元の素晴らしい世界で、現実では上手く行かなくとも、インターネットでなら上手くやれると思っていた。インターネットに希望と憧れをもっていた。でも結局同じだった。人と人との関わりであることには変わりなかった。現実で友達をつくれないヤツは、インターネットでも作れない。

私はTwitterですら孤独になった。
それからTwitter界隈が持つ、特有の、全てを理解した上で道化を演じてますと言いたげなその態度や、不完全な俯瞰と客観から来る厭世的な姿勢を気持ち悪く感じるようになっていった。
自己否定をしながらも、それが結局自己肯定になっている様や、遠回しな自己憐憫、達観して言い切る短文が気持ち悪かった。

その不快感の原因がおそらく自分にある事はわかっていた。これらの特徴は全て自分がやっていたことで、だからこそ強烈に嫌悪した。自己嫌悪の延長線上にあった。自分が嫌いだったから彼らも嫌いだった。

次第に自分の好きだったアカウントが消えていった。自分が傲慢にも友達だと思っていた人達が、静かに消えていった。

私はアカウントを消した。また独りになった。
それと同時に、毎晩の不安も蒸し返した。ふとした瞬間に耐え難い不安と恐怖が襲ってくる。泣きたくなるけれど、泣くと孤独が深まってしまうし、自分は本当に一人なんだと気付かされてしまう。腐ってもTwitterにはある種の帰属感があった。矮小なものだったとは思うけれど、それでも他に居場所がない自分にとっては貴重なものだった。

今でも不安は襲ってくる。でも今はそれだけじゃない。不安を抱いていない時に感じる不安のほうが怖い。
当然将来の不安や寂しさ、その他の一般的な不安は辛い。でも、辛い時は辛いと思える。考えることを辞められる。泣いていられる。それがある種の救いになる。普通の状態の時は、現実を見ないといけない。どうしようもない現実を見なければならない。
私の鬱は実際の所もう既に治っていて、私は現実逃避するために、病んでいることを演じようとしているのだけなのだと思う。

「やってしまったことはどうしたって元に戻せやしない、と痛切に意識しながら、内心密かにそのことで己に歯をむいて噛みつき、我が身を鋸で八つ裂きにして責めさいなむのだ。そのうちに悔しさ情けなさが、ついには何かしら恥ずべき忌まわしい甘美となり、それがしまいには完全な紛れもない快楽に変わってしまう」

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)18p,ドストエフスキー, 安岡 治子

最悪で情けない苦痛にまみれた過去は、快楽になる。勿論それは苦しいし、辛い。だが同時に甘美でもある。例えば、情けないエピソードを思い出して、時にはそれをより情けない方向に脚色しながら恥じる。徹底的に恥じて、ありもしない怒りを作り出す。
別に私は、容姿や産まれに恵まれ友達が沢山いる類の人達に殴られたことも、蹴られたこともない。でも思い返すうち、殴られた事があるような気がしてくるし、いじめられた事があるような気がしてくる。
それがある種の快楽になっていく。快楽でないなら、こんなnoteは書かない。Sentimentality is being emotional for the sake of it. We're bombarded with sentiment, people emoting. That's the Let Down. Feeling every emotion is fake. Or rather every emotion is on the same plane whether it's a car advert or a pop song.

ハイデガーは存在と時間で「不安」は人間の本来的な単独さを開示し、人は不安により実存の本来性を自覚し、頽落から開放されると言った。でもそれは、彼が並外れた知性を持っていたからで、自分のような中途半端な人間は、ただ大変なだけでそこから実存を探求しきれない。

正直最近自分が生きているのかわからない。ふざけて言ってるわけじゃない。1日24時間、6畳間の中に居て、家族以外の人間と一年以上話していないと、本当にそう思えてくる。本当にわからなくなってくる。
時間の経過もよくわからなくなってくる。初めに消えたのは曜日だった。次に週が消えて、月が消えて、最近は季節もわからなくなってきた。1日が100時間のようにも感じるし、15分のようにも感じる。ダリの時計みたいな感じ。一週間前と三年前が同じに感じる。ただ一つ段々と手遅れになっている事だけはわかる。
間違いなく自分は誰の役にも経っていない。誰の意識の中にも存在していない。自分が死んでいても誰も気づかない。私が死んだほうが社会の役に立つ。虫じゃないのにグレゴール・ザムザみたいな生活をしている。変身はハッピー・エンドだったと思う。



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