vol.17|思い描いていた教室が、今、ここにある
2023年10月30日公開記事の再掲となります。
学校でのICT活用に訪れたさまざまな変化を、Google との出会いを切り口に語る本シリーズ。
今回は教育長の経験も持つ、村松 雅さんにインタビューしました。
3年前までは逗子の教育委員会にいましたが、そこでフルタイムは終了して、あくまでリタイア・退職ではなく「フリー」で活動しています。
今は逗子葉山デジタルサポーターズ共同代表としての活動もしています。具体的には、昨年度から、企業などから寄付されたPCを ChromeOS Flex で Chromebook 化して、希望する小中学生のご家庭に無償提供するプロジェクトなどをしています。他にも逗子スポーツ協会や卓球協会、デジタル庁のデジタル推進委員など色々とやっています。
テクノロジーとわたし
村松さんの テクノロジー との出会いは何がきっかけだったのでしょうか?
40年前に20代で教員になり中学校に赴任しました。
そこで「これからはコンピュータが学校に入ってくるよ」という話があり、教員6人で自主的な「コンピュータサークル」を作りました。
プログラミングや補助金申請など、それぞれが得意な分野を持ち寄って、試験日の午後などに活動していました。
そこでの私の役割は「横須賀の詳しい人」と繋がることでした。
その「詳しい人」は私も参加していたアマチュア無線クラブのメンバーでもあったことから任され、頻繁に伺うようになりました。
とても先進的な先生で、話を聞きに行くと喜んで様々な話をしてくださいました。
その話がしばらくすると「ニュース」になる預言者のような先生でしたので、多くのことを学びました。
はじめは手作業だった成績表をコンピュータに移行するなど、できることからコツコツとはじめました。
ちょっとずつ便利になり、その間にコンピュータも進化する。面白いなと感じていました。
また勤務先が変われば、手作業のままの仕事を少しづつ、丁寧に置き換える普及活動を進めました。
インターネットが学校に導入された衝撃とは?
私は国語科の教員なので、分解とか配線とかには興味がありません。
それよりも「コミュニケーション」に興味がありました。
そのため「通信」については早くからやりたいという欲があり、メッセージのやりとりは前のめりにやっていました。
それが私のインターネットとの最初の接点ですね。
そのあとはブラウザ。これも衝撃でした。
当時は「インターネットの研修」を毎年実施していたのですが、この進化も凄まじかったです。
1年目はNTT職員の方に来てもらい、その方のPCで久里浜から三鷹のサーバーを経由してインターネットと繋ぎました。
しかもNTTの人のアカウントでしか接続ができなかった。それでもインターネットの研修としては衝撃的でした。
翌年はインターネット用の電話線を引き、用意した4台のPCで研修を実施しました。
さらに翌年は16台のPCを同時稼働して、全てで違う作業をしました。
当時はブラウザで調べることが中心でしたが、驚くべき変化であったと記憶しています。今から考えると「たったこれだけ」と思うかもしれませんが、
当時の私にはインターネットが日常的にある子供たちの将来はどうなるのか、
教育は、学校はそこに向けて何をするべきなのか考えるようになりました。
信子と通
例え話で分かりやすく。カタカナは使わずに分からない人に寄り添いながらの環境
当時、他に自分よりも詳しい人はたくさんいるにも関わらず、なぜ国語科の私が推進することになったのか分からず尋ねたことがありました。
すると「詳しい人に任せたら、どんどん先に進んでしまって分からない人と差が開いちゃう。だからマニアックではない人に推進してほしい」と言われたことを覚えています。
そのため、できる限り分からない人に寄り添うことを意識して推進してきました。
デジタルサポーターズの活動に「80代のスマホ教室」があるのですが、ここでもカタカナ語は使わずに「例え話」などを上手につかって説明をしています。
当時はちょっとした小説も書きました。
タイトルはその時に流行していた「ケイコとマナブ」を捻って「信子と通」としました。
ネットワークの話を車とドライブに例えた「通信」のお話しです。
少しでも親しみやすく、近い存在と考えてもらえるように様々な工夫をしてきました。
具体的な環境整備についてはどのように進めたのですか
まずは先生たちに1台のPC、その次は中学校のPC教室の設定という順番で進めました。
小学校へのPC整備の時、教室が金魚、模造紙、植木鉢など、とても学習環境に恵まれていることに気がつきました。
PC教室に移動するのではなく、ここでPCを使いたいと思うようになった。
ひとり1台でなくてもいいから、この場でやりたくなった。
PCはマルチメディアを扱える素晴らしい端末ではあるが、中学校の教員からすると小学校の素晴らしい教室環境から引き離してPC教室で学ぶことはもったいないし、耐えられないと感じたことを覚えています。
そのため、小学校は教室で使えるノートパソコンを整備しました。約30年前の話になります。
さらに、こだわったことは「学校によって台数を変えた」ことです。
1校20台というのが目安だったのですが、在籍児童数によって30台、20台、10台と配備台数を変え、児童が触れる機会をできるだけ増やそうと考えました。
他にも様々な工夫をして環境整備を進めました。
Google との出会い
改めて、Google との出会いについて教えてください。
どこがくの小林 勇輔先生との出会いが Google との出会いでした。
三浦半島(逗子・葉山・横須賀・三浦)のPTAの役員研修会が逗子であったのですが、
たまたま教育長だったので来賓で招かれ挨拶させていただきました。
いつもであれば挨拶後はすぐに帰るのだけど、講演内容が情報関連(Google)だったので
用意された最前列の席で話を聞かせてもらいました。
内容は「ピンポン球」を投げる映像からはじまる話だったのですが、 Google やテクノロジーの話だけではなく先生や生徒が「どのように学ぶ」のかといった話に少しづつ前のめりになり、結局最後まで残って名刺交換させてもらい連絡を取り合うようになりました。
私の Google との出会いは、あの日、あの時、あの場所であったと明確に言える決定的な出来事でした。
その後、GEG のイベントにも多く参加させてもらいました。
若い先生たちがすごく楽しそうにしているので、場違いなのは分かっていましたが何度も参加させてもらいました。
そして、参加するたびにとてもいい話をたくさん聞くことができ、ひたすら刺激を受けました。
その後、六本木の Google 本社を訪問した帰りに家電量販店で勢いで Chromebook を買って帰るということもありました。
逗子はクラウドの利用も早かったとお聞きしました
様々な巡り合わせと運が良かったこともあり、確かにクラウドへの移行は早かったと思います。
このクラウド利用は Google との相性も当然良かったので利活用が推進されました。
さらに当時としてはまだ珍しいと思うのですが、校務支援ソフトもクラウド版を利用していました。
そのような環境でもあったので、許可を得れば自宅でのPCから接続OK(紙が残るので印刷だけはNG)」としていました。
するとある先生が「接続申請」をしてきたので尋ねた時の理由が印象に残っています。
「子供たちのいる教室で作業がしたい」
この先生は日頃から非常に前向きな考え方をしていたのですが、この理由には驚きました。
教育委員会は環境をつくり、現場の先生はその環境で学びの可能性を拡げる。
そうやって前進させてきたことが「ひとり1台端末」に繋がっていると感じますし、やってきたことは間違ってなかったと思います。
想い描いていた「ひとり1台」が実現した世界
いまの環境をどうみていますか?
学校に行ってICTを活用した授業を見させてもらうと、単元の内容を「どうやって理解してもらうか」という想いで端末を使っている人が多いように感じます。
それは大事なことではあるのだけれども、私はICTで「子供が選択する場面」をたくさん作って欲しいと考えています。
先生が指示した内容を一律で端末を使って授業展開するのではなく、
子供たちが必要に応じて自分の学びに適したツールを選択することができる。
その助けに、強化にICTを利活用してほしいと思うのです。
先生は子供たちより詳しくなければならないという気持ちを早く諦めて
「場をつくればいい」と気楽に考えて欲しいですね。
もうひとつは「他の生徒から学ぶ場面」を増やして欲しいということです。
どんなに説明がうまい先生でも、クラスの数名からは「隣の友達の説明の方がわかりやすい」という生徒が必ずいる。
ICT利活用することで「クラスの他の人たちからも学ぶ」という機会をたくさん作って欲しいと思っています。
なぜ Chromebook を無償提供するプロジェクトを実施しているのですか
授業は教える時間ではなく、キッカケをつくる時間であると考えています。
しかし、そこで掴んだキッカケを家で深めようと思っても帰って続きをやる環境(端末)がない。
経済的な理由で学ぶ環境に大きな差ができてしまっている子供たちに Chromebook (環境)を提供して格差を埋める。
これは教育の情報化を推進してきた人間が、フリーとなった私が関わるべきものだと、使命感をもって取り組んでいます。
保護者からの評判も良く、子供たちが端末を持つことで拓ける未来があると実感しています。
村松 雅
逗子葉山デジタルサポーターズ共同代表|デジタル庁 デジタル推進委員
中学校教員からスタートし、横須賀市で教育情報化の初代指導主事。その後人事担当を経て、三浦市教委、小学校管理職を経験し、定年退職後に逗子市教育委員会教育長として、情報化・働き方改革・コミュニケーションの促進・情報の共有化を軸にした教育行政を行った。 2度目の退職後はフリーの教育情報化サポーターとして地域のデジタル化サポート、同時に子どもの家庭でのネット環境をお手伝いする「GIGAサポートプロジェクト」を仲間と一緒に継続中。